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柳沢きみおは(1948年生)は新潟県出身であり,高校卒業まで新潟県で過ごしています。小さいころからなぜか漫画家になると決めており,和光大学芸術学科に入学します。しかし,在学中から雑誌編集部に原稿を持ち込んでおり,学業の方は1年ほどしか続きませんでした。
学校に行かなくなった理由は絵以外にも一般教養や外国語の授業があったからと記しています。学業放棄は実家にも知られるようになり,父親が上京し話し合いになります。父親は「大学を中退して漫画家を目指すのも良いだろう」と理解を示してくれました。
こうして大学は中退し本格的に漫画家を目指しますが,なかなかイバラの道だったようです。少年ジャンプ編集部への持ち込み原稿は没が続き,ようやく「ズンバラビン」で2回連載のチャンスをもらいましたが,人気は最下位に近いものでした。
アルバイトをしながら原稿の持ち込みを続け,24歳の時に「いい湯だな」が月刊ジャンプに連載されます。この前後に「とりいかずよし」のアシスタントとなります。「とりいかずよし」は「赤塚不二夫」門下ですので,柳沢きみおは「赤塚不二夫」の孫弟子ということになります。
アシスタントは「女だらけ」が週刊ジャンプに連載されるまでの1年間続いています。しかし,それら2作の連載が終了し,次作が打ち切りになったところで自らジャンプの専属契約を解除します。
次がダメなら田舎に帰る覚悟でしたが「月とスッポン」(少年チャンピオン)が1976年から足かけ6年の連載となります。さらに,1977年からは「すくらんぶるエッグ」(少年キング),1978年からは「翔んだカップル」(少年マガジン)の連載が始まり大変な忙しさとなります。
この時期は柳沢きみおの黄金期であり,「翔んだカップル」はギャグ漫画路線からストーリー漫画への大きな転換点となっています。しかし,「翔んだカップル」後半の重くて暗い雰囲気が作風として持続することになり,少年マガジンの次作となる「朱に赤」につながります。その後は青年誌に活動の場を移すものの人気は低迷します。
柳沢きみお先生といえば「特命係長 只野仁」を筆頭に男性週刊誌の少しお色気の入ったストーリー漫画しか連想できない方も多いでしょう。 今の作風とは真逆の存在がこの『翔んだカップル』であり、「月とスッポン」と並んで80年代のラブコメブームの基盤を作った作品だと言えます。 ドラマ、映画化もされ薬師丸ひろ子さんの初主演作でもあり、当時のマガジンの顔として認知されていました。 今読むとよくある話だなと思う方もいるでしょうが、それはこの作品が“時代の先駆者”だったからだと言えるでしょう。 後年の青春群像劇に大きな影響を与えた作品です。 「新・翔んだカップル」や「続・翔んだカップル」、21世紀に入ってから連載された「翔んだカップル21」と勇介達の後日談を描いた作品も充実しているだけに、まとめて読んでみるのもオススメです。