あらすじ

建武二年義貞は朝廷より尊氏追討の勅命を受けるが、箱根で敗戦。翌年新田、楠木、北畠の連合軍は、京で足利軍を破り九州へ敗退させた。しかし尊氏は、光厳上皇の院宣を受けて後、湊川で正成を破り京へ乱入する。義貞は恒良、尊良親王とともに北陸の鎮撫と官軍再興のため越前へ向かった。だが多勢に無勢の新田軍は、金ヶ崎、杣山を経て燈明寺畷で遂に全滅する!
太平記(1)

北条高時執権下の鎌倉幕府。正中元年、朝廷の権威回復を図る後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、側近の日野資朝・俊基らは捕らえられる。なお挫けぬ天皇の要請を受けた楠木正成は、笠置の山で、赤坂の城で、天才的な戦略を用いて幕府軍を散々に打ちのめした。衆寡敵せず、遂に赤坂の落城が迫ったとき、正成は城に火を放ち、自害して果てたと思わせて姿を消す。正成一人生きている限りは、聖運は開かれる!

太平記(2)

天皇の御世を実現しようとする智謀の将・正成は、元弘三年天険の要害・千早城で岩石・大木落しや火油攻め等の奇計妙策で北条の大軍を撃退し続ける。それは諸国の反幕勢力…赤松円心、児島高徳、菊池武時らを挙兵させる導火線となった。さらに後醍醐天皇の隠岐脱出を聞いた足利高氏(後の尊氏)も蜂起、六波羅を陥とす。遂に百四十年続いた鎌倉幕府は滅亡するが、恩賞配分を巡って武士の不満が爆発。謀反した尊氏と正成が神戸湊川で激突した!五十万対七百の決戦の末に…。

太平記(3)

清和源氏の流れをくむ足利高氏(尊氏)は、正中元年先祖の置文を見て源家再興を決意する。その悲願を胸に秘めて、鎌倉幕府最後の執権・赤橋守時の妹登子を娶り幕府に従うが、後醍醐天皇・護良親王が倒幕に立ち上がるや、一転して京都・六波羅探題を陥れた。京都に奉行所を置いた高氏は、無政府状態の京都の治安を守り、朝廷の許可無く武士達の手柄を証明する書状を与え始める。狙いは武家の頭梁・征夷大将軍の地位か?後醍醐天皇との反目が芽吹き始めた。

太平記(4)

尊氏・直義は後醍醐天皇の建武親政発足後、朝廷と絶縁。叛旗を翻したが、新田義貞・北畠顕家に敗北した。しかし光厳上皇の院宣を受ける事に成功し、九州の松浦党、竜造寺党の加勢を得て、奇跡的大逆転を果たす。再び大軍を率いて京へ! 全国各地の内乱は、越前で尊良親王・義貞、堺で顕家が敗死し、追うように後醍醐天皇の崩御、正行も四条畷で玉砕した。その後、足利の内紛はあったが悲願の足利幕府は成立し、義満の代に南北朝は統一する。

太平記(5)

足利家と並ぶ源氏の名門・新田家は、上野を中心に越後、武蔵、下総、相模と強大な勢力を持っていた。義貞三十三歳の時、元弘の乱に幕府の催促に応じて楠木正成の千早城を攻撃したが、尊王の義貞は護良親王の令旨を受けるや、病と偽り上野に戻る。元弘三年尊氏の倒幕挙兵を機に、幕府派遣の徴税使を惨殺し、生品明神の社前で勤皇の義旗を翻して、幕府へ宣戦布告! 防備の強固な鎌倉へ、干潮を利用して稲村ヶ崎を迂回し、極楽寺坂の背後に出る作戦で、見事攻め込んで行った。百四十余年続いた鎌倉幕府が崩壊する!

太平記(6)

建武二年義貞は朝廷より尊氏追討の勅命を受けるが、箱根で敗戦。翌年新田、楠木、北畠の連合軍は、京で足利軍を破り九州へ敗退させた。しかし尊氏は、光厳上皇の院宣を受けて後、湊川で正成を破り京へ乱入する。義貞は恒良、尊良親王とともに北陸の鎮撫と官軍再興のため越前へ向かった。だが多勢に無勢の新田軍は、金ヶ崎、杣山を経て燈明寺畷で遂に全滅する!

太平記

意外に知らない鎌倉幕府の滅亡〜室町幕府成立まで

太平記 横山まさみち
酒チャビン
酒チャビン

詳しく語れる方に出会ったことがないです。多分日本の歴史の中でも最高級に軽視されている時代ではないでしょうか?? それで歴史好きとしてはもやもやしていたので、室町幕府スペースマンガで検索して上位に出ていたこちらを読むことにしました。 つくりは、後醍醐天皇を中心とする倒幕運動が盛んになってきた時期から室町幕府成立くらいまでの時代を、①楠木正成、②足利尊氏、③新田義貞の3名を主人公に3回書いた形になっています。①→②→③と別の主人公の視点から歴史を3度繰り返すことになるので、脳への定着も促進されます。 なので、試験勉強にはもってこいですね。ただ試験にこの辺りがあまりでそうにないですが・・ マンガとしてはオーソドックスで、余計な味付けなどなく、素材(太平記)の良さをシンプルに引き出すような感じです。ですが、かえってテンポ良くこの時代の出来事を学ことができたので、今回はわたし的にもこのチョイスはベストでした。 足利尊氏が室町幕府を開いたので、主人公的な立ち位置と思いきや、意外とそうではなく、足利尊氏と戦った(そして負けた)楠木正成や新田義貞がもてはやされるのかについて朧げながらわかってきました。 特に楠木正成さんについては、なぜ皇居内に立派な像があって、戦前に大忠臣として崇められていたのかよく分かってなかったですが、その一生が外観できて良かったです。 余談ですが、「足利尊氏」でGoogle検索しようとすると「足利尊氏 メンヘラ」とサジェストが出るのが今は気になってます。