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太平記(1)
北条高時執権下の鎌倉幕府。正中元年、朝廷の権威回復を図る後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、側近の日野資朝・俊基らは捕らえられる。なお挫けぬ天皇の要請を受けた楠木正成は、笠置の山で、赤坂の城で、天才的な戦略を用いて幕府軍を散々に打ちのめした。衆寡敵せず、遂に赤坂の落城が迫ったとき、正成は城に火を放ち、自害して果てたと思わせて姿を消す。正成一人生きている限りは、聖運は開かれる!
太平記(2)
天皇の御世を実現しようとする智謀の将・正成は、元弘三年天険の要害・千早城で岩石・大木落しや火油攻め等の奇計妙策で北条の大軍を撃退し続ける。それは諸国の反幕勢力…赤松円心、児島高徳、菊池武時らを挙兵させる導火線となった。さらに後醍醐天皇の隠岐脱出を聞いた足利高氏(後の尊氏)も蜂起、六波羅を陥とす。遂に百四十年続いた鎌倉幕府は滅亡するが、恩賞配分を巡って武士の不満が爆発。謀反した尊氏と正成が神戸湊川で激突した!五十万対七百の決戦の末に…。
太平記(3)
清和源氏の流れをくむ足利高氏(尊氏)は、正中元年先祖の置文を見て源家再興を決意する。その悲願を胸に秘めて、鎌倉幕府最後の執権・赤橋守時の妹登子を娶り幕府に従うが、後醍醐天皇・護良親王が倒幕に立ち上がるや、一転して京都・六波羅探題を陥れた。京都に奉行所を置いた高氏は、無政府状態の京都の治安を守り、朝廷の許可無く武士達の手柄を証明する書状を与え始める。狙いは武家の頭梁・征夷大将軍の地位か?後醍醐天皇との反目が芽吹き始めた。
太平記(4)
尊氏・直義は後醍醐天皇の建武親政発足後、朝廷と絶縁。叛旗を翻したが、新田義貞・北畠顕家に敗北した。しかし光厳上皇の院宣を受ける事に成功し、九州の松浦党、竜造寺党の加勢を得て、奇跡的大逆転を果たす。再び大軍を率いて京へ! 全国各地の内乱は、越前で尊良親王・義貞、堺で顕家が敗死し、追うように後醍醐天皇の崩御、正行も四条畷で玉砕した。その後、足利の内紛はあったが悲願の足利幕府は成立し、義満の代に南北朝は統一する。
太平記(5)
足利家と並ぶ源氏の名門・新田家は、上野を中心に越後、武蔵、下総、相模と強大な勢力を持っていた。義貞三十三歳の時、元弘の乱に幕府の催促に応じて楠木正成の千早城を攻撃したが、尊王の義貞は護良親王の令旨を受けるや、病と偽り上野に戻る。元弘三年尊氏の倒幕挙兵を機に、幕府派遣の徴税使を惨殺し、生品明神の社前で勤皇の義旗を翻して、幕府へ宣戦布告! 防備の強固な鎌倉へ、干潮を利用して稲村ヶ崎を迂回し、極楽寺坂の背後に出る作戦で、見事攻め込んで行った。百四十余年続いた鎌倉幕府が崩壊する!
太平記(6)
建武二年義貞は朝廷より尊氏追討の勅命を受けるが、箱根で敗戦。翌年新田、楠木、北畠の連合軍は、京で足利軍を破り九州へ敗退させた。しかし尊氏は、光厳上皇の院宣を受けて後、湊川で正成を破り京へ乱入する。義貞は恒良、尊良親王とともに北陸の鎮撫と官軍再興のため越前へ向かった。だが多勢に無勢の新田軍は、金ヶ崎、杣山を経て燈明寺畷で遂に全滅する!