GOOD WEATHER

手塚マンガ、大友マンガ

GOOD WEATHER 大友克洋
影絵が趣味
影絵が趣味

わたしには、はじめて外国文学を読んだとき、ちっとも読めなかったという経験があるのですが、みなさんはどうでしょうか。英語やフランス語やドイツ語やロシア語が読めなかったのではありません、あろうことか翻訳された日本語がちっとも読めなかったのです。読めないなりに読んでいるうちに、いつのまにか慣れてしまい読めるようになったのですが、あのはじめに感じた読めなさはいったい何だったんだろうと、いまでも時々思うことがあるのです。 そして大友克洋です。大友克洋をはじめて読んだときも、ちっとも読めなった。こういっては失礼というか語弊があるかもしれませんが、マンガなのにもかかわらず、ちっとも読めなかったのです。ただし、この読めなさには理由があって、すぐにそれに気が付くことができました。わたしは手塚治虫からマンガを読むようになった、これが大きな理由でした。周知のとおり手塚治虫はマンガの祖であり、マンガの描き方/読み方を体系化した人であります。つまり、わたしは、この手塚式のマンガに慣れ親しみすぎていたあまりに、手塚とはまるで異質のマンガ体系を持つ大友を読むことができなかったのです。手塚マンガは記号の集積であり、大友マンガはカメラのレンズであった、この体系の違いを察知してはじめて大友を読めるようになったというわけです。

無職転生 ~異世界行ったら本気だす~

初めて読む異世界転生ものにはとてもいい気がする

無職転生 ~異世界行ったら本気だす~ フジカワユカ 理不尽な孫の手 シロタカ
吉川きっちょむ(芸人)
吉川きっちょむ(芸人)

引きこもりでオタクのデブクソニートだった男が家を追い出されて路頭に迷っているところトラックに引かれそうな学生を助けて死に、そして異世界へ転生、というベタな始まりから、再スタートした人生を本気で頑張る異世界ファンタジー。 異世界転生ものってだいたいずば抜けた才能だったり、チートな何かをもっていたりするみたいだけど、この作品は前世を後悔しまくった主人公が常に本気で生きて、赤ちゃんの頃から前世の知識と精神年齢を持っているという点ですでにハイスペックだよね、という感じで描かれている。 そりゃ赤ちゃんのころからしっかり目的意識持って努力を続けていたら神童並みには強くはなるよねー、と納得できる。 つまり、努力で手に入れられる範囲の才能なので、頑張ったね、偉いねという目線で見てられるし、実際、前世の知識はそこまで使っていないので妙なチート感もなく、子どものころから精神年齢高めの自我を持った子が超頑張ってるファンタジー漫画という感じ。 物語の世界観や導入の説明がめんどうな部分や、動機付けを異世界転生パートで補っているだけで、わりとガッツリファンタジーなので読み応えがある。 何度もちゃんと死にそうにはなるし、主人公より強い存在もざらに出てくる。 途中から、もともとクソニートだったやつが中に入ってることも忘れるくらいのとっても良い子になったのは前世の自分への反面教師が強すぎるがゆえだろう。 ストーリーも安易な方向にはいかないし、これからどうなるんだろうと楽しみに読める良作。 全然ペラくなくてよかった。 絵もクオリティ高くて読みやすい。 出てくる女の子もかわいいが、ラブコメの範囲内で主人公のこと好き好きすぎるのでそこだけ引っ掛かりはあるが、異世界転生もののジャンル全体がそれのオンパレードなのでそういうものだろうと思って読むしかない。

キングダム

無数の事実としての、無数の奇跡としての・・・

キングダム 原泰久
影絵が趣味
影絵が趣味

いよいよ『キングダム』が化けの皮を脱ぎ捨てて、その本質を剥き出しにしてきたと思うわけです。これまで毎週のようにキングダムに夢中になっていながら、どうも周囲の熱狂ぶりから一歩身を引いてしまう自分がいました、自分の夢中になるポイントがどうも周囲とはズレているように思われて仕方なかったのです。 あるいは戦術的な細かな考察であったり、あるいは将軍たちの個性をマネジメント能力や経営論の名のもとにビジネス書にまでしてしまう素っ頓狂な連中、そろそろこういったものたちに厳しくノーを突き付けなければならないような気がするのです。やれキングダムから世間を語ろうがビジネスを語ろうが何を語ろうがそれはまったくの自由だが、そうすることでキングダムというこの漫画の一頁一頁に迸っている本来の魅力をうっかり見逃してしまいはしないか、そんな危惧があるのです。キングダムの魅力は、そんなふうに何かに援用されて語られるような二義的なものではないと切に思うのです。二義的であるというのは、すなわち根本的ではないということ。上記のような援用の仕草は、無数の事象の積み重ねによる幾重もの絡まり合いから途方もない事実として現前にあらわれる「いま、ここ」にあるものを単なる何かの理由からくる結果として弄んでしまう。 世間的には支離滅裂だと不評だった犬戎戦で、「元と正せば我こそが貴様らの祖、貴様らの王である」と因果論を振りかざすロゾに対して、フィゴ王は言わなかったか。 「何が王か、何が祖か、一体何百年前の話をしているのだ貴様は  貴様ら犬戎と我ら山の民は大きく違う  貴様らはこの平地の孤島遼陽に滞まり続けたが  我らは西の大山界で覇を争い戦い続けてきた  滞まるお前たちと違い、我らはそれぞれ夢に立ち向かう者」 まずフィゴ王は犬戎と山の民の違いを指摘してみせた、それはまさしく、ひとつの因果としての捏造された物語に組み入れられることへの拒否にほかならない、つまり、お前はお前だが、俺は俺だ、勝手に一緒にしてくれるなということ。その上で「我らは"それぞれ"の夢に立ち向かう者」、つまり、我らはお前が勝手にのたまう因果の物語には生きていない、我はそれぞれの目の前に瞬間ごとに立ちはだかるこの現実をしかと見据えている、ということだと思うのです。 そして最新話、散々騒がれた隊の覚醒とは、ひとはそこに因果を探りたくもなるものだが、じっさいには単なる因果とはまるで無縁の、いや無数の一瞬一瞬からくる因果のはてに荒唐無稽と呼びうるまでになった途方もない現実の積み重ね、ほとんどそのひとつひとつが奇跡ともいえる圧倒的に現前する事実また事実の一回かぎりの繰り返し、そのたったひとつとしての士気の爆発でした。 だいたい私たちはどんな因果の物語に括られようが、じぶんにこの先いったい何が待っているのか、そんなことは誰に言われるでもなくわかっているのです。同じようにキングダムの結果だってわかっているのです、秦は中華を統一して、やがて滅び去るのです。そして、ほかでもない私たちは秦が中華を統一した後の世界に生きている、そこにどんな因果があるだろうかはひとそれぞれにしても、とにかくこの事実だけはどうしてもひっくり返りようのない途方もない奇跡のような事実なのです。