筆者の中にある数え切れないほどの発信すべきメッセージが、短編でぎっしりと纏められているので、読み応えがあり同時に著者の長編と比べていささか読みにくくも感じますが、それでも「はっ」とさせられる田島列島節が随所に埋め込まれており、読後に余韻が頭の中で残響しつづけ、自分自身を見つめ直すきっかけにもなったりして……

特に印象的だったのが、「優しくみえる人というのは実は基本的に他人の能力を信用していないだけ」という台詞。ドキリとしました

人生は有限であるがゆえに、読んだ本や見た映画から必ずなにか影響を受けたい、得るものがほしいと思っている私にとっても、田島列島作品ははっきりいってコスパの良さが異常です。

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田島列島短編集 ごあいさつ

いま、ここで何かが動く ~流動する田島列島~

田島列島短編集 ごあいさつ 田島列島
影絵が趣味
影絵が趣味

寡作故に何年も前から要注目の新人であり続ける田島列島選手もとうとう単行本が3タイトルになりました。そろそろ傾向といいますか、作家性がみえてきそうな気がします。 まあ、とにかく、留まることが嫌いなひとなんでしょう。生まれついて付与された性別からして変えてしまうひとが毎度登場するのも、毎度のこと親が突然家から出ていってしまうのも、まずテコでも動かなそうなものから率先して動かしてやろうとする気概がみられます。 今作も、まあ、いきなり不倫からの幕開けで、しかも、不倫された奥さんが不倫相手のアパートを訪ねに行く。さらに本妻が訪ねて来るというので同居人の姉さん(不倫相手)が家から出ていってしまうのが主人公の妹の境遇なわけです。もう初っ端から動きまくり。そして、はじめはこの事態を「昼ドラ」と形容して、一歩引いた目線で傍観していた妹がこんどは、くりかえし訪ねてくる本妻に心を動かされて、自らアクションを起こす。ただ受け身でいるのが嫌だといって自分のほうから積極的に奥さんに働きかけるんです。この「ただ受け身でいるのが嫌で自分のほうから積極的に働きかけようとする瞬間」こそが田島列島マンガにおける決定的な動きなのではないかと睨んでいます。 ひとというのはどう足掻いても外的作用からは逃れられない受動的な生き物ですから、積極性を発揮するといっても、けっきょくは何かを受けての積極なわけです。せいぜい外的作用の決壊を防ぐために土嚢を積むことしかできないといいますか、攻撃のない野球みたいなものですね。ピッチャーがどんなに踏ん張って最高のパフォーマンスをみせても、せいぜいゼロか失点によるマイナスしかないわけで、これでは試合は動きません。田島列島には、このテコでも動かない受動的な状況をどうにかしてでも覆してやりたいとする気概がみられるんです。 ただし、この転覆は極めて難しい。だからこそ、せめて、そのほかのものだけは自由に動けるようにしようとする。これはインタビューで言っていましたけど「キャラが勝手に動く」という言い方をされている。たしかに自分でキャラの動きを先に規定してしまえば、作者本人からしてみればキャラがそこでは自由に動きまわれない不自由が生じることになる。だから、しばらくのあいだ、キャラが自分から自由に動いてくれるのを待つ。それ故の寡作なのかもしれません。そうして待つことで、いま、ここで何か動くのを最前線で捉えようとしているんです。 あとは台詞、というか言葉についてもかなり辛辣な姿勢がみられます。田島列島マンガのキャラたちは互いに言葉を介そうとはしないんです。だからいつだってセリフは間の抜けたギャグのようになり、発した言葉は相手に届かず、会話は常に両者のあいだの宙を空転している。これも留まることが嫌いな田島列島ならではの仕様といいますか、感情というのは常に複雑に流動しているものなのに対して、言葉を発するというのは、そのとりとめのないものを無理やり型にはめるような作業なので、田島列島マンガのキャラは誰も言葉なんか信じてはいない。ただ、それでも、それでも、言葉を伝えなければならない瞬間というのはどうしてもある。『子供はわかってあげない』がそうだったように。ただ、好き、と言っても、それは胸の苦しくなるようなバカでかい感情を小さな型に無理やりはめただけでそれでは嘘になってしまう。ナンセンスなんです。それは朔田さんも重々承知なんです。だからこそ、その一言がなかなか口をついて出ない。でも、それでも、せいぜいゼロかマイナスしかなくても伝えなければならない瞬間があるんです。まさにそのとき、田島列島マンガで何かが動いている。テコでも動かないような何かが動いているんです。

MA・MA・Match

映画『怪物』みたいな構成の話だった

MA・MA・Match
mampuku
mampuku

いい意味で誤解や異説の飛び交いそうな、多層構造のストーリーだったように思う。 主人公の一人である芦原(母)は、生意気な息子とモラハラ夫を見返すべく、息子の得意なサッカーで勝負を挑む。 前半は、ママさんたちが友情や努力によって青春を取り戻しながら、悪役(息子と夫)に挑むという物語で、この悪役というのがちょっとやり過ぎなくらいのヘイトタンクっぷりなのだ。その場限りのヘイトを買うキャラクターは、ヒーロー役の株を上げるための装置として少女漫画では常套手段だ。だが『マ・マ・マッチ』はそういう物語ではないため、話はここで終わらない。 後半は時を遡り、息子と夫の目線で描かれ直す。母目線ではイヤ〜な輩にしか映らなかった彼らにも彼らの言い分や考えがあったのだと明かされる。 真っ先に私が思い出したのが、是枝監督の映画『怪物』の主人公の一人、安藤サクラさん演じるシングルマザーの早織である。 息子が教師に暴力を振るわれたことに抗議するため学校に乗り込むも学校側からぞんざいな対応をされ不信感を募らせる早織。その後教師や子供など、さまざまな視点が映し出されることでやがて全体観が像を結ぶ。 『マ・マ・マッチ』でも、後半部分を読んだあとに最初から読み返すと些か感想が変わる。息子や夫がイヤな奴らとして描かれているのは確かだが、先入観によって印象が悪化していたのも事実だ。なにより、序盤に出てくる夫のコマは母を嘲弄するような不快なものだったが、そもそもこれは芦原母の回想であり主観だ。その後実際に登場する夫は彼女と衝突こそすれ至って真面目だ。 つまり、それぞれの立場から不満を抱いたり譲れない部分でぶつかり合いながら、逐一仲直りしたり折り合いをつけているのだ、という話に畢竟見えなくもない。悪者退治という少女漫画にありがちなフォーマットで導入を描いて入り込みやすくしておいて、後半の考えさせる話でモヤモヤさせる。末次由紀先生、さすがの巨匠っぷりを見せつけた怪作だ。

テセウスの船

どちらかというと『テセウスの船』というより『動的平衡』じゃない?

テセウスの船
mampuku
mampuku

時間遡行をして人生をやり直したとしたら、それは本当に同一の自分といえるのか?という問いを有名なパラドックス「テセウスの船」になぞらえたタイトルだ。 ストーリーに関しては論理的整合性や感情的整合性においてやや粗い部分も感じられたもののサスペンスとして緊張感もあり、ラストは新海誠監督『君の名は。』のような美しい締め方だったし概ね面白かった。 ただ、タイトル『テセウスの船』がイマイチストーリーにハマっていない感じがした。 どちらかといえば「動的平衡」のほうが比喩としてしっくりくるのではないだろうか。 「動的平衡」とはシェーンハイマーの提唱した概念であり、日本では福岡伸一氏による著書『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』で有名になった言葉である。“生命”とは、取り込まれ代謝されていく物質、生まれ変わり続ける細胞どうしの相互作用によって現れる“現象”である、という考え方だ。 主人公の田村心は生まれる前の過去に遡り、そこで巻き起こる惨劇を阻止することで、その惨劇により自身に降りかかった不幸な運命を変えようと奮闘する。作品では、過去を改変して自らの人生を曲げようとする一連の試みをテセウスの船にたとえているが、やはりピンとこない。作中、田村心は殺人事件を未然に防ぐため凶器となった薬物を隠したり被害者に避難を呼びかけたりするが、その影響で心の知る未来とは異なる人物が命を落としたり、結果的に大量殺人を防げなかったばかりか予想だにしなかった事態を招くことになる。 この予測不可能性こそがまさに動的平衡そのものって感じなのだ。生命体は、船の部品のように壊れた部分を取り替えれば前と変わらず機能する、ということにはならない。ある重要なホルモンの分泌に作用する細胞を、遺伝子操作によってあらかじめ削除してしまったとしても、ほかの細胞がそのポジションを埋めることがある。これは心が殺人事件の阻止に何度も失敗したことに似ている。思わぬ不運や予想しない死者が出てしまったのも、脚のツボを押すと胃腸の働きが改善するなどの神経細胞の複雑さに似ている。 船は組み立てて積み上げれば完成するが、生命は時間という大きな流れの中で分子同士が複雑に相互作用しあうことで初めて現象する。『テセウスの船』での田村心の試みは人生あるいは歴史という動的平衡に翻弄されながらも抗う物語だったのかもしれない。

たじまれっとうたんぺんしゅうごあいさつ
田島列島短編集 ごあいさつ
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みちかとまり

みちかとまり

“竹やぶに生えてた子供を神様にするか人間にするか決めるのは最初に見つけた人間なんだよ” 8歳の夏、まりが竹やぶで出会った不思議な少女みちか。他の人とは違うルールで生きるように見えるみちかは、まりの同級生でいじめっ子の石崎からとても大事なものを奪ってしまう。責任を感じるまりはみちかに誘われ言葉で理解できる世界の外側へ足を踏み入れる──。『子供はわかってあげない』『水は海に向かって流れる』の田島列島が贈る、ちょっぴりグロくてうっかり神話なガールミーツガールの開幕です。

水は海に向かって流れる

水は海に向かって流れる

「あの人、本当は怒りたいんじゃないの?」高校への進学を機に、叔父の家に居候することになった直達。だが最寄りの駅に迎えにきたのは見知らぬ大人の女性、榊さんだった。案内された家の住人は、親に黙って脱サラしたマンガ家(叔父)、女装の占い師、ヒゲメガネの大学教授、どこか影のある25歳OLと、いずれも曲者揃い。そこに高校1年生の直達を加えて、男女5人での一つ屋根の下、奇妙な共同生活が始まった。共同生活を送るうち、日々を淡々と過ごす25歳OLの榊さんに淡い思いを抱き始める直達だったが、彼女と自分との間には思いも寄らぬ因縁が……。少年が家族の元を離れて初めて知る、家族の「罪」。自分もその被害者なのかもしれないが、加害者でもあるような気がする。割り切れないモヤモヤした思いを抱きながら、少年は少しずつ家族を知り、大人の階段を上っていく。前作から4年の沈黙を破った田島列島が、ユーモラスかつセンシティブな独特の筆致で描くのは、家族の元を離れて始まる、家族の物語。家族の元を離れて始まる、家族の物語。高1春、曲者揃いの住人たちと男女5人の共同生活を始めた直達。彼が淡い想いを寄せる25歳OLの榊さんとの間には、思いも寄らぬ因縁が……。「別冊マガジン」連載時より作家、著名人、漫画読みから絶賛の声が続々!宝島社「このマンガがすごい!2015」オトコ編第3位、マンガ大賞2015第2位など各漫画賞を総ナメにした名作『子供はわかってあげない』の田島列島、待望の最新作!

子供はわかってあげない

子供はわかってあげない

水泳×書道×アニオタ×新興宗教×超能力×父探し×夏休み=青春(?)。モーニング誌上で思わぬ超大好評を博した甘酸っぱすぎる新感覚ボーイミーツガール。センシティブでモラトリアム、マイペースな超新星・田島列島の初単行本。出会ったばかりの二人はお互いのことをまだ何も知らない。ああ、夏休み。

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