キャップ推し
1年以上前
ジョーカーには決まったオリジン(キャラクターの起源となるストーリー)がないというのはよく知られている。ベンおじさんを失うピーター・パーカー、宇宙からやってくるスーパーマン、といった定型のルールはジョーカーには当てはまらない。 彼はいつだって、物語に登場したときから狂っていて、得体のしれない不定形の犯罪王だ。 『キリングジョーク』もまた、掟破りのコミックとして名が通っている。 コミックの世界に桁外れのリアリズムを持ち込んだアラン・ムーアは、DCコミックスの誇る伝説のヴィランにも確固たる人生のバックグラウンドを与えることを試みた。 「レッドフッド」を装った彼が薬品工場でジョーカーに変貌するという筋書き自体は1951年に提示されたものだ。オリジンがないとはいえ、ジョーカーの基本的なイメージは多くをこのストーリーに依拠しており、本作もそれを踏襲している。 レガシーを踏まえて、ムーアとブライアン・ボランドが取り組んだ仕事は、ジョーカーとなる男に読者の感情を投影させることだった。 無駄のない構成とレイアウトのリフレインを用いて、ジョーカーの狂気に読者を寄り添わせる演出の絶技に触れることはここでは省く。ページをめくるだけで体感できることだからだ。 結果的に我々はジョーカーに「共感」し、それを裁こうとするバットマンの姿を今までにない感情を込めて見つめることになる。 映画『ジョーカー』が公開されて以降、このキャラクターの持つ多様な側面について、熱狂的とも言える興味が喚起されている。 一体彼は何者で、どんな考えを持っていて、そしてどうなっていくのか。 多くの人がその答えに近づくヒントを求めて本作を手に取ったのではないだろうか。(実際にアメコミの邦訳本としては驚くほどの版を重ねていると聞く) ジョーカーというキャラクターの闇は本作を通して少しでも光の中に照らし出されたのだろうか? 狂気が生み出される瞬間を目にして、我々は彼を理解できただろうか? 個人的な考えを述べれば、NOだ。 バットマンに手を差し伸べられたジョーカーの足元を照らすライトは最後には消えていく。 どれだけ悲惨な人生を生き、どれだけ凄絶な過去を抱え、どれだけの苦境に立たされようと、彼はいつだって狂ったジョークしか口にしない。 これからも前述の問いに答えが出ることはないだろう。 それこそがジョーカーをジョーカーたらしめている、最大の魅力なのだから。