第4巻で終了(第一部・完とはなっているが)。
第4巻での平松先生のコメント
「残念ながら・・」は本音だろうな、と思う。
本気でご自身の集大成的な漫画にしようと
連載開始時には考えていたのだろうと思う。
もっとも漫画家の先生は皆さんが一作一作ごとに
最高傑作にしようと思って描き始めるだろうし、
そう思っていても結果が出ない漫画が多いのだろうから
「そういう一作品に終わった」ってことになるけれど。
自分はこの作品を読んで面白いと思ったので
4巻で終わってしまったのは残念だった。
作中に描かれていた平松先生の努力や苦悩や失敗、
それらはまさに実体験から生まれた迫力が
感じられると思ったので。
だが掲載雑誌での人気アンケートで不評で、
単行本の売れ行きも芳しくなかった、というのは
解る気もする。
あくまでも自伝「的」漫画であるとか
フィクション混みで描いていると
平松先生自身が作中で明言したりしていたので、
読者としても、どうしても一歩引いて
見ざるを得なかった。
編集者が木刀を振り回す時点で読者だって
「あ、フィクションを入れてる」とは理解する。
けれど作者自身から作中で
「プロレス的だった」とか
「だいぶフィクションが入っている」とか
言われてしまっては、
読者としては話しにノレなくなってしまう。
「そしてボクは外道マンになる」だけれども、
平松先生自身の実体験を描きながらも
そこにフィクションを加えるなら、せめて
「フィクションだけれど俺がそう感じたという
真実を描いているんだ」
と開き直って欲しかった。
そうであれば後半に登場した
「本来は存在しえない」外道マンも、
編集さんやアシスタントさんや奥さんの
内面的な判断や心情に関する
「ホントにそう思ったか確認しようがない」心理も、
「これは平松先生が感じた真実なのだ」
として素直に受け入れられたと思う。
具体例をあげれば第4巻での
権藤さんとの殴り合いのシーン。
権藤さんがどう思って殴り合っていたか、は
後に平松先生の推測としてかかれてはいるが、
ここでは触れていない。
このシーンは凄くいいと思う。
後に「推測で」権藤さんの気持ちを書いたことも。
だがここで編集・真髄の内心・感想を
描く必要はなかったと思う。
あえて描くのなら
「真髄のヤローは、こう思っていたに違いない」
と、自身の独断的感想として描いたほうが
読者もノレて読めたと思うのだ。
独断だから正しい保証はないが、
平松先生がそう感じたのは真実なんだな、と。
漫画ってのは、ありえないことをありえないと意識させずに
面白おかしく楽しく読者に読ませるものなのかもと思う。
ドーベルからブラックまではそれが上手く出来ていた、
だが皮肉なことに自伝漫画を描くことになったときに
その辺で少し、先生と読者の間にあるズレが
顕著に表面化してしまったのかもしれない、と思う。