この小さな手

受け入れられないぶん祈りたい

この小さな手 郷田マモラ 吉田浩
野愛
野愛

完全なるフィクションだったらよかった、原作者と切り離して読むことができたらよかった。 事件のことを描くわけにはいかないのも、漫画として読みやすく成立させなければいけないのもわかるけど、なんだか受け入れきれないでいる。 作中の主人公も相当に愚かな男だ。 自覚ないまま親になってしまい、子どもが産まれても変わらずにいる。 妻が事故で意識不明になって、やっと妻の苦労に気づく。子どもを施設に預けてしばらく経って、やっと父親の自覚が芽生える。 完全なるフィクションだと思って読んでいたら腹が立つほど愚かだけど、逆に原作者の人となりと結びついて納得できる。 どんな悪い人もだらしない人も優しさや悲しさを抱えている。傷ついても傷つけても人は絶対にやり直すことができる。 それは当たり前だけど、当たり前だからこそ受け入れられないこともある。 子どもを思う気持ち、妻を思う気持ち、そこは真実なんだろうなあ。だからこそやるせないなあ。 わたしは郷田マモラの作品が好きだ。弱くて傷つきやすくて優しい人なんだと思っている。 傷ついた人も傷つけた人もみんな傷が癒えますように。優しいままであり続けられますように。やり直せますように。

アトモスフィア 完全版

ふざけんななんて絶対言ってやらない

アトモスフィア 完全版 西島大介
野愛
野愛

西島大介はとんでもなく悪いやつだ。なんとなく恐ろしくて意味があるのかないのかもわからないけれど、雰囲気だけだろと言い切る勇気すら奪うような作品を生み出すのだから絶対に悪いやつだ。 なんて、全部全部言いがかりだけども。 ある日、わたしの前にわたしの分身が現れる。恋人も家族も居場所もすべて奪われるけれど、わたしは一切取り乱したりしない。「ふざけんな」なんて絶対に言わない。 わたしは全てを赦しているから。 そこにあるものを受け入れること、赦すことは救いだと思っている。怒りなんて生産性のない感情を手放し、ただそこにあるものを見つめる。自分にとっても世界にとっても正しいことだと思っている。 この考えを手放すつもりはない。そうでなければ自分を保てないと思っている。 この広い世界のどこかで手放した自分が自分として生きていたらどうしよう。 飲み込んだ言葉が、切り捨てた感情が実態を持って生きていたら。殺した自分が生きていて、自分の目の前に現れたら。 そんなことある訳ない。 でも、作品中のわたしだってそんなことある訳ないと思っていたはずだ。 自分は自分である。誰にもわかってもらえなくても自分だけはわかっている。 曖昧にして唯一の揺るぎない真実だと思っていたことを、いとも簡単にぶち壊しにきた。ぶち壊して怖がらせるだけ怖がらせといて、最後の最後は電源をぶちんと切るみたいにぶん投げて終わる。こんな終わり方信じられない。本当に本当に西島大介は悪いやつだ。 でも赦す。

私の彼女

小説家とそのファンの束縛百合…

私の彼女 南Q太 デルフィーヌ・ド・ヴィガン
ANAGUMA
ANAGUMA

ときいて飛びついてしまったのですがことはそう単純ではありません。 ベストセラーを書き上げたあと、スランプに陥った主人公の小説家・ユウが出会ったのは自身のファンを名乗る不思議な女性・エル。お互いの悩みや身上を打ち明けるうちにふたりの距離はどんどん近づいていき、エルは書けなくなってしまったユウに対してゴーストライターを申し出ます。 生活と創作の両側面に入り込んでくるエルの存在。ユウは心身ともに大きく揺り動かされることに…と途中からヤバそうな空気がじわじわ漂い始めて読むのが止まらなくなりました。 ふたりが支え合っている姿に心を温められつつも、何が起こるのか常にゾクゾク…というふたつの意味で目が離せません。 ユウに度々送られてくるストーカーらしき手紙や、エルの性格の掴みどころのなさが洋画テイストといいましょうか、サスペンスの緊張感を演出していてよいです。この辺りの味わいはもしかしたら原作小説の『デルフィーヌの友情』からきているものなのかも? とはいえあとがきにもあるように原作とは物語の進め方がかなり違っているようです。『デルフィーヌ〜』そのものがまさに作家の自伝風に書かれた小説らしく、ユウのキャラクターとも重なってくるところがあり、こちらもどんな作品なのか読んでみたくなりました。