スラムダンク

スラムダンクの続き

スラムダンク 井上雄彦
影絵が趣味
影絵が趣味

某編集者がスラムダンクの続きを勝手に考えて書いているブログをご存じでしょうか。単なるブログだと侮るなかれ、これが本当に素晴らしく、毎日のようにグスグスと目に涙を溜め、鼻からは鼻水を垂らしながら読んでいる次第であります。2011年の3月から書き始められ、もうすぐで10年、未だに書き続けられています。 当然、夏のインターハイのあと、すなわち秋の湘北高校を最初の舞台に続きは始まるのですが、牧・藤真・赤木の世代が大学に進学するあたりから時間が複雑に交錯するようになります。彼らの大学入学から一気に三年の時が経ち、4年生の牧世代。この間にいったい何があったのか。ここから現在と過去を、つまり大学編と湘北を中心とした高校編を交互に行き来しながら物語が紡がれていきます。2020年の現在では、牧世代は依然として4年生、過去編は宮城・仙道・神の代が終わり、いよいよ桜木・流川の代に移るところで止まっています。 本家『スラムダンク』もさることながら、もうこの時点で続きのほうも本家と双璧をなす一大叙事詩と胸を張って言えるほどの出来栄えに仕上がっていると思います。と、まあ、ここまでが続きの概要なのですが、続きが書かれれば書かれるほど、本家のほうがまた際立ってくるという事実があります。 以前に『ドカベン』で野球漫画について書いたとき、『スラムダンク』のことにも少し触れたのですが、『スラムダンク』は漫画というものの臨界点を超えた唯一無二の北極星に位置するような漫画だということは疑いのない事実でしょう。『スラムダンク』は単なるバスケ漫画ではない。漫画というものの全てを一身に背負っている漫画漫画と言うほうが相応しいと思います。そして、『スラムダンク』が完結した1996年から約25年の時が経ち、続きのブログが本家の魅力をさらに引き立てている。というのは、この続きが一大叙事詩であるばかりか、そのまま本家の批評にもなり得ているのです。 続きのブログを読んだ人は、その文章のなかで、桜木花道をはじめとした『スラムダンク』のキャラクターたちが生き生きとそこに現前していることに驚かずにはいられないでしょう。これは、ちばあきおの『プレイボール』がコージィ城倉の手により『プレイボール2』として運動を再開させたのにも少し似ています。ちがっているのは『プレイボール2』はあくまでも漫画として再開されなければならなかったという点にあり、『スラムダンク』の続きは文章だけで事足りたという点にあると思います。 そう、続きにおいては、たとえば桜木が「ゴリ、負けるなよ、ゴール下は戦場だぜ」と言うだけで赤木の存在がそこで浮き彫りになる。ゴリ、ルカワ、リョーちん、ミッチー、メガネくん、ヤス、シオ、カク、ハルコさん、アヤコさん、オヤジ、ボス猿、センドー、フク助、じじい、じい、野猿、ホケツくん、丸ゴリ、マル男、ピョン吉、ポール、小坊主、デカ坊主、これらのあだ名が桜木の口から発せられるだけで、ふしぎとそのキャラクターの存在が浮き彫りになってしまうのです。これらは全て桜木の主観と直感により名付けられたあだ名ですが、まずひとつ、こういったあだ名がキャラクターに役割を与えている。続きの書き手はきっと書きながら驚いていると思います。キャラクターたちが各役割に沿って勝手に動いたり話したりしてくれる、と。たとえば、湘北と陵南の試合を清田と神が偵察していたとする。 ガンッ、桜木、宮城のパスからフリーで放った得意の合宿シュートを外してしまう。 桜木「なにッ、この天才としたことが! しかし、みずからとーる!!」 誰よりも高い位置で桜木がリバウンドをキャッチ。 バシーーーッ、仙道だ! 仙道が下で狙っていた! 仙道のスティールだ! 清田「けっ、赤毛猿の野郎、ざまあみろだぜ」 神「いや、でも、いまの湘北のオフェンスは流れがよかったな」 清田「ん・・・」 神「宮城のドライブから、フリーの位置に桜木が飛び込んできただろ。はじめて流川以外のところに攻撃の起点が生まれたんだ。さっきは外れたけど、あれが決まりだしたら陵南のディフェンスは的を絞れないぞ」 清田「ぐぬぬ・・・。(牧さんの後を継ぐこの俺がNo.1ポイントガードだ!)」 宮城「なんだと!(野生の勘で何かを察知)」 桜木「ぬ。(同じく野生の勘で何かを察知)センドーは俺が倒す!」 ディフェンスに戻りながら、 宮城「おう天才、いまの動きだ。流川ひとりにやらせたくなけりゃ、ああやって動くんだ。どんどんパス回してくぜ」 桜木「当然だ、リョーちん。この天才を何だと思っているんだ(センドーもルカワも俺が倒す!)」 ためしにチョロッと書いてみただけで、こうもみんなが勝手に動いたり話したりしてくれるんです。各々がしっかりと役割を担っている。あらかじめ、こうと決められていたみたいに、これしかないという動きを繰り広げるのです。 そう、『スラムダンク』における動きは、あるひとつの方向に行くようあらかじめ定められているのです。『スラムダンク』における動きは、何かの理由があって、そのためにこう展開したというようには運ばず、あらかじめ全ての動きがあるひとつの方向に行くよう、そこに収斂するように定められているのです。 それじゃあ、『スラムダンク』はどういう方向に収斂しているのか。それは、「諦めの悪い根性」と「進化」だと思います。クライマックスの山王戦でみせたような諦めの悪さと進化、これが『スラムダンク』の全編に息づき、全ての動きがそこに向かうようあらかじめ定められている。続きが10年も辛抱強く書き続けられているのは、本家『スラムダンク』がカンブリア爆発のようにみせた諦めの悪さと進化の方向とを今日も持続させているからだと思うのです。常に進化の最前線にいる、このことが『スラムダンク』をいまでもさらに進化させていると思うのです。

奇のもの曰く

絢爛華麗で幻想的な奇術ショウ!!

奇のもの曰く 伏見篠
たか
たか

話題らしく先週のヤンジャンをチェックしてみたら無茶苦茶最高でした!! カクカクしたカートゥーンっぽくてキラキラした個性的なキャラデザと、大正・明治時代っぽい世界の雰囲気を伝える丁寧な描き込みで目が眼福…! 2人がショウを披露するシーンの見開きが圧倒的に美しい…!読者の自分も奇術に掛けられたのではと思うほど幻想的…。 尚月地先生の艶漢やあおきいっぺい。先生のパーフェクト・ガールが好きな自分には本当ドストライクのお話でした。 こりゃ連載決定だろ〜と思ったのですが、こんなにすごい作画で週刊連載が可能なのでしょうか…心配です。ウルジャンやジャンプSQ.の編集者の方、ぜひ伏見篠先生のことよろしくお願いいたします! https://twitter.com/fs_68M/status/1314081047366180866?s=20 【あらすじ】 貧民街に暮らしスリをしていた男・一灰(いっぱい)は、天勝という可憐な奇術師のショーを見たことで心を入れ替え劇場で働きだす。5年後、毎月ファンレターを出し続けていたらある日、天勝が劇場を訪れてくれたのだが、再会した天勝はかつての夢に溢れたショーではなく、エロ・グロ・ナンセンスに満ちた猟奇的な演目を行うようになっていた。 そんな現状を憂いている天勝の姿を見て、一灰が研究して習得した天勝の昔の技を披露する。それを見た天勝は座長に啖呵を切って2人でかつてのショーを行うことに…!

A・O・N

今夜「線」を超えろ!!!!

A・O・N 道元宗紀
みど丸
みど丸

プロレスをインチキと断ずる少年が最強のレスラー「アオン」になりすまし全国のレスラーに宣戦布告、真のファイトとエンターテインメントを追求する…というふうに書くとシンプルな話のスジにきこえますが、読むとなかなか曲者で独特。独特、というのが『A・O・N』に最もふさわしい言葉な気がします。 存在を知ったのもその手のマンガに詳しい友人から「パワーがすごい打ち切りマンガがあるから読んでみてくれ」と薦められたのがきっかけでした。確かに話の運びが強引すぎたり、主人公に気持ちが入りづらかったり、連載が10話で終わってしまった理由は正直言って読めばなんとなく察せます。 一方で全10話の全コマから気迫みたいなものが迸っているのも事実。クセは強いんだけど抜群にうまい絵とか、流れはなんか違和感あるんだけど勢いにあふれた台詞とか、「今それやる!?」っていう展開に全力振り絞ったりとか…。 このマンガにしか無いような圧力というか、エネルギーが備わっていて、これも読んだ方にはわかっていただけるはず…。 少なくとも自分は強烈なインパクトを受けました。気になった方にはぜひ今夜「線」を超えて読んでみてほしいです。

ファインダー―京都女学院物語―

ほぼ日常、ときどき秋本ギャグ

ファインダー―京都女学院物語― 秋本治
名無し

特別な写真家としての才能があるわけでもないし、 人一倍のカメラへの情熱があるというわけでもない。 ネコの写真を撮ろうかな、程度の気分で写真部に 入部した女子高生4人組の物語。 あまりヤマとかタニとか多くはないストーリーだが それならそれで淡々とした日常ドラマかといえば、 写真部の部長は女子高生でありながら 戦場カメラマン志望だったり、 いかにも「こち亀」の秋本治先生らしい ギャグ・キャラも何人か登場したりする。 なので日常系漫画とも評しがたい。 おかげで面白い漫画になっている部分はあると思うが。 カメラについてのマニアックな話も出てくる。 京都のフォトジュニックな街並み紹介もある。 とはいえカメラマン漫画にありがちそうな、 一生心に残る写真が撮れました、みたいなエピソードは 強く全面に押し出されてはいない。 むしろ偶然に取れた写真が評価されたり、 課題写真をこなすのにごまかしをしたり、 真面目に写真を撮っている人達からしたらオイオイと 言いたくなるような展開もあったりする。 もしかしたら秋本先生からしたら 「だって女子高生の日常なんてそんな感じでしょ」 ということなのかもしれない。 後々になって振り返ればかけがえの無いひと時だったとしても、 第三者から観たらただの日常。 常に全力でしたとか真剣でしたとか、 実は深かったとか愛が溢れていたとか、 そういうものでもないでしょ、でもそれもいいでしょ、 と秋本先生は言いたいのかもしれない。 そんな感じに達観した上で、そういう青春を良しとし、 あえてそういう世界を全一巻で描いたのかもな、と思った。