魔法使いサリー

元祖・夢と空想の魔法少女マンガ

魔法使いサリー 横山光輝
たか
たか

たまたま漫画喫茶に完全版があったので読みました! 絵のデフォルメがかわいくて、キャラクターはコミカル。 サリーちゃんが人間界の風習を学んだり、パパを懐柔したり、カブをとっちめたり、ママに甘えたり…そういう一挙一動がただただ楽しい。 サリーちゃんのパパも魔術師ジョーも、キスで娘への愛情表現をするところが欧米風でとても素敵。なおパパは魔界の帝王なのにママには頭が上がらないという設定で、好きでもない人間界でお餅つきまでしちゃう、優しい…! 自分がサリーを読んで気になったのが、家族の描写です。 サリーとカブは人間で二人暮らし。よしこは両親共働きで、トンチンカンの面倒を見て家事をしている。同級生の小野さんは、お兄さんとお母さんの3人ぐらし。チェリーはアル中のパパに愛想を尽かして、お母さんが出ていってしまった。 16話の中に、多種多様で愛情深い家族が描写されていたところが印象に残りました。 横山先生自身は、「少女漫画はほとんどメロドラマばかりで、少年漫画のような『夢と空想』の漫画が少ない」ということでサリーを描いたと折返しに書いてありました。 やはり物語の土台として「家族」の描写がリアルだったからこそ、『夢と空想』がいっそう魅力的なものになったのではないかと思います。 現代まで続く少女向け漫画のエッセンスを感じることができる名作です!

らんま1/2 〔新装版〕

人魚の変奏

らんま1/2 〔新装版〕 高橋留美子
影絵が趣味
影絵が趣味

今でこそ、もう珍しくはないのかもしれないが、高橋留美子といえば女性の漫画家としてイチ早く少年漫画の分野を開拓したひとでしょう。そんな性別の垣根を越えて活躍した漫画家が『らんま1/2』という水と湯をかぶるだけで男性女性の垣根をいとも簡単に越えてしまうマンガを描いている事実はたいへん興味深いことだと思います。 1/2という言葉のとおり、主人公の早乙女乱馬は男性とも女性ともつかない実に中途半端な存在として私たち読者の前に姿をあらわします。そして、まさしく、この中途半端な有様こそが高橋留美子という漫画家の特異な作家性だと思うのです。 あるいは地球を侵略しにやって来たはずなのに、そのまま居着いてしまった宇宙人は中途半端な存在ではなかったか(うる星やつら)。あるいはうら若い未亡人のアパート管理人と、大学浪人から就職浪人までしてしまうアパートの住人は、どちらとも中途半端な存在ではなかったか(めぞん一刻)。あるいは妖怪と人間とのあいだに生まれた半妖の少年は中途半端な存在ではなかったか(犬夜叉)。あるいはあの世でもこの世でもない境界に連れて行かれた過去をもつ少女と、人間と死神との混血の少年はどちらとも中途半端な存在ではなかったか(境界のRINNE)。 高橋留美子のマンガには、このようにして、どちらともつかない中途半端な存在がまず必ずといっていいほど見られるのです。それはあたかも女性漫画家の身でありながら少年漫画の分野に進出した作者自身のように。そして手塚治虫の『火の鳥』のように高橋留美子のライフワークであるように思われる『人魚シリーズ』、人魚とはまさしく中途半端な存在の代表格でしょう。古来よりどちらともつかない中途半端な存在としてよく知られる人魚は、高橋留美子の特異性にもっとも相応しいアイコンだったのではないでしょうか。

バクマン。 カラー版

わたしの好きなバクマン。の好きではない話について

バクマン。 カラー版 小畑健 大場つぐみ
ぱにゃにゃんだー

バクマン。はとても好きな漫画で、何度読み返したかわかりません。夢を叶えるというテーマを二重に達成するサクセスストーリーはドラマチックでロマンチック。きっとこれからもなんども読み返すでしょう。 そんなバクマン。だけど、何度読み返しても七峰透編だけは楽しめない。いつも服部さんが亜城木のところへ七峰透のトレジャー投稿作を持ち込むあたりで「ついにきたか」と暗澹とした気持ちになる。しかもこの七峰編は二度もある。倒れるなら前のめりな不死鳥フェニックス七峰は、新井先生の「チーズおかき」連載終了・東先生の「パンチラファイト」掲載ともに蘇る。「パンチラファイト」と東先生の話自体は面白いので飛ばすわけにもいかず、途中の平子一也回を憩いになんとか読み進めていく。 ほんとに好きじゃないんですよ、七峰透編が。 しかし、バクマン。という漫画において、この七峰透というキャラクターは異色な立ち位置でもあるわけです。 銀魂の担当編集大西さんがメインの回で天知(ゴリラ)の描くクソつまらない漫画「ギンタマン」を銀さんがテコ入れしていく話しがあります。その時に銀さんが解説していたジャンプシステムはドラゴンボールを題材に「かつての敵は、次の戦いでは心強い味方になる。ただし、ヤムチャを除く」というギャグがあります。 ※ヤムチャは仲間です。そういうギャグです。 七峰透はまさにこのヤムチャなんです。亜城木の前に次々と現れる強敵。剣をペンに変えて誌面で熱い火花を交わすライバルたち。その中でお互いに成長し認め合い強敵(とも)となっていく。そんなジャンプシステムの輪から七峰だけが取り残されている。あの岩瀬ですらライバルの輪に加わり、あの白鳥ママでさら息子の努力だけは認めてくれるようになったというのに! 七峰透がジャンプシステムの輪から外れた悲しい男だとして、なぜそんなことになってしまったのか。考えずにはいられませんでした。だってなんの意味もないのなら、ただわたしにとって面白くないだけの男ですもの。 バクマン。はダブル主人公ではなく明らかにサイコーが主人公です。そうでないなら、主人公度がより高いのはサイコーです。そして、この物語はサイコーの心的世界における部外者か否かとなるかが、キャラクターの描かれ方の良し悪しがだいぶ別れるように思います。 というのも、最初漫画家になるつもりなんてさらさらなかったサイコーの元に現れたシュージンは、読み返してみればなんだかスレた可愛げのないガキです。亜豆のことを「ミーハーな」とさえ言っている。これが読者な立場に立ちすぎだとしても、なんだこいつ?的なことはサイコーのモノローグとして存在しているわけで、ある程度嫌なヤツ的な見方をすることはできるはずです。 また、服部さんは最終的には亜城木の最高の理解者となる編集者ですが、初登場時はリュークみたいな表情で「よくわかんね」と言ってたりするし、最終的に親友の嫁になる三好カヤについてもシュージンとの和解前後では描かれ方にだいぶ差があります。そのほか多くの漫画家たちも最初の印象は悪く、好転していくパターンがほとんどです。(例外は平丸くらいでしょうか) 一方、七峰透は逆のプラセスを辿ります。次回作の方向性を探る亜城木に「シンジツの教室」というヒントを与え、擬探偵トラップ連載時に熱心にファンレターを送ってくれていた七峰はサイコーの心証もよく顔が見えるまでは好感度の高い男だった。しかし、亜城木の仕事場に足を踏み入れ初対面を済ますと御破綻。「有意義な学園生活に必要なソレ」を連載し出せば好感度は、読者アンケートの3話目と同じように急転直下。ひどいものです。 ですが、他面ここまでサイコーの外部に留まり続けたキャラクターもまた居はしないのです。主義主張の違い、あるいは美学の違い、そうでなければ先を行き過ぎていた男とある種の旧態依然を是とするサイコーは最後の最後まで混じり合うことなく決別という選択以外には残されていなかった。本作のラスボスは終生ライバルになるであろう新妻エイジというのが一般的な見方ではありますが、彼もまたサイコーの良き理解者として彼を鼓舞する存在として敵味方を分かつことのできない存在でもあります。であるならば、最後の最後まで外部でありつづけた七峰透という男はジャンプシステムに取り込まれることを拒み、ジャンプをはじめとした漫画家たちとも袂を分かち、絶対的な他者として孤高の敵役としての役割を担っていたのかもしれない。そんな風に考えると、彼のことがちょっとだけ好きにはやっぱりならないけれど、頑張ったなと肩を叩きたくなる。 と、ここまで書いておいて、ここまで書いたことのほとんどをひっくり返してしまうことになるのですが、七峰透もまたジャンプシステムの内部に取り込まれていることに、はたと気づきました。七峰透は、ジャンプ出禁というペナルティによって、福田組をはじめとするジャンプで切磋琢磨する強敵の輪に加わることは最後までありませんでしたし、ピンチに現れるかつての敵的な美味しい復活もありませんでした。しかしながら、七峰透は「シンジツの教室」をサイコーに残していました。七峰透は二度ならず三度もサイコーの前に姿を表していたのです。彼がほぼ自力で描きあげた最初で最後の作品「シンジツの教室」は、亜城木夢叶がそのペンネームを実現するために欠かせない最後のピースを与えてくれました。それが邪道漫画の限界であり、邪道な王道という新境地でした。つまり、七峰透は最後の最後まで救済されない外部であったのではなく、彼の漫画家としての魂だけはそうとは知られずにサイコーの世界に取り込まれて、夢の一端を担っていたんでしょうね。 ながながしく書いた割には、ちゃぶ台返し的な顛末で一番驚いているのはわたしなんですが、書いたおかげで、七峰透への印象が変わりました。よかったよかった。ということで、バクマン。には隙がなくなったので、読んでいない人は読むといいと思います。 おわり

ガラスの仮面

「こんにちは、あたし」で鳥肌

ガラスの仮面 美内すずえ
ばにゃにゃんだー

ガラスの仮面って月影先生の「恐ろしい子」って台詞があまりにも有名で、ガラスの仮面を読んでなくても、パロディでよく使われてるから有名ですよね。 でも、私が1番すごいと思ったセリフは北島マヤの「こんにちは、わたし」というセリフです。役者としての技術も未熟で、バレエなどの下地もない彼女は、それらを持つ姫川亜弓に憧れていますが、その姫川亜弓が嫉妬するレベルで忘我し役になりきる北島マヤの天才性を端的に表しているセリフ・シーンだからです。役の仮面を脱ぎ捨て「こんにちは、わたし」と鏡に映る自分に対して言い放つ姿はまさに狂気ですし、「恐ろしい子」です。 この漫画の魅力のひとつに北島マヤと姫川亜弓の立場の逆転があると思います。物語の序盤は天才として扱われた姫川亜弓も今は努力の人として定着し、役者としての未熟さを笑われていた北島マヤは無二の才能で他者を圧倒する恐ろしい子になっていきます。最近では、主人公の北島マヤよりも姫川亜弓を応援したくなることもしばしば。姫川亜弓の「ガラスの仮面をつけているのは、わたし」というセリフなんか泣いてしまいます。 紅天女を演じるのは誰になるんでしょうか。気になりますね。この物語の終わりをわたしは読みたくてしょうがないです。