toyoneko
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約2ヶ月前
テレビを見ていたら、吉川きっちょむさんが「コワい話は≠くだけで。」を紹介していました https://x.com/kittyomz/status/1826550406824251429 紹介自体はとても良かったのですが、当然ながら未読者向けの紹介でしたので、ここでは既読者向けの考察を書きます 最終話までのネタバレと、ついでに「地獄の子守歌」と「かわいそ笑」のネタバラも含みますので、ご注意ください * * * * * * * * * * * 私、この作品に初めて触れたときは、「読者にも呪いが降りかかる」系の作品なのではないかと思ってました ストーリーが、「怖い話を『聞くだけ』の主人公(=作者)」の身の回りで、次第におそろしい出来事が起きていく、というメタ感の強いものでしたし、作品タイトルも、「聞くだけで何かが起きるでは?」(=読者にも何か起きるのでは?)と想起させるようなものだったからです つまり、令和版の「地獄の子守唄」ですね 「地獄の子守歌」は、主人公(=作者である日野日出志先生)が「狂気と異常にみちたおそるべく告白」をして、最後に、読者に向けて、「こんなおそろしいひみつをしられた以上」「きみに生きていてもらってはこまるのだ!」と叫んで、読者に対して「きみはこのまんがを見てから3日後かならず死ぬ!」という恐ろしい予言をするという漫画でした 本作についても、「地獄の子守歌」のように、「読者さん、呪われちゃったねえ」とか、そういうオチがつくことを考えていたわけです しかし結論として、この予想は外れました むしろ、本作は「除霊のための漫画」であり、「その犠牲として一部の人(=主人公)に呪いが降りかかる様子を楽しいホラーエンタメとして見届けてもらう」という作品だった、とのことです(23話) メタではあるのですが、読者が呪いを受けるのではなく、作中人物に呪いを押し付けるという、真逆の作品であったわけです 原作者である梨先生の「かわいそ笑」は、「読んだ人に呪わせる話」だったわけですが、方向性としては似ています おまけに、本作は、登場人物に呪いを押し付けたうえで、最終24話で円環を閉じることで、物語にループを作り出し、全てがその中で完結してしまう(=そこから何も抜け出せなくなる)という形で、完全に呪いを閉じ込めて、犠牲者(=主人公)の救出を不可能にしました これが、本作における作者の意図です 物語と現実は、接続することがありますが、片側通行です つまり、現実が物語を書き換えることはあっても、物語が現実を書き換えることはない キャラクターは、一方的に役割を押し付けられるだけの役割であり、このように閉じられた物語から抜け出すことはありません いやぁ良かったハッピーエンド! …だけど、本当に? そもそもですね、呪いを封じ込めるだけなら、こんな形式をとらなくていいはずなんですよね だって、読者がいなくても、除霊はできます つまり、除霊そのものが目的なら、少なくとも、商業誌で連載する必要はない これに対して、前述の「かわいそ笑」は、読むことそれ自体が呪いになるという作品であり、それこそが作者の意図でした 読者は、必然的に、呪いの共犯関係に立つことになります でも、読者は、意図して呪うわけではなく、作品を読むことで、結果として、呪いに加担することになるだけであり、読者もある種の「被害者」ではありました これに対して、本作は、前述のとおり、読者がいなくても成立するはずです では、読者は不要なのか? 実はこの点、この点、作中で言及があります 読者の役割は「楽しいホラーエンタメとして見届け」ることなんですね しかしこれは、よくよく考えると、かなりきわどい話でして、つまり、我々読者は、ホラー漫画を読むとき、作中人物がひどい/こわい体験をするのを見て、「こわーい」とか言いながら、安全地帯からそれを楽しんでいるという、そういう意味です 我々は、普段、そんなことをあまり意識しませんが、本作のメタ構造、現実と物語の一方通行性を前提に、本作における読者の役割を意識すると、そういうことがみえてきてしまいます 我々は、主人公がひどいめにあって泣いているのを見て、それをエンタメとして消化してしまっているわけで、これは実に残酷な構図です しかも、読者は、単なる傍観者ではありません そのようにエンタメとして消化すること自体が、主人公に対する加虐にもなっています (主人公は、自分の住む世界が、『楽しいホラーエンタメ』であり、 読者のみんながそれを見て楽しんでいると知って、より強く絶望したことでしょう) おまけに、「かわいそ笑」と違って、その加虐は、能動的なものです 前述のとおり、本作に限らず、ホラー漫画を読むとき、我々は、常に、能動的に、エンタメとしてこれを消化しており、ただ、そのことを意識していないだけです 本作は、そのこと、つまり、我々の能動的な加虐を、強く可視化させる作品なのです …ということを散々書いてきたのですが、これは、「自分が普段作っていたものが、実は爆弾の部品だった」と気づいたみたいな話で、そのことに気づいても、もはや取り返しはつかないわけです ではどうするか? じゃあせめてその加虐に意識的でいよう、きっちりエンタメとして消化しようと、いうのが私の結論です コミック最終巻に、QRコードがついていて、それを読み込むと、以下のURLに飛べます https://x.com/intent/like?tweet_id=1741066608448016478 私は、この作品をエンタメとして消化するために、この画像に、敢えて、「かわいそ笑」というコメントを書き込ました ただ、これが正しかったのかどうかは、今となってはよく分かりません
テレビを見ていたら、吉川きっちょむさんが「コワい話は≠くだけで。」を紹介していました
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