「火の7日間」とよばれる戦争によって、巨大文明が崩壊してから千年。荒れた大地に腐海という死の森が広がっていた。主人公・ナウシカのいる風の谷が、恐ろしい巨神兵を使い腐海を焼き払おうとするクシャナたちに侵略された。腐海の森と共に生きようとするナウシカと、腐海を焼き払おうとする人々。だが、その腐海には、秘密があって……。 月刊アニメージュに掲載された、映画『風の谷のナウシカ』の原作コミックス。 映画のもとになったストーリーは、このコミックスのおよそ2巻目まで。原作では、映画では語られなかったナウシカの活躍を知ることができます。宮崎駿が描く独特の世界が広がる、何度読んでも感動する超大作!
読書好きな月島雫は、図書館の本の貸し出しカードにいつも見る「天沢聖司」という名前が気になってしょうがない。「いったいどんな人なんだろう…?」期待を胸に出会った「天沢聖司」は、ちょーヤなヤツだった!? 映画化された名作! 「星の瞳のシルエット」柊あおいの爽やか100%ラブストーリー!! ※このコミックスに『耳をすませば番外編~幸せな時間』は収録されていません。番外編は『バロン~猫の男爵(全2巻)』に収録されています。
とても清々しい気持ちになりました!!
人間としてあるべき姿を求め続けるコペル君とおじさんの物語。出版後80年経った今も輝き続ける歴史的名著が、初のマンガ化!1937年に出版されて以来、数多くの人に読み継がれてきた、吉野源三郎さんの名作「君たちはどう生きるか」。人間としてどう生きればいいのか、楽しく読んでいるうちに自然と考えるように書かれた本書は、子供はもちろん多くの大人たちにも共感をもって迎えられてきました。勇気、いじめ、貧困、格差、教養、、、昔も今も変わらない人生のテーマに真摯に向き合う主人公のコペル君と叔父さん。二人の姿勢には、生き方の指針となる言葉が数多く示されています。そんな時代を超えた名著が、原作の良さをそのままに、マンガの形で、今に蘇りました。初めて読む人はもちろん、何度か読んだことのある人も、一度手にとって、人生を見つめ直すきっかけにしてほしい一冊です。
谷あいの貧しい小国の後継者シュナは、実りの種をたずさえはるか西方にあるという豊穣の地を目指す……。宮崎駿がチベット民話を題材に描く絵物語。
同じ街、同じ男の子の出てくる夢を何度も見ている昌。このなつかしさは、なんで…?ある日、現実世界の街中で、夢の中の男の子を見かけた昌は、偶然、不思議な猫の人形を拾うが…?バロンとムタが再び大活躍!!柊あおいが贈るファンタジックでノスタルジックな物語。
炭鉱の町で暮らす少年パズーは、ある日空から降りてきた少女シータを助ける。謎の鉱石“飛行石”を持つシータを狙う国防軍や海賊たち。数々の試練を乗り越え、伝説の空中都市ラピュタを目指す大冒険が今始まる――。スタジオジブリ設立後、記念すべき第1作となった名作アニメーションが、完全新編集のシネマ・コミックで鮮やかに甦る!
1991年に劇場公開された宮崎駿プロデュース、高畑勲監督のアニメーション作品『おもひでぽろぽろ』の原作コミック。10歳の小学4年生・岡島タエ子は、18歳のナナ子、16歳のヤエ子、お父さん、お母さん、おばあさんの6人家族の末娘。電気エンピツ削りが欲しいタエ子は、夜、父親におねだりして、ようやく買ってもらえることになるのだが……。懐かしき昭和41年代を背景に、タエ子の目線から日常の中に置き忘れた喜びや悲しみ、楽しさをほのぼのと描く。
「人を恋(こ)うる心を初々しく描いている」と宮崎駿氏も絶賛した、高校を舞台に瑞々しく描かれる青春グラフィティ!!
堀越二郎と堀辰雄への敬意を込めた話題作実在の飛行機の設計者・堀越二郎をモデルに、その生涯と愛を描く宮崎駿監督のアニメーション。全セリフ・全シーンを一冊に収録。
伝説のアニメのシネマ・コミック高畑勲初監督作品。宮崎駿が初めて本格的に製作に携わった長篇。少年ホルスと悪魔の戦いを描く。全シーン・全セリフを一冊に収録。
漫画史というものを俯瞰してみるにあたり、その位置づけにいつも困り果ててしまう漫画家がふたりいる。ひとりは楳図かずお。彼はいったいどこから来て、どこへ行ったのだろうか。唯一、遠い縁戚として認められそうなのは『洗礼』を平成の世に蘇らせた岡崎京子の『ヘルタースケルター』のみ。彼の漫画は漫画と呼ぶには、どうもしっくりこなくて、『楳図かずお』と、カッコ付きの固有名詞をあてはめたほうが相応しいような気がする。そして、もうひとりが宮崎駿だ。 コミック版の『風の谷のナウシカ』は、どう考えてみても、漫画史において一章を丸々割いてでも語られなければならない。にもかかわらず、その位置づけにどうしても困り果ててしまうのだ。一応、縁戚としては宮崎駿自身も大いに影響を受けたと語る諸星大二郎がいる。あるいは宮崎駿とは相互に影響を受け合い、ついに娘にはナウシカと名付けてしまったメビウス(=ジャン・ジロー)がいるが、諸星大二郎はあきらかに手塚治虫の系譜からうまれているし(しかし、宮崎駿はどこから?)、日本の漫画が大いに影響を受けているのは宮崎駿ではなくメビウス(=ジャン・ジロー)のほうだ。比較的近年では、黒田硫黄を筆頭に、小田ひで次、五十嵐大介らの一派が宮崎駿の縁戚であるかのように語られているが、おそらく彼らは漫画というよりは映画から霊言を受けて漫画を描こうとしている。大友克洋が革命をもたらした記号からカメラのレンズへの変遷のような影響の受け方ではなく、映画ならではのカットの問題、このカットがいかに繋がって、いかに繋がらないかをコマの問題に援用しようとしているように見受けられる。小田ひで次の漫画では、唐突に拳銃を構えるコマがよく挿入されるが、この唐突さはまるで北野武の映画のようだ。 北野武は映画を4コマ漫画の連続のように捉えているというが、なるほどと思う。パン1、パン2、パン3、パン4、と、そのたびに何が動く。この変化そのものが重視されていて、まるで肉のない骨関節だけのヘビが連なっているかのようなザラザラした印象を受ける。たけしが血を浴びたりしても、次のカットではいつのまにか着替えていて、血がないなんてこともザラである。つまり、動き、変化の連なりが、ある種の質感をとどめておくことをしない。 それを思うに、宮崎駿はきわめて質感を重視しようとする作家なのではないか。漫画においても映画においても、物語を繋ぐための変化を描くのではなく、いつもそこにとどまっている質感を描こうとしている気がしてならない。たとえば、風や空気の質感がメーヴェの飛ぶことで描かれ、土や大地の質感がトリウマの駆けることで描かれる。とりわけ印象的なのが、森の人たちのからだを覆っているスーツの表面の質感だ。おそらく腐海の植物から作ったと思われるあのスーツの質感が物語の内容以上に脳裏にこびりついて離れないのだ。