劇画・長谷川 伸シリーズ

劇画・長谷川 伸シリーズ

劇画・長谷川 伸シリーズ 小林まこと 長谷川伸
名無し

長野県伊那市には「伊那の勘太郎」というヒーローがいます。地元のヒーローがどんなものか、調べてみたら、戦中の大ヒット映画『伊那節仁義』の主人公で、いわゆる「股旅もの」の「侠客」とのこと。いわゆる……といわれても、「股旅」も「侠客」も現代っ子の私にはよくわかりません。果たして侠客とはなんなのか?ヤクザものとは違うのか?どのあたりがヒーローなのか?時代劇素養の全くない私にも「侠客」のカッコ良さを教えてくれたのがこの「劇画・長谷川 伸シリーズ」です。  長谷川伸の書いた戯作を素材に小林まことが漫画として構成したこのシリーズは、『関の弥太っぺ』『一本刀土俵入り』『沓掛時次郎』『瞼の母』の4作品があります。『関の弥太っぺ』『瞼の母』の名前ぐらいは、アーリーゆとりの私でも聞いたことがありましたが、中身は当然、知りませんでした。  読み終わって、なぜ「股旅もの」があんなにも人々の心を掴めたのか、わかったような気がします。どの作品テーマとして描かれるのは、男と女、親と子、男と男の、損得や欲望を越えた情です。  『沓掛時次郎』の主人公・沓掛の時次郎は流れ者です。一宿一飯の恩義のために、見も知らぬ男・六ツ田の三蔵を斬ることになります。一騎打ちの末、なんとか三蔵を倒した時次郎は、今際の際の三蔵から、妻おきぬと子・太郎吉のその後を託され、雇い主を裏切り逃走劇がはじまります…。  追っ手から逃げ続ける辛い旅のなかで、段々とおきぬに心惹かれていく時次郎ですが、それを言葉にすることはありません。自分が斬った男の妻と思い、気を使いながら旅を続けます。おきぬも時次郎の気持ちに気づいていますが、気を使う時次郎のことを思い、口に出せません。そんな微妙な関係がとてもよいのです。そんな二人の関係にも、やがて変化の時が訪れます。三蔵を斬ってしまった自分に踏ん切りをつけるために刀を捨てていた時次郎は、身重のおきぬのために再び刀を手にするのですが…。ベタといえばベタな展開ですが、最後の最後まで心を揺さぶられっぱなしです。  話もそうですが、絵も本当に素晴らしい。どのコマも躍動感あふれているのですが、特に殺陣は本当にかっこいい。腰を下ろすヤクザものの構えから白刃が何度も交わされ、そして一瞬の決着へと繋がる…本当に動画を見ているような気持ちになります。個人的には合羽をバサッと跳ね上げるシーンも好きですね。ただそれだけの動作で主人公たちのカッコ良さが際立つのです。義を胸に生き、自分のした事が受け入れられなくともかまわない、そんな男たちの背筋がはっきりと出ているのです。“カッコイイ”とはこういうことだ。そんな気持ちになりました。

大砲とスタンプ

戦争という極限状況で、何よりも大事な物資を手配する兵站を描いた作品

大砲とスタンプ 速水螺旋人
名無し

学生の頃、友達の家にものすごいヨレヨレのエロ本の切れ端が置いてありました。あまりにも使用感丸出しで、若干引きながらも聞いてみると、「ひと夏の思い出なんだ」と彼は遠い目をしながら言うのでした。後からわかったのですが、それは山岳部の一月続く縦走の際に持っていたものとのこと。危険な山では、水と食料が最優先。一冊まるごとエロ本を持っていくことができないので、お気に入りのページを切り取って隙間に詰め込んでいたとのことです。なんだか、エロ本の切れ端が崇高なものにみえてくるではないですか!普段の生活で、我々はすぐ物が手に入る状況にいるのだなあと思い知った経験です。  戦争という極限状況で、何よりも大事な物資を手配する兵站を描いたのが『大砲とスタンプ』という作品です。この作品を読むと、補給線の大事さと、正論をタテに物事をうまく進める方法が同時に身につきます。  兵站軍は、輸送や補給を主な任務とし、直接戦闘に参加することはそう多くありません。ひたすらデスクワークの連続で他の部隊からは「紙の兵隊」と揶揄されています。  主人公はマルチナ・M・マヤコフスカヤ。アゲゾコ要塞補給廠管理部第二中隊に配属された女性少尉です。  戦場ではしばしば、現地の状況とかけ離れた命令を、少しの不正で上手く回らせていたりもしますが、彼女はそれを許しません。たとえ食糧が尽きた非常事態だろうが、奇襲をうけた戦闘状態だろうが「責任問題ですよ!」といってかき回していく四角四面の女。実際にいればかなりイヤなタイプです。   彼女のその並外れたクソ真面目さと融通のきかなさが騒動の素となり、時には武器になっていくのです。  あるとき、憲兵隊に睨まれた第二中隊は、ついに彼女に本気をださせることにします。「手を抜かず存分にやれ」といわれた彼女は、書類のつづりの間違い、書式の違い、ハンコの薄さなど、ありとあらゆる普通の人はどうでもいいことを指摘し伝票を突っ返し続けます。マルチナの言うことは言い返すことのできない正論。やがて憲兵隊の仕事はマヒしてしまうのです。ついに憲兵隊から「あの女は悪魔です!」と呼ばれるマルチナには悪意はなにもないのです。ただルールを守ることが彼女にとっての正しさなのです。  伝わっているいるはずの話が伝わってないとか、現場でいつのまにか独自ルールができていたりとか、やたら官僚的な人間によって引っ掻き回されてしまうとか、組織である以上、軍隊も会社となにもかわりません。ガタガタしながらもなんとなく組織が機能してしまうんですね。  戦場という極限状況でも、今の我々と変わらず命令ひとつで右往左往してしまう、そんな滑稽さがこの漫画にはあるのです。

先生と僕~夏目漱石を囲む人々~

先生と僕

先生と僕~夏目漱石を囲む人々~ 香日ゆら
名無し

新選組BLに伊達政宗×真田幸村…、腐女子の人たちは元気だなぁと思う僕も、三国志武将美少女化だの、大戦エースパイロット美少女化だの、艦隊美少女化だの、そういった作品を楽しんでいるので、まったく人のことはいえないわけです。それにしても、いわゆる擬人化(とても幅がありますが)は、面白い作品が多いですね。元になる“キャラクター”の関係性がしっかりしているから、作品自体も面白く、はまっていくと元ネタ・オリジナルへの興味が湧いてくるという一粒で二度美味しいのが擬人化作品なのです。  『先生と僕~夏目漱石を囲む人々~』は、夏目漱石とその周囲の人間たちのエピソードを4コマで描く作品です。夏目漱石について全く詳しくない僕からみても、相当な資料を読み込んだ上で描かれていることが容易に想像がつくほどの情報がつまっております。膨大な情報の中から、漱石と彼を慕う人たちの細かな人間関係の機微が浮かび上がってくるのです。  同輩の正岡子規や中村是公に見せる顔と、教員時代の教え子にあたる松根東洋城や小宮豊隆に見せる顔、ずっと年の離れた芥川龍之介にみせる顔はやはりちがいますし、彼らの夏目漱石への慕い方もまた違います。そういった人間関係の機微に焦点を合わせたこの作品を読むと、どんどん夏目漱石コミュニティのファンになってしまうのです。  数多くの登場人物のなかでも、一番気になるのは寺田寅彦です。物理学者としても随筆家としても著名な寺田寅彦は、熊本の第五高等学校時代に教師だった夏目漱石と出会います。漱石と寅彦は、師弟であり、また友人でもあり、『先生と僕』でも漱石にとっての特別な人間として描かれています。  漱石門下のみなが、「誰が一番漱石に愛されていたか」を語る時、もちろん皆が「自分が一番」といいますが、それは寺田寅彦は別格として。用はなくとも先生に会うためだけに家に行き、忙しいといわれても帰らず、行ったからといって何をするでもない。なんなんだお前は…と言いたくなるほどマイペースです。  そんな寅彦と漱石のエピソードで一番心に残ったのが、正岡子規と今生の別れをする話です。ロンドン留学が決まった漱石が、病床の子規を見舞おうとします。これが2人が会う最後の機会…。漱石はそこに寅彦を一緒に行こうと誘うのです。2巻に収録されたこのエピソードからは、漱石と寅彦、ふたりの思いやりが交錯して、なんともいえない気持ちになります。あえて言葉にすれば“萌え”。  膨大な資料に則って描かれる『先生と僕』がなぜ、擬人化作品なのかといえば、“人物”が“キャラクター”として生まれ変わっているからです。作者によって歴史上の人物から生まれ変わったキャラクターが織りなす関係性の楽しみ。寺田寅彦の写真を検索して微妙にガッカリしている場合ではないのですよ!

風雲児たち

連綿と連なる歴史

風雲児たち みなもと太郎
名無し

中学時代、あまりに田舎すぎてエロ本を入手できなかった私は、思い余って図書館で林美一先生の春本解説本に手をだしました。そこには「好色一代男」など有名作品はもちろん、もうタイトルも思い出せないたくさんの作品が紹介されていました。その中で、ひとつだけ『長枕褥合戦』という作品は覚えています。たしか、北条政子と弓削道鏡の血を引く男があれやこれやする話だったように思いますが、この作者が実は平賀源内だったと知ったときはたいそう驚きました。江戸時代にエレキテルを発明して見世物にした、色物親父ではなくて、本物のイロモノ親父だったとは…。もちろん平賀源内の功績はそれだけではありません。多才な平賀源内の具体的な人物像を知ったのが『風雲児たち』です。  『風雲児たち』の連載開始は1979年で、30年たった今も続いています。当初は幕末だけを描くはずだったのが、幕末にいたる様々な伏線を根っこをちゃんと描くため関ヶ原の戦いからはじめたという経緯があります。その結果、260年以上におよぶ江戸時代の通史に『風雲児たち』はなったのです。  そこには教科書の味も素っ気もない、のっぺりした記述では知りえなかった数多くの魅力的なキャラクターが登場しています。保科正之、田沼意次、高山彦九郎、江川太郎左衛門英龍などなど、枚挙に暇がないというのはまさにこのこと。  彼らが魅力的なのは、信念をもっている人間として描かれているからです。その信念が、個人的ものであれ社会的なものであれ、こうしたいという信念をもち、抗う姿に心が動かされるのです。江戸幕府という、全体としては250年以上も続く安定した社会には、細部では様々な矛盾や齟齬や一部の人間の犠牲がありました。変化をとてもいやがる社会の目を気にせず彼らは彼らが思う最善を尽くす…。そのような“風雲児”が描かれた物語が面白く無いはずがありません。  連綿と連なる風雲児を追っていくことで知らず知らずに江戸時代の歴史の“流れ”がわかる。そういった稀有な作品なのです。

片喰と黄金

この歴史マンガが今熱い。

片喰と黄金 北野詠一
兎来栄寿
兎来栄寿

毎月行われている #新刊を語る会 という集まりで、先月の新刊として今日最も多く集まったのはこの作品でした。 現代日本に暮らす私たちの多くは毎日ご飯をお腹いっぱいに食べられることを当たり前だと思っていますが、それがどれだけ人類史的に見て稀有で貴重な状況かということを改めて考えさせられます。 舞台は19世紀。余りにも極まった貧困故に日々の食べる物にも苦労している主人公がアイルランドからゴールドラッシュに沸くアメリカへ渡って一攫千金を狙う物語。 まず、絵が良いです。すっきりと読み易く、それでいていざという時の表情や迫力も十分。マンガとして純粋にレベルが高く、引きつける力が備わっています。 今は読者の目が厳しく少しでも考証的におかしい所は突っ込まれる時代ですし、当時実際にあった事件や差別の描き方にも細心の注意を払わねばならないので昔にくらべて歴史マンガもやり難い時代かと思います。そんな時代にあって、帯で野田サトルさんが語るようにこうした骨太で面白い歴史マンガを送り出して下さる心意気に感謝です。 歴史マンガでありながら、ゴールデンカムイのように歴史に詳しくなくとも楽しめるので誰にでもお薦めできます。

ふしぎの国のバード

『日本奥地紀行』を書いた冒険家イザベラ・バードの物語

ふしぎの国のバード 佐々大河
名無し

漫画と現実は違うんだよ!とわかってはいるのですが、歴史物の漫画を読むと本人画像を確認してしまいます。高杉晋作や坂本龍馬、土方歳三なんかの写真は、フィクションイメージと変わらず格好良さですが、沖田総司はちょっとどうなんでしょうか。そら豆に似ています。漫画で綺麗に描かれているば描かれているほど、現実の落差に勝手に苦しんでしまうのです。  では『ふしぎの国のバード』に描かれているイザベラ・バードの実物はどうでしょうか。調べてみましたが、とても美しい写真が多いのです。ただ、美しいよりはむしろ強そう印象が…。それもそのはず。彼女は明治初期の日本に来て日本中を周り『日本奥地紀行』を書いた冒険家なのです。  『ふしぎの国のバード』は、イザベラ・バードが日本に到着したところからはじまります。イザベラ・バードは『ハワイ諸島探検記』や『ロッキー山脈踏破行』を著し、冒険家として既に名を成していました。鎖国をやめたばかりで何もかもがベールに包まれた日本、さらにその最北の蝦夷に興味を持ってやってきたのです。  しかし、言葉もなにもわからないのでは満足に取材もできません。文化風俗に通じた、有能な通訳がどうしても必要です。そこに現れた男が伊藤鶴吉という男です。誰よりも英語が出来、なにより蝦夷地にいったことがあるということで、イザベラ・バードは伊藤を雇い、二人の珍道中がはじまるのです。  バードにとって、全くの未知の世界である日本は興味を惹くものばかりで、建物も人も何もかも珍しく、すぐに驚き興奮してしまいます。それを「慣れて下さいバードさん」と表情を変えずに言う伊藤鶴吉の組み合わせが非常に小気味よいのです。  しかし、バードが目撃するのは、良い所ばかりではありません。西洋にくらべ、非常に不衛生だったり、人権意識がなかったり。そんな日本を下に見る西洋人もいて、バードの無謀を笑ったりもする。  開国を初め、かつての姿が消えていこうとしている日本の光と影、両方を西洋人のバードと日本人の伊藤が目撃していくのです。  クールでそれていて細やかな心遣いができるいい男、伊藤が実際にどんな顔だったのかは、ご自身で検索してください。

拳闘暗黒伝セスタス

壮大な歴史格闘劇!

拳闘暗黒伝セスタス 技来静也
ひさぴよ
ひさぴよ

紀元50年頃、ネロ帝の時代の古代ローマを舞台に、少年拳奴セスタスが拳闘を通じて過酷な運命に立ち向かう物語。奴隷のセスタスに自由は無く、奴隷主にこき使われながら、拳闘の練習に励みつつ、試合があるときは闘技場に連れて行かれ、命懸けで闘わされます。負けた敗者は即処刑されることもあり、生きるためには絶対に勝ち続けなければいけない…。『拳闘暗黒伝セスタス』では、常に緊張感が張り詰める展開が多いです。 体格もメンタルも弱々しいセスタスは、師匠ザファルの指導によって少しずつ腕を磨いていくのですが、その指導法というのが、完全に近代ボクシングや格闘技の理論がベースになっていて、非常に合理的で、素人の私にも分かりやすい説明になっています。(古代ローマにそんな技術があったかどうかは置いといて)現代の技が、古の強者達に果たしてどこまで通用するのか?という魅せ方は、この漫画において最も面白い部分のひとつだと思います。そして、ザファル先生によるアドバイスと至言の数々は心に刺さるものがあります…。優しい純粋なセスタスと、厳しい指導者(トレーナー)との関係性には唯一無二の素晴らしさを感じます。 格闘技漫画でもあるのですが、同時に壮大な歴史ロマンにも溢れていて、愛憎の念が入り混じった濃い人間ドラマもあり、といろいろ盛り沢山の漫画です。 特に、時代考証については、背景の一つ一つ、衣服や食事など細かいところまで描かれ、ローマ、カプア、ポンペイ、ナポリなどの都市文化の描き分けは見事です。名著「ローマ人の物語」(塩野七生)を読んでいるとより深く楽しめると思います。必ずしも格闘技メインの話とはならないのですが、基本的にはセスタスと、ライバルであるルスカやエムデン、そして皇帝ネロを中心としたビルドゥングスロマンであり、彼らを取り巻く複雑な人間関係が物語に奥行きを与えています。 男だらけのマッチョ漫画というわけでもなく、美しい女性も多く登場します。悲劇的でロマンティックな恋愛模様を楽しむも良しです。ネロの母であるアグリッピーナの人物描写は本当に凄くて、そこだけでも別の漫画として成立する面白さです。一人ひとりのキャラクターについて語りだすとキリがないのですが、とにかく多彩な人物がひしめき合っていて、それぞれの人生を必死に闘っているのがセスタスという漫画なのです。

ナポレオン ―獅子の時代―

ナポレオン 獅子の時代

ナポレオン ―獅子の時代― 長谷川哲也
名無し

いやあ、最近は優しい作品が多いですね。人が人を思いやり、思いやりがゆえに傷つけてしまう……。そんな、ナイーブな作品が話題になるので僕もよく読んでいるのですが、どこか違和感を感じています。プランクトン男子と呼ばれた“俺の中の獣性”(そんなものがあったんだ!)が、ナイーブ作品をどこか鼻で笑っているのです。  この『ナポレオン ―獅子の時代―』を読むと、思いやりとか人を傷つけないとか、どうでもよくなってきますね。ホント。なにしろ男も女も、自分の欲望に忠実な、サイコーにファッキンな野郎しか出てこないのです。  その中でも最も欲望が強いのが主人公のナポレオン・ボナパルト。フランス革命に乗じて徐々に頭角を現す彼は、ぶっちゃけフランスのことなんてどうでもよいと思っています。彼が求めるのは、ただひたすらに名誉と栄華なのです。それまでの王制では決して出世することができなかったナポレオンは、フランス革命の混乱に乗じて出世していくことになりますが、このフランス革命の描写もすごい。  様々な政治派閥が割拠し権力者がくるくる変わる状況のなか、たくさんの血が流されます。みんなが大好きなロベスピエール(童貞)が、その清廉さ故にたくさんの人を殺し、恨まれ、結局は処刑されてしまうテルミドールのクーデターは大スペクタクル。結局その後釜となったのがポール・バラスという、女とお金が大好きというクソ野郎というのも皮肉です。そんな内憂外患なフランスで、ナポレオンは対外戦争の勝利という功績をもって、軍人としても政治家としても出世していくのです。  ナポレオンの覇道を支えるのが一癖も二癖もある将校たちです。「マッセナは奪うのだ!」と略奪大好きなマッセナ。小男のちんちくりんで非常に細かい性格をした参謀・ペルティエ。上半身素っ裸で自分のことを「おり」というオージュロー。ベッドの上と馬の上以外ではボンクラな伊達男の騎兵・ミュラ。重厚な身体と性格、そして禿頭が特徴の「不敗のダヴー」などなど。どいつもこいつも人の生命・財産など、どうでもよいと思っている奴ばかり。そんな人間的にはどうしようもない彼らが、美しい戦争芸術をやってのけるのです。  なかでも惹かれるのがランヌという将校。他の将校と比べて、真面目な性格をしています。しかし、その実直さは度を越していて、一旦糸が切れてしまうとどんな残虐な行為もできてしまう男です。部下からは「絶対この人は変だ」と言われながらも慕われています。  エジプト遠征の時のランヌとナポレオンのエピソードは秀逸です。ナポレオンの妻ジョセフィーヌは敵国イギリスの新聞にも書かれるほど、放蕩生活で有名な女。遠征先のナポレオンは気が気ではありません。ランヌはナポレオンに「俺と女房は 愛で結ばれている 俺にとって女房が世界一いい女だ」と持論を述べます。そんな、彼にも、現地民が反乱を起こし、絶体絶命の最中にさらに最悪な連絡があります。「フランスから……女房に子供ができたそうだ」彼らは戻る手段もないエジプト遠征の最中。1年も会っていません。ナポレオンとランヌは言います「結論――女なんてクソだ」「そうだ」この描写になんともいえない笑いを感じました。  彼らは戦争という大きな国家の問題も自分の女の問題もすべて“自分の欲望”という一つの土俵で考えているのです。この『ナポレオン ―獅子の時代―』が描いているのは個人の欲望です。清廉潔白な思想も、「法律は守れ」と叫ぶ男たちも、「マッセナは奪うのだ」という叫びも、それは彼らの欲望から生まれたもの。だから揺らがないし、魅力的なキャラクターとなっていくのです。  授業では教えてくれない、欲望から見たフランス革命とナポレオン史を学べる稀有な漫画です。人々の欲望の連続こそが歴史なんだったんだ!