あらすじ

日独伊三国同盟を機にアメリカの対日姿勢は急速に硬化、対米関係の改善を重視した日本政府は打開策を取り始める。しかし、軍統帥部からは日米交渉よりも開戦準備をという声も出始め、昭和16年9月6日、開戦決意の御前会議が開かれる。開戦を避ける日米交渉も決裂、昭和16年12月8日、真珠湾に奇襲をかけ、ついに太平洋戦争へと突入する。
昭和史(1) 関東大震災~満州事変

大正11年3月8日、水木しげるが生まれる。事実上の昭和史は、大正12年の関東大震災から始まった。マグニチュード7.9。震源地に近い神奈川県はもとより、東京も壊滅的な打撃を受けた。この関東大震災が昭和が始まって3ヶ月後の金融恐慌の原因となった。昭和とはどのような時代だったのか。昭和という時代を生き抜いた水木しげるが庶民の目で描ききるコミック昭和史!!

昭和史(2) 満州事変~日中全面戦争

昭和8年、参謀本部は危険な仮想敵国を想定し、戦略戦術を検討する秘密会議を開いていた。これは、日本の運命を決するような大きな口論だった。後になってのことだが…日本はじっとしていればよかった。しかし、人間とはなかなかそれができない。満州事変、二・二六事件、日中全面戦争。国家の運命も個人の運命も不可知な力によって導かれてゆく…。

昭和史(3) 日中全面戦争~太平洋戦争開始

日独伊三国同盟を機にアメリカの対日姿勢は急速に硬化、対米関係の改善を重視した日本政府は打開策を取り始める。しかし、軍統帥部からは日米交渉よりも開戦準備をという声も出始め、昭和16年9月6日、開戦決意の御前会議が開かれる。開戦を避ける日米交渉も決裂、昭和16年12月8日、真珠湾に奇襲をかけ、ついに太平洋戦争へと突入する。

昭和史(4) 太平洋戦争前半

太平洋戦争に突入し、マレー、シンガポール、フィリピン、グアム…と攻略していった日本の快進撃は、ミッドウェー海戦の敗北をもって終わりを告げる。やがて運命のガタルカナル島の戦いを迎える。その頃内地では、戦時体制が日ましに国民生活を圧迫するようになっていた。「ほしがりません勝つまでは」というのが、国をあげての標語だった。

昭和史(5) 太平洋戦争後半

日本軍は各地で全滅、撤退が続き、もはや日本の敗戦は濃厚になっていた。サイパン失陥により、日本は攻撃はおろか、まともな迎撃作戦もできないまでになった。国民生活は更に困窮し、昭和19年B29は北九州を空襲。以後連日のように本土は激しい空襲にさらされた。空襲は全国の都市の家屋の3分の1を消失させ、66万人を殺傷した。

昭和史(6) 終戦から朝鮮戦争

昭和20年8月6日午前8時15分、広島市に原爆が投下される。13万から20万の市民が死傷し、「広島はなくなった」と言われた。続いて長崎にも原爆が投下される。この段階になっても軍部の中では戦争継続を訴える者もいた。しかし8月14日、最後の御前会議で天皇は終戦を決定、こうして全国民は翌15日玉音放送に耳をかたむけた。

昭和史(7) 講和から復興

太平洋戦争は開戦以来3年8ヶ月余で終わり、戦死180万民間人100万人だった。疲れ果てた国民はホッとした。講和条約が結ばれると日本はアメリカと同盟関係に入り、戦後復興が始まる。昭和31年「もはや戦後ではない」とうたった経済白書の言葉は後に流行語となり、経済だけでなく、政治も民衆の生活や文化も大きく変化し始めた。

昭和史(8) 高度成長以降

昭和46年、沖縄が返還、沖縄全土にサイレンが鳴りわたり27年間の外国支配が終わった。沖縄返還によって外部目標を喪失した左翼はその内部にも大きな病根を育てつつあった。新左翼の終焉を決定的に印象づけたのが、連合赤軍事件だった。浅間山荘に機動隊員が突入した攻撃作戦はテレビで実況中継され、国民はテレビの前にクギ付けになった。