わたしが「軽さ」を取り戻すまで  “シャルリ・エブド”を生き残って

テロを生き延びたマンガ家が示す「描く」ことの意味

わたしが「軽さ」を取り戻すまで “シャルリ・エブド”を生き残って 大西愛子 カトリーヌ・ムリス
ANAGUMA
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ここ10年くらいのあいだに、自伝やエッセイぽいバンドデシネのスタイルが、フランス語圏を中心に広く市民権を得ています。 ヨーロッパのマンガといえばメビウスやエンキ・ビラルのような、ゴツめのSFのイメージがいまだ根強い気もしますが、もっと生活に身近なテーマで軽く読める作品が近年増えているんですね。 そのなかでもダントツに「重い」実話マンガが本作。 新聞社シャルリ・エブドで風刺マンガ家として仕事をしていたカトリーヌは、打ち合わせに遅刻したことで偶然ISのテロリストの襲撃から逃れ「生き延びる」ことに。 その日から彼女の苦しみが始まります。 昨日まで一緒に机を囲んでいた仲間のマンガ家たちがみな殺されてしまったというのに、これまで通り世の中を笑い飛ばす作品を描くという、それこそ冗談のような状況で仕事をしなければならないのです。 さらに当事者のカトリーヌの心は置き去りのままに、「JE SUIS CHARLIE(わたしはシャルリ)」の鬨の声が各国であがり、いち風刺新聞であったシャルリがテロとの戦いの急先鋒に祭り上げられ世界デビューする始末。(これも悪い冗談!) そしてカトリーヌは記憶を失ってしまいます。 シャルリ・エブドがなぜ差別行為とも取れるようなドギツイ風刺を行うのか、どんな存在なのか、なぜISがターゲットにしたのかなど日本ではなかなか想像しづらい部分がありますし、いい/悪い、被害者/加害者といった単純な構造で説明できる問題ではないと思います。 僕が心を打たれたのは、彼女が再びペンを取って本作に描いたのが、犠牲となった同僚のマンガ家たちが、生きて、誠実に表現をしていた姿だったことです。 シャルブやヴォランスキといったレジェンド作家たちが築き上げてきた、シャルリというマンガの牙城に自分も加わっていたという誇らしさが表明されているのです。 壮絶な境遇におかれた彼女にしか、この「描くこと」への誇りを「重さ」をもって、世の中に投げかけることは出来ないように思います。 手塚治虫先生は『マンガの描き方』のなかで差別を行うことの卑劣さと、創作することの尊さの両方を説いています。 カトリーヌはその混沌の渦中で命を拾い、創作の手綱と仲間を失いました。 彼女は今も立ち直れていないといいます。 それでも立ち上がるために「軽く」あろうと、描くことをやめず、「美なるもの」を求める彼女の精神は、この世界で間違いなく尊ばれるべきもののように思えるのです。