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エクゾスカル零

ヒーローという宿痾

エクゾスカル零 山口貴由
(とりあえず)名無し
(とりあえず)名無し

山口貴由は、常に戦い続ける。 その戦いは、常に不毛である。 ヒーローはなんのために戦うのか、という問いの無意味さを、山口貴由は作家生命を賭けて描き続けているように思われる。 畢生の傑作『シグルイ』も、徹頭徹尾「不毛なるもの」としての戦いであるが(すべての戦いを命じた徳川忠長は、物語の開巻でそれにより罰せられ切腹する)、そこにはまだ武士道や階級社会のようなシステムによる動機付けが存在していた。 だが、本作にはそうしたエクスキューズすら存在しない。 『エクゾスカル零』は、出世作にして時代を圧倒する快作『覚悟のススメ』の続篇であり、明らかな「仮面ライダー」オマージュなのだが、主人公がなんのために、誰を救うために戦うのか、という本質的クエスチョンを、すべての解の可能性を叩き潰した徹底的にエクストリームな設定の上で、敢えて問い直そうとしている。 闘争は人の宿痾だ。 望むと望まざるとに関わらず、人は戦う。 だからこそ、人はその理由を探し求める。 だが、そんな理由など、どこにもない。 それでも、ヒーローは正義のために戦わねばならないのだ。 「正義」とはなんなのか分からないとしても。 この作品を失敗作という人はいるだろう。 ヒーロー漫画という意味での喜びは、ここにはほとんど感じられないのだから。 だが、絵の硬度は作者史上最強、物語はほぼ理解不能なまでに研ぎ澄まされている。 まるでカフカかバルトークの弦楽四重奏曲のようだ。 現代日本漫画の極北のひとつであると思う。 以下は余談。 上記に「徳川忠長は切腹する」と書いたが、『シグルイ』では扇腹として描かれている。 打ち首は罪人に対する処罰だが、切腹は違う。介錯人は断頭をしてはならず、首の皮一枚を残して斬らねばならない。その困難さ故、介錯人には真に腕の立つ者が選ばれた。 『シグルイ』でも、正確に首の皮がわずかに残った形で描かれてる。(マンバの試し読みで確認できます) そこに、公儀介錯人や斬首役を主人公に名作を描いた師・小池一夫への、著者リスペクトを感じるのだが、どうなのだろう。

えぐぞすかるぜろ
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