ゲコガール

ゲコにケロッを指南するカエル似の酒妖怪

ゲコガール 魚田南
名無し

私はそこそこに酒は飲める。 だがかつて先輩社員が新入社員に酒を強要して 急性アルコール中毒にして病院送りにして、 さらに私を下手人に仕立て上げて以来、 下戸な人に酒を勧めることは一切しない。 酒は美味しいし気分が良くなるし、 料理の味も引き立ててくれるし酒席を和やかにしてくれる。 とはいえ、酒に強い弱いは体質的な面が大きいし 下戸な人にあえて酒を勧めるよりは勧めないほうを選んできた。 なのでこの漫画は凄く面白いしタメになるのだけれども それをそのまま現実に実践する気は無い。 ましてや下戸の主人公に獲り憑いたのが ゲコっと鳴くカエル似の妖怪だとか 酒の妖怪なのに自身も一杯しか飲めないとか、 「ヒネリも深みもまるで無いじゃねーか」 「舐めてんじゃねーぞ」 という第一印象しか受けなかった。 だが下戸相手だからゲコッと鳴くカエルの妖怪かよ、 という軽すぎる印象も、後々に ケロッと鳴くシーンが登場して 「・・だからカエルか、上手いこと言うじゃねーか・・」 と妙に納得した(笑)。 このカエル似の酒妖怪の酒指南は 「いいから呑め」だけではない説得力がある。 現実にはそこまで上手く(そして美味く)は いかないかもしれないけれど うーん、そういうものなのかも、と思わせる面は感じた。 下戸な人にも酒ドリームを抱かせる美味さのある漫画 なのではないかと思った。 私は下戸ではないので、この漫画の通りに飲めば 下戸の人も酒を克服できるかどうかは判らない。 基本的には体質とか生物学的な問題だし。 というか下戸の人がこの漫画をどう思うか判らない。 だが、下戸の人でも他人に強要されずに飲むことが可能な時間とか 最悪、翌日に夕方まで寝込むことになっても大丈夫な時間とか あるならば、試してみたら、というか、 この漫画を読んでみたら、くらいにはオススメしたい。

望郷太郎

"なにもない"ところから…

望郷太郎 山田芳裕
影絵が趣味
影絵が趣味

まず『望郷太郎』というタイトルからは望月峯太郎の名前を思い起こさせずにはいられない。いまでは望月ミネタロウとして活動している、あの望月峯太郎である。彼はやはり『ドラゴンヘッド』を境に名前をあらためたのだと思う。次の連載作の『万祝』は望月峯太郎名義ではあるが、内実は峯太郎→ミネタロウへの過渡期、もしくはミネタロウ名義の作品と位置づけられると思われる。というのは『ドラゴンヘッド』を境にして、動的で黒いコマ作りが、静的で白いコマ作りに変貌しているからである。これはマンガ家としての作家性を追求するための"閉じた"姿勢であると思う。逆にいえば、それ以前の望月峯太郎は"開いて"いた。開いて世間の荒波に揉まれる方向から、閉じて自らの作家性を研磨する方向へシフトしたともいえるかもしれない。 ところで『ドラゴンヘッド』をはじめ、あるいは岡崎京子の『リバーズ・エッジ』や『ヘルタースケルター』、新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』など、90年代~2000年代初頭のある種のマンガには、いわゆる世紀末感というか、何かが崩壊してゆく感覚、良くも悪くもそういうような時代的なスペクタクルがあった。あの時代からもうすぐ20年が経ち、来年には、なんとも荒唐無稽なことに、大友克洋の霊感まったくその通りに東京オリンピックが開催されることとなったが、辺りを見渡せば、大友が描いた雑多でゴタゴタしたサイバーパンク感あふれる近未来はどこにもなく、奇妙なまでに画一的でのっぺりとした嘘明るい光景は、本来のミニマリズムが追求する引き算的な美学における完成度の高さとはまるで無縁の心身共の貧しさからくる単なる経費削減であるし、おもてなしの心を履き違えてボランティアでオリンピックを運営しようなどと寝言をいう。ようするに世界の崩壊などは起こらずに、ただずるずると地盤だけが沈下してゆき、見てくれだけはどうにかそれっぽく体裁をととのえながらも、ただ確実に豊かさは随所から消え去っている。いっそのこと世紀末に世界を崩壊させて仕切り直したほうが良かったのではと思うほど、当時からすでに黄昏といわれていたのが、いつまでも沈みきらない夏の夕日のようにいまだ延命を続けている。あの時代には崩壊させるに足る世界がまだあった。しかし、いまではそんな舞台さえ、なにもなくなってしまった。無駄を省いていたら、無駄を省いていたら、無駄を省いていたら、ほんとうになにもなくなってしまったのである。いまや望月ミネタロウのように独自の作家性を発揮する高踏派のマンガ家も安心とはいえないのではないだろうか、何しろ地盤の沈下がいちじるしい。マンガも所詮はいち産業なので、地盤がどこまでも沈下してゆけば、独自の作家性もいつしか個人の趣味と見分けがつかなくなろう。 いま、山田芳裕の『望郷太郎』は、この"なにもない"ところから新たな一歩を踏み出そうとしている稀有なマンガであると思う。キャリアを重ねて閉じてゆく作家が多いなかであえて開いてみせた山田芳裕の冒険者的な勇気に敬礼を捧げたい。マンガ表現の限界を探求する閉じた作家が重要ないっぽうで、また彼らは開いた作家によってもその地盤を支えられているのである。