ネタバレ

甲子園のない夏が過ぎましたね。

それでも野球マンガを頁をめくれば、熱気で湯気の立ちそうな球場に砂塵が舞っている。

しかし、『甲子園へ行こう!』と題されたこの甲子園マンガには甲子園がありません。それは県大会の決勝で負けてしまうからなんですけど、どうでしょう。むしろ、甲子園が描かれないことによって、そこに甲子園の存在が浮き彫りになり、現前としてはいないか。

全国に星の数ほどもある高校のなかで、たったの一校を除いた全ての高校に強いられる敗戦。甲子園のトーナメント表の一校一校には47+2都道府県のトーナメントが全てぶら下がっている。トーナメントを下から追っていくから分かりにくい。優勝の頂点を逆さにして、その一点から遡ってみればいい。それはまさに分岐に次ぐ分岐、あり得たかも知れないほかの可能性の連続、これで本当に正解のかと首を傾げずにはいられないほどの無数の可能性、無数の分岐点。しかも、それはトーナメントの交錯ごとにあるのではありません。その一試合の一回一回ごとに、一打席一打席ごとに、投手の投じる一球一球ごとに、分岐点があり、あり得たかも知れないほかの可能性が存在している。あの斎藤祐樹を擁して優勝した早実の西東京大会の初戦が9回の瀬戸際まで2-2の同点だったことはあまりにも有名でしょう。さらにそれは試合の外の練習の時間にも及びます。あの夏、斎藤祐樹はアウトローに最高の一球を投げられるように練習を重ねました。そのためにインコースの練習を諦めているのです。奇しくも、決勝の駒大苫小牧戦の最後の打者マー君を三振に切ったのはそのアウトローのストレートでした。

弱小校の鎌倉西高校が、優れた凡投手の四ノ宮を擁して、激戦区神奈川の決勝まで勝ち進んだとき何が起こったのか。四ノ宮もまたアウトローへの球を鍛え上げた投手でした。そして、その最も自信のある渾身の一球を打たれてしまう。この大会、四ノ宮は7試合を完投して、防御率はなんと0.60でした。決勝のその一球がほとんど全ての勝敗を分けたといっても過言ではないのです。これがどんなに途方もないことか。

今年の夏、甲子園はありませんでしたけど、交流試合や独自大会をたくさん観戦しました。そのなかには、あのツーランスクイズで金農に負けた近江高校の滋賀県大会決勝も含まれていました。その最後の一球がいまでも脳裏に焼き付いている。近江エースの田中くんが最後の打者をツーストライクまで追い込むと、キャッチャーの長谷川くんが真っ先にここしかないだろと言わんばかりにアウトローにミットを構えたのです。そして、田中くんの最後の一球はサイン通りミットにズバンと吸い込まれたのです。

読みたい
制服ぬすまれた

この突拍子のなさを楽しむ

制服ぬすまれた
影絵が趣味
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個人的な衿沢世衣子との出会いは『コミックH』にて、原作:よしもとよしとも、作画:衿沢世衣子で発表された『ファミリー・アフェア』という漫画でした。話が好きなのはもちろんですが、コマのほとんどがアクションで構成されているような短編マンガとしては類い稀な躍動感にびっくりして、いまでも大好きなマンガのひとつにこの『ファミリー・アフェア』を挙げることがよくあります。 さて、このアクション的なコマ作りはよしもとよしともの資質でもあったわけですけど、当時のよしもとは衿沢世衣子にもこの資質を見出していたと思います。事実、のちに『ファミリー・アフェア』が収録されることになる単行本デビュー作の『おかえりピアニカ』は年頃の少年少女が描かれる青春群像のような体をなしているんですが、コマ作りはアクションそのものです。アックスでの連載になった『向こう町ガール八景』を経て、『シンプル ノット ローファー』ではアクションとともに絵柄も洗練されてきて、つぎの古地図というテーマを掲げた『ちづかマップ』でプチ・ブレイクを果たします。このテーマの新規性がウケたということがあると思うんですが、『ちづかマップ』においても屋台骨としてマンガを支えているのは、やっぱりアクション的なコマ作りだと思います。もっともこの時期には、アクション的なコマ作りというより、それを血肉にした衿沢世衣子ならではマンガ的呼吸のようなものに変質しているような気がしますけども。 衿沢世衣子のばあい、マンガを作るとき、これこれの話があって、頁がこれだけあるから、こんなふうにコマを割っていこう、みたいな作り方をおそらくしていないのではないかと思うわけです。というよりは、まずは活発なガールズに動いてもらう。それによって何らかのマンガ的事件が生じて、それに対してさらに活発なガールズが動きまわり、二転三転あって、当初からぼんやり思い描いていたこんなコマを描きたいという山場にのぼって、おりゃっと力業でフィニッシュする。有り体に言えば「ドタバタ」ということになるんでしょうけど、もっと力が入っているところは入っているし、抜けているところは抜けているし、「ドタバタ」よりも自然体でプリミティブな何か、強いて言うなら「ドタバタかわいい」とでもいうような何かが衿沢世衣子にはあるような気がします。 『うちのクラスの女子がヤバい』はタイトルからしてとても良く、衿沢世衣子の「ドタバタかわいい」さが全面に出ていると思います。そして、『制服ぬすまれた』これもまずタイトルがとても良い。このタイトルにこの表紙に、我が意を得たりって感じではないですかね。1ページ目をひらいてみれば、いきなり、まさにいきなりですよ、アイドルの衣装のようなフリフリの服を着ているガールがベンチにぽつんと座っている。もはや、ガールズに敢えて動いてもらわなくても、そこにガールズをぽつんと座らせておくだけで、コマがざわざわと躍動してしまう。この突拍子のなさ、これだけでこのマンガの楽しさは保障されたも同然だと思います。『制服ぬすまれた』という幾分かセンセーショナルなタイトルをアイドルのようなフリフリな衣装で軽~く飛び越えてしまう。で、行きずりの女性とフリフリの衣装で制服捜索に入るわけですけど、フリフリの衣装で校内を歩かせるだけでもうコマが躍動してしまうんですね。 あと、とっても好きなセリフがありました! 「私も 今日は自主練するつもりはなかったんです  でも なんか昨日の夜 燃えるボクサーの映画観ちゃって いてもたってもいられなくなって……」

ペコロスの母に会いに行く

ペコロスの母に会いに行った

ペコロスの母に会いに行く
影絵が趣味
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森崎東の追悼特集に通っている日々であります。森崎東というのは『ペコロスの母に会いに行く』を遺作にして亡くなった映画監督で、彼の撮る映画、これがまたとんでもない! 館内は幕開けから幕下りまで老若男女の笑い声に包まれるんですけど、これがしだいに笑い声と咽び泣きとが入り混じるようになる。みんなあんなに大笑いしていたのに、幕が下りて明るくなると、みんなくしゃくしゃに泣き崩れた顔を覆いながらそそくさと館をあとにするんですね。人前で泣くのは恥ずかしいですから、ピンと気合いを入れて嗚咽しそうになるのを抑えているんですけど、溢れた涙がどんどん顔をつたっていく。こんなご時世ですからマスクが涙でびしょ濡れになって、呼吸をするごとにぴたぴたと顔にひっついてきて堪ったもんじゃありません。 今回の特集は22タイトルもあり、その中には当然遺作のペコロスも入っているんですけど、まあ、22タイトルもありますから、ペコロスは公開時にも観に行っているし、ソフト化もされているから今回は観なくていいだろうと思っていたんです。 ところが、ある夜、感慨に耽りながら家に帰ってきて、名残り惜しさにユーチューブで予告編なんかを観ようとするわけですけど、森崎東の映画はほとんどがソフト化されていませんからユーチューブにも動画がほとんどないわけです。それで致し方なくペコロスの予告編をうっかり観てしまったのが時の運、館内で涙を堪えていた分、色んなものが一気に溢れでてしまって、もう嗚咽が止まらくて止まらなくてどうしましょう! そのときペコロスさんは黒い帽子を被っているんですけど、呆けたお母さんは息子を悪い人だと勘違いする。それでペコロスさんが帽子をとってハゲた頭をお母さんに見せつける。そのハゲ頭でお母さんは息子のことを認識してベタベタとハゲ頭を撫でまわす。笑えるんですけど、なんか同時に涙が止まらなくなるんです。この予告編にやられてしまって本編も観に行くことに決めたというわけです。 平日の最終回でしたから、観客はそんなに多くなくて、たぶん30人くらい。でも、主にハゲネタを中心に30人がずっと笑いっぱなしで、しかも、じぶんの座席から見えるほかのお客さんの半分くらいの後頭部が同じようにハゲあがっていて、それがとても愛おしいんです。 映画の時間が進むにつれて、お母さんの呆けも進行する。ついにはハゲ頭を見せてもペコロスさんは自分のことを息子と認識してもらえなくなる。また知らない人が来たといって暴れるんです。そのとき鎮静剤で眠ったお母さんの姿を、ペコロスさんはあの丸みのある愛らしいペンタッチで描いていく。このあたりから涙事情は相当にやばいわけです。お母さんの部屋の壁にペコロスさんのお母さんの絵がだんだん増えていく。よく撮られていたのは「母ちゃんいつもありがとう! 忘れてもよかけん、ずっと元気で!」という言葉の添えられたお母さんがピースしている絵。もうマスクが顔にぴたぴたひっついてきて堪ったもんじゃありません。 この時点ではお母さんを演じている赤木春恵とペコロスさんの絵がじつはそんなに似ていないことは特に気にもしなかったんですが、泣き腫らしながら迎えたエンドロールで、なんと、もうひと仕掛けある。撮影を見学に来られた実際のペコロスさんとお母さんのオフショットがエンドロールの脇の小さな画面に流れているんです。そのお母さんの顔がペコロスさんの描くお母さんにそっくりなんです! ただでさえもうお釣りがくるほど涙が流れているのに、そのことに気づいたときには着ていた服の衿口に顔を隠しましたよね。

マッドメン

諸星大二郎試論 ~きわめて視覚的な、きわめて即物的な~

マッドメン
影絵が趣味
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諸星大二郎といえば、民俗学的であったり、神話的であったり、異界的であったり、幻想的であったりと語られ、じっさいに柳田国男の研究書やクトゥルー神話を愛読している一面があったり、扉絵や表紙の絵などからはたしかにシュルレアリスム作家ダリの影響を彷彿とさせずにはいられない。しかし、これら数多の要素は諸星大二郎について何か説明するひとつひとつの所以にはなりえようが、漫画家・諸星大二郎を語るさいの言葉としてはどれをとっても全てを合わせてみても片手落ちになっているような気がしてならない。 さきほどシュルレアリスムという言葉を出したが、これを日本語に訳すと超現実主義となるらしい。超現実とはすなわち、現実を超えるということであり、これを画家という立場に合わせて言うなれば、目に見えない何かを描くということになるだろうか。まさしくそのようにして幻想画家としてのダリが生まれている。ところで、ある種の民俗学にしても、神話にしても、異界にしても、幻想にしても、それらはひとしく目には見えないもののはずだが、じっさいのところ諸星大二郎の漫画ほどよく目に見えるものもないのではないか。衝撃の連載デビュー作となった『妖怪ハンター』では民俗学的な切口から、いきなり異界がひらけて、ヒルコなる怪物との遭遇が為されるが、本来ならば目には見えない異界なるものが、これでもかというぐらい目に見えるように描かれている。さらなる衝撃の長編デビュー作となった『暗黒神話』では、よくよく読んでみればふざけているのではないかと思うぐらい唐突に、これまた異界がひらけて、神話の怪物がしっかりと目に見えるように描かれている。諸星大二郎という作家は、目には見えないはずの、手では触れられないはずの幻想的な何者かとの遭遇をあまりに唐突に意図も簡単に描いてのけ、しかも、それらの怪物たちはふつうの現実の人間であるところの登場人物に、まるで自身の存在が幻想の産物ではないこと示すかのように、抜け目なく傷まで負わせてゆくのである。 まさに『暗黒神話』は主人公の少年が異界の怪物と遭遇するたびに四肢のひとつひとつに傷を受ける物語であったし、『壁男』では壁男が壁ごと人型にくり抜かれて倒れてきてアパートの住人に傷を負わせるし、『鎮守の森』では男がいきなり異界に迷いこみ目に怪我を負いながら十数年も放浪したのちに汚れたそのままの姿でいきなり現実に戻ってくる。 さらには異界やその怪物ばかりではなく、諸星大二郎の真骨頂とも言うべきは、本来は目に見えるはずもない人間の内面の感情のようなものをあっけらかんと視覚的に描いてしまうことにある。まさしく『不安の立像』では不安という名の目に見えない感情が外套の影のような姿で描かれ、『夢の木の下で』ではひとの内面での変化が植物が枯れることで如実に描かれ、『遠い国から』のとある惑星ではひとがもの凄く感動したときにすぐその場で自殺をするように描かれ、『感情のある風景』にいたっては感情がそのまま目に見える文様として描かれている。 諸星大二郎の漫画はこのように幻想的であったり超現実的というより、むしろ、視覚的過剰によるきわめて体験的なものとして私たちの目に飛び込んでくる。そこで私たちは何かの幻想や超現実に想いを馳せる必要などまるでなく、向こうの方からすでにいきなり唐突に、視覚的現実としてそれが目に突き付けられている。 あるいはマッドメンや縄文人をはじめ、身体に傷を負う(入れ墨を負う)という行為は、神や異界の存在を現実のものとして視覚的に示すものだったのかもしれない。

ベンケー

理由を置き去りにする速さ

ベンケー
影絵が趣味
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1988年、さそうあきらのデビュー作にあたるのが『ベンケー』というスポーツ漫画になります。のちに音楽漫画で名を馳せるさそうあきらがスポーツ漫画でデビューしているというのは、ちょっと変な感じがしないでもないですが、おそらく1985年に同じくヤンマガからデビューしている望月峰太郎の『バタアシ金魚』からの影響があるのでしょう。『バタ金』の薫くんが下手っぴなのに水泳部に入るように、『ベンケー』の藤山弁慶くんも運動音痴なのに陸上部に入部します。『バタ金』が流行ったから、こういうテイストでいこうというのが、たぶん、編集部の側にあったんだと思います。 それでも、『ベンケー』にはすでにさそうあきらの色がふんだんに発揮されている。さそうあきらの漫画では、しばしば奇跡やミラクルと称されるような説明のつかない体験が描かれます。いわゆるフラグを立てて伏線を回収するといったような方法論はあまりとられず、山場やクライマックスにはどうも説明のつかない体験が描かれる。それがより顕著なのが、やはり音楽漫画で、じぶん自身でも涙を流しながら読んでいて不思議に思うわけですけども、じっさいに耳には聴こえてこない音楽演奏に感動している。それでいて、演奏をおこなう必然性とか、物語的な要素が感動を呼び起こしているわけでもない。 でも、今回『ベンケー』を読んでみて、そこらへんの謎がすこし解けたような気がします。弁慶くんはエスカレーターにも上手く乗れないほどの、超が付くほどの運動音痴(略して、うんち)で、そんなうんちがスプリントで世界新記録を樹立する。これだけ書くと、なんで? どうやって? という疑問が湧いてくるのが普通のことだと思うんですが、さそうあきらはそういう次元で漫画を描いていなくて、うんちが世界新記録を出してしまう理由はびっくりするぐらい何も描かれていない。ただ、最高速度で走る、描かれているのはそれだけなんです。これは音楽漫画の演奏シーンにも言えて、ただ、漫画の最前線にて演奏が行われている。そこに演奏者たちの真剣な顔がある。速く走れる理由とかそういうのはあまり関係なく、ただ、とにかく、その最前線にて最高のパフォーマンスを発揮しようとしている。理由とかそういったものからあらかじめ自由なんです。だからこそ、奇跡が起こる。 最後にセリフを引用させてください。 「ベンケーは鳥の気持ちがわかるんだろ? 鳥が空飛ぶって何だか不思議なことだと思わないか? 頭から空の隅々までが飛ぶためだけに動く・・・ だからあんなに気持ちよく飛べるんだ・・・ そんな世界が人間にあるとしたら・・・ 速く走れた時の・・・ あの感じって・・・」

昏倒少女

一本背負いをくらったかのような清々しさ!

昏倒少女
影絵が趣味
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『町田くんの世界』でお馴染みの安藤ゆきワールドがこの短編集にも活き活きと迸っています! ―まずクラッときて ―一瞬にして左右上下 ―感覚がなくなって ―それはつまり ―受け身も取れない いきなり、こんなふうに昏倒してしまう表題作の『昏倒少女』は安藤ゆきの安藤ゆきらしさというか、安藤ゆきワールドを存分に体現しているように思います。とくにこの「いきなり」というあたりがいかにも。何はともあれ、いきなり昏倒してしまうことで『昏倒少女』は安藤ゆきワールドの台風の目のなかにすでにいる。昏倒した当の本人は、まさしく台風の目の静けさのごとく気を失っているのかもしれませんが、まあ、周囲は振りまわされるわで大騒ぎになる。 町田くんという人がまさにそうでしたけど、安藤ゆきワールドでは発端がいつもこちら側にあるんです。たとえば、町田くんという人はちょっとすっとこどっこいなところはあるんですけど、その行動はいつだって何かの理由を受けて後手後手にまわるのではなく、つまり、周囲に振りまわされるのではなく、あくまでも町田くんという人がひとつの台風の目になって周りの人たちを巻き込んでいくようなところがある。町田くんはちょっとすさんだようなところがある猪原さんという人に出会う。でも、猪原さんが何か困っていそうという理由から猪原さんにアプローチするのではなくて、あくまでも町田くんがどうも気になったから猪原さんに接近していくんです。 『昏倒少女』では、頻りに「口実」ということが言われる。わざわざ保健室にプリントを持ってきてくれた橘くんに小日向さんは「そこはかとない口実感」を感じ、保健室の先生にドギマギする橘くんに「口実はわたしか」と納得する。ちょっと安藤ゆきワールドらしからぬ口実ありきの世界。でも、後にプリントを口実にやってきたことが橘くんの口から明かされる「ふつうにクラスメートなら心配だろ」と。すぐさま小日向さんの心の中で「それってそんなにふつうじゃない気がするけど」とツッコミが入ることからも明らかな、このふつうのふつうじゃなさ。 こんなセリフをすんなり受け入れてしまうほど、私たちは物語を読むうえでも、日々の生活でも、理由というものを非常に重んじていると思います。でも、安藤ゆきワールドに接していると、何だかいかにも重要そうな理由というものが副次的なものに思えてくる。理由を受けての受け身にまわった後手後手の行動ではなくて、なんかもっと積極的で直接的なものを見てみたいと思う。それこそ、唐突に一本背負いをくらったような清々しさを!

ヤサシイワタシ

悲劇でも負けていない!!

ヤサシイワタシ
影絵が趣味
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ひぐちアサの『おおきく振りかぶって』という大仕事に取り掛かる以前の貴重なラインナップその2であります。 その1の『家族のそれから』もそうでしたけれども、死がひとつのモチーフになっている。『家族のそれから』は母親が亡くなることをきっかけに物語が始まっていますが、『ヤサシイキモチ』は主人公とその恋人になるヒロインがいて、終盤でヒロインが亡くなるという悲劇のかたちが明確にとられています。でも、ひぐちアサに悲劇はちょっと似合わないというか、らしくないような感じがしますよね。 やっぱり、そうなんです。形としては古典的な悲劇を踏襲していながら、なんか、どうも負けていないような感じがあるんです。『おお振り』の野球部たちのように、ひたむき且つ賢明な「転んでもタダでは起き上がらない」精神がここにも確かに息づいている。 このことは何べんも書いているような気がしますけど、大事なことだと思うのでもう一度。ひぐちアサは、生があって死がある、というような描き方をしないんです。プラスがあってマイナスがあるんじゃないんです。プラスをマイナスが帳消しにするように、生を死がなかったことにするなんてことはあり得ないんです。 不安で不安で仕方ななくて、いっそ風船に針を刺したい、高い所から手を離したい。そういう気持ちはあるかもしれないし、じっさいに針を刺してしまう人も、手を離してしまう人もいるかもしれない。でも、どんなことだって、それは良いことでも悪いことでも、それがあった起こったということは途方もない事実として消えることがないと思うんです。確かに今はそれはないかもしれない、でも、そんなことがあったという事実そのものはいつまでもそこに残り続けると思うんです。 最後の最後に、あのすっとこどっこいで、がむしゃらで、嫌なところもあるんだけど愛おしくもあるヒロインの弥恵さんの笑顔がコマのなかに現前としたとき、生は死なんかによって帳消しできるもんじゃないと確信せざるを得ないのです。しかも、弥恵さんはとある高校球児として生まれ変わる。そう、三橋くんとして。そして主人公の芹生くんもその後を追う。弥恵さんの、そして三橋くんの手を握って安心させてあげたいのは、芹生くんであり阿部くんなのだから。

スラムダンク

スラムダンクの続き

スラムダンク
影絵が趣味
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某編集者がスラムダンクの続きを勝手に考えて書いているブログをご存じでしょうか。単なるブログだと侮るなかれ、これが本当に素晴らしく、毎日のようにグスグスと目に涙を溜め、鼻からは鼻水を垂らしながら読んでいる次第であります。2011年の3月から書き始められ、もうすぐで10年、未だに書き続けられています。 当然、夏のインターハイのあと、すなわち秋の湘北高校を最初の舞台に続きは始まるのですが、牧・藤真・赤木の世代が大学に進学するあたりから時間が複雑に交錯するようになります。彼らの大学入学から一気に三年の時が経ち、4年生の牧世代。この間にいったい何があったのか。ここから現在と過去を、つまり大学編と湘北を中心とした高校編を交互に行き来しながら物語が紡がれていきます。2020年の現在では、牧世代は依然として4年生、過去編は宮城・仙道・神の代が終わり、いよいよ桜木・流川の代に移るところで止まっています。 本家『スラムダンク』もさることながら、もうこの時点で続きのほうも本家と双璧をなす一大叙事詩と胸を張って言えるほどの出来栄えに仕上がっていると思います。と、まあ、ここまでが続きの概要なのですが、続きが書かれれば書かれるほど、本家のほうがまた際立ってくるという事実があります。 以前に『ドカベン』で野球漫画について書いたとき、『スラムダンク』のことにも少し触れたのですが、『スラムダンク』は漫画というものの臨界点を超えた唯一無二の北極星に位置するような漫画だということは疑いのない事実でしょう。『スラムダンク』は単なるバスケ漫画ではない。漫画というものの全てを一身に背負っている漫画漫画と言うほうが相応しいと思います。そして、『スラムダンク』が完結した1996年から約25年の時が経ち、続きのブログが本家の魅力をさらに引き立てている。というのは、この続きが一大叙事詩であるばかりか、そのまま本家の批評にもなり得ているのです。 続きのブログを読んだ人は、その文章のなかで、桜木花道をはじめとした『スラムダンク』のキャラクターたちが生き生きとそこに現前していることに驚かずにはいられないでしょう。これは、ちばあきおの『プレイボール』がコージィ城倉の手により『プレイボール2』として運動を再開させたのにも少し似ています。ちがっているのは『プレイボール2』はあくまでも漫画として再開されなければならなかったという点にあり、『スラムダンク』の続きは文章だけで事足りたという点にあると思います。 そう、続きにおいては、たとえば桜木が「ゴリ、負けるなよ、ゴール下は戦場だぜ」と言うだけで赤木の存在がそこで浮き彫りになる。ゴリ、ルカワ、リョーちん、ミッチー、メガネくん、ヤス、シオ、カク、ハルコさん、アヤコさん、オヤジ、ボス猿、センドー、フク助、じじい、じい、野猿、ホケツくん、丸ゴリ、マル男、ピョン吉、ポール、小坊主、デカ坊主、これらのあだ名が桜木の口から発せられるだけで、ふしぎとそのキャラクターの存在が浮き彫りになってしまうのです。これらは全て桜木の主観と直感により名付けられたあだ名ですが、まずひとつ、こういったあだ名がキャラクターに役割を与えている。続きの書き手はきっと書きながら驚いていると思います。キャラクターたちが各役割に沿って勝手に動いたり話したりしてくれる、と。たとえば、湘北と陵南の試合を清田と神が偵察していたとする。 ガンッ、桜木、宮城のパスからフリーで放った得意の合宿シュートを外してしまう。 桜木「なにッ、この天才としたことが! しかし、みずからとーる!!」 誰よりも高い位置で桜木がリバウンドをキャッチ。 バシーーーッ、仙道だ! 仙道が下で狙っていた! 仙道のスティールだ! 清田「けっ、赤毛猿の野郎、ざまあみろだぜ」 神「いや、でも、いまの湘北のオフェンスは流れがよかったな」 清田「ん・・・」 神「宮城のドライブから、フリーの位置に桜木が飛び込んできただろ。はじめて流川以外のところに攻撃の起点が生まれたんだ。さっきは外れたけど、あれが決まりだしたら陵南のディフェンスは的を絞れないぞ」 清田「ぐぬぬ・・・。(牧さんの後を継ぐこの俺がNo.1ポイントガードだ!)」 宮城「なんだと!(野生の勘で何かを察知)」 桜木「ぬ。(同じく野生の勘で何かを察知)センドーは俺が倒す!」 ディフェンスに戻りながら、 宮城「おう天才、いまの動きだ。流川ひとりにやらせたくなけりゃ、ああやって動くんだ。どんどんパス回してくぜ」 桜木「当然だ、リョーちん。この天才を何だと思っているんだ(センドーもルカワも俺が倒す!)」 ためしにチョロッと書いてみただけで、こうもみんなが勝手に動いたり話したりしてくれるんです。各々がしっかりと役割を担っている。あらかじめ、こうと決められていたみたいに、これしかないという動きを繰り広げるのです。 そう、『スラムダンク』における動きは、あるひとつの方向に行くようあらかじめ定められているのです。『スラムダンク』における動きは、何かの理由があって、そのためにこう展開したというようには運ばず、あらかじめ全ての動きがあるひとつの方向に行くよう、そこに収斂するように定められているのです。 それじゃあ、『スラムダンク』はどういう方向に収斂しているのか。それは、「諦めの悪い根性」と「進化」だと思います。クライマックスの山王戦でみせたような諦めの悪さと進化、これが『スラムダンク』の全編に息づき、全ての動きがそこに向かうようあらかじめ定められている。続きが10年も辛抱強く書き続けられているのは、本家『スラムダンク』がカンブリア爆発のようにみせた諦めの悪さと進化の方向とを今日も持続させているからだと思うのです。常に進化の最前線にいる、このことが『スラムダンク』をいまでもさらに進化させていると思うのです。

デイト

交わらない視線のメロドラマとして

デイト
影絵が趣味
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表題作の『デイト』を始めとして、南Q太の漫画のキャラたちは、大抵ひとりあらぬ方角に視線を向けている。メロドラマの描き手として、南Q太は、もうたったのこれだけのことで勝利しているといっても過言ではありません。 メロドラマですから、お年頃の男女が出合う。まあ、南Q太のばあいは、男と男のときもあれば、女と女のときもありますけど、性別はどうであれ、必ずといっていいほど出会った二人が視線をたがいに介そうとしないのです。デビュー当初から比較的ラフな線画でドライなメロドラマをいくつも描いていますが、どれもキャラの黒目には力が入っている。とりわけ、その黒目がどの方角を向いているのかが如実に描かれているのです。 南Q太はこのように視線を中心にしてメロドラマを構築する。視線がたがいに交わらないということで、そこに何かしらの関係性を描いてしまうのです。 表題作の『デイト』で言うなれば、まず交わらない視線劇の積み重ねがあり、その状況を打開するために、居酒屋の座敷で向かい合う男女、のぶおくんはテーブルの下に足を伸ばして、みどりさんのひざを小突く。これが決定的な瞬間となるわけです。視線は交わらないし、会話だって上手くいかないのは分かっている、だからこそ、この些細な行動が決定的な瞬間として利いてくる。事実、次のページで二人はラブホテルにいて、やっぱりおかしいよ、とか何とか言いながら身体を重ねてしまいます。そして、事後にはまた交わらない視線にもどってしまうんですけど、二人の関係性は事前とは大きく変わっているのです。

日刊吉本良明

永遠の放課後居残り組

日刊吉本良明
影絵が趣味
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よしもとよしとも、なんてふざけたペンネームを掲げてしまったことが全ての発端なのかもしれません。永遠の放課後居残り組ことよしもとよしともは、いつまでも漫画界から反省文を書かせられて家に帰れないのです。 大友克洋、高野文子、さべあのま、岡崎京子、望月峰太郎等からの大きな影響を受けて、遅れてきたニューウェーブとして彗星のごとくデビューしたのがこの『日刊吉本良明』になります。基本軸は、業田良家の『自虐の詩』や、吉田秋生の『ハナコ月記』の系譜にあたる同棲4コマ漫画ですね。とはいっても、どこまでが本当なのかは分かりませんけども、作者本人の生活臭が全面に押し出されていて、途中からは同棲生活や大学生活に原稿生活が紛れ込んできますから、そういう意味では漫画家漫画としても機能しています。ファンレターについて描かれた回があったと思ったら、幕間に実際に届いたファンレターを載せたりしている。メタフィクション的というか、挑発的というか、まあ、かなり挑戦的なんですよね。 それで、まあ、1ページめの初っ端から、あからさまに高野文子のジーンズの描き方で同棲する二人が描かれています。そして、ページが進むごとに、大友克洋の漫画を隣に置きながら原稿を描いているとか、『バタアシ金魚』のファンから猛攻撃を受けているとか、人の絵をめちゃくちゃパクって描いていることを隠さなくなる。そういうのをどんどん自虐ギャグにしちゃう。このように数々の作家の長所だけを寄生虫のように吸収し、すげー絵を描いていく俺、将来大物、なんてセリフまでありますからね。いっぽうでは、岡崎京子のところにアシに行く回とか、とても貴重な記録もあったりします。 で、ダラダラとしょうもない4コマが続いていくんですけど、これが不思議と滅法おもしろいんです。ギャグなんかだいたい滑ってるし、絵は人からの借り物だし、それはそうなんだけど、エルヴィス・コステロのPump it upのポスターが部屋に貼ってあったり、XTCのセーターで喧嘩したり、妙にディティールが行き届いていたりするのが憎めないんですね。その後、よしもとよしともは何本かの何とも言えない中編を残して消えてしまい、今となってはテレビ番組の『消えた天才』みたいな状態になっていますけど、デビュー作の『日刊吉本良明』をはじめとしたいくつかの漫画には荒削りで未完成なところが多分にありながら妙な魅力が記憶に残って離れないんです。 たぶん、よしもとよしともという漫画家は、漫画というものを見る目と想起する才能には溢れていたけれども、致命的なことにそれらを自らの手で具現化する体力みたいなものが欠けていたんだと思うんですよね。そういう意味では江口寿史に似ているのかも知れません。そんなこんなで決定的な傑作を残せないまま、いまだに放課後居残り組として家に帰れないでいるわけですけど、じつは二本だけ隠れた大傑作を残しています。 黒田硫黄と組んだ『あさがお』(『大王』収録)と、 衿沢世衣子と組んだ『ファミリー・アフェア』(『おかえりピアニカ』収録) がそれにあたります。両方とも、よしもとよしともがネームまでを描いている。しかも、それらの収録された二冊の短編集は、黒田硫黄にとっても、衿沢世衣子にとっても、ともに単行本デビュー作にあたるわけです。これはただ事ではないというか、なんて怖ろしい目利きをしているんだろうと驚かずにはいられないのです。数打って当たった二本ではなくて、めったに仕事をしなくなったよしもとが重い腰をようやくあげて選んだ二本ですからね。 しかし、まあ、かれこれ10年くらいは沈黙しちゃってますから、そろそろ次の反省文をしたためてもらいたいものですなあ。

初恋甲子園

バカさと、クサさと、ロマンチスムとが、てんでバラバラの全方向から襲いかかる!

初恋甲子園
影絵が趣味
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いやはや、これまたとんでもない漫画に出会ってしまいました。その名も『初恋甲子園』。あだち充と、原作者のやまさき十三の最初期の漫画になります。もう、この漫画の良さをいったいどう語ればいいのか、困り果ててしまうというのが正直なところなんですけど、とにかく訳が分からなくて、とにかくもの凄いんです。 甲子園に例えるならば、まず野球があって、ブラバンの音楽があって、チアリーダーの踊りがあって、応援団の声援があって、甲子園のサイレンがあって等、とにかく色々な要素がごちゃまぜになって甲子園というひとつの魅力を形作っていますよね。一筋縄ではいかないんです。あの混沌としたカオスな空間に誰もが魅かれてやまないわけです。 そして、まあ、この『初恋甲子園』もひと言でいえば、カオス。なんですね。エドガー・G・ウルマーというアメリカの映画監督を黒沢清が評した言葉に「映像と音と俳優と物語とが、てんでバラバラに全方向から襲いかかる。ウルマーの想念が猛獣のようにのし歩く。実はこれが映画本来の姿だった」というのがあるんですけど、『初恋甲子園』を読んですぐにこの言葉を思い出しました。映画というのは元々が大人数のスタッフによる分業制ですから、てんでバラバラなのはある意味当然なんですよね。それにつき、漫画はどちらかといえば一人で描かれがちなんですけど、漫画はそもそも映画を、当時は活動写真と呼ばれていたものを発端にしている。手塚治虫はやはり無類の映画好きでしたし、特にチャップリンの映画から漫画の描き方を学んだようなことを言っています。なので、漫画のなかにも映画の呼吸というやつが息づいていても何ら不思議ではないんですね。 『初恋甲子園』は、漫画にしてはめずらしく作画と原作の分業制をとっています。で、このやまさき十三という原作者は、もとは映画監督志望の若者で、映画会社で10年近く頑張っていたんですけど、色々あって監督への道を断念している。それで、まあ、脚本とかも書いていたし、映画の原作が書けるのなら、漫画の原作も書けるだろうということで漫画界に流れてくるわけです。さすが10年も映画会社で叩き上げただけあって、やはり映画の呼吸というやつが染み付いているんだと思います。彼はのちに100巻を超える大連載になる『釣りバカ日誌』で原作者として大御所になりますけど、『釣りバカ日誌』といえば、やはり、『男はつらいよ』と並んで国民的な映画シリーズにもなっているわけですから、映画の代名詞でもあるわけです。ある意味で、映画から離れて、映画に返り咲いた人といえるのかもしれません。 そんな彼の原作をもとにあだち充が描く。あだち充は、この頃から完全にあだち充として完成しています。冒頭の描写に、主人公の女子マネが「ブォーッ」という擬音とともにバスに乗っていて、その横の歩道をチームのバッテリーが走って練習に向かっている、女子マネは窓から二人に手を振っているんです。はい、もうたったこれだけのさわやかな朝の描写で、何か不吉なことが起こってしまう、くわばら、くわばら、と思わずにはいられないものが、やはり、あだち充にはある。さすがにピッチャーが死ぬことはありませんけど、やっぱり不吉なことがあれよ、あれよと起こってしまう。 ネタバレになってしまうので多くは語りませんけども、まずこういった、いかにもあだち充らしいドラマの筋立てがあるわけです。だけど、あだち充のキャラたちは基本的にはめげないというか、明るいというか、脱力しているというか、飄々としていますよね。こういった土台の上に、突如として異質なものが紛れ込んでくる。サンデーを主な活躍の場にしたあだち充の売りって淡白な雰囲気だと思うんですけど、そこに突如として過剰にバカげた演出や、クサすぎる演出や、叙情たっぷりの演出が矢継ぎ早に挿入されるんです。ときには、うわッと目を背けたくなったり、大笑いしてしまうんですけど、とにかく異様なパワーに圧倒されて、最終的には何かヤバイ漫画を読んでしまった、と、なってしまうからこの漫画は怖ろしいんです。必読!!!

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