ひとりぼっちで恋をしてみた

「わたしは死んでも良い人です」

ひとりぼっちで恋をしてみた 田川とまた
Miyake
Miyake

■1巻 天然キャラのコミカルな恋愛模様かと思いきや、ハードなヒューマンドラマだった。 締め付けられる面白さ。 家出してからのストーリーが、一気に引き込まれる。 友達もいるし母親も余裕はないけど優しいし、すぐに家に帰ると思ったらそんなことはなかった。 主人公は人間関係で失敗し続けることで、本気で追い込まれていたのが身に滲みてわかる。 「私の馬鹿は、人に笑顔を強いる凶器」 「怒らせても苦しませても傷つけても、私の周りは優しい人であふれてるから、みんな取り繕ってくれる…」 「じゃあ私から離れるべきだって、決意した」 人を好きだからこそ、その人の自然な笑顔が見たい。 でも、自分にはそれができない。 迷惑ばかりかけてしまう。 言葉にすると陳腐だけど、文字通り「死ぬほど」悩む有紗が、いつか自分を認められるように。 デキる大人になる、以外の道も多分ある。 ■2巻 千晶との生活が描かれる。 有紗は不器用で言葉も拙いけど、行動力と絵の力で、人に何か強くを伝える力があるなぁ。 魅力的だと思う。 有紗が拓の息子にバットでぶん殴られて流血するのが強烈だったな。 どうしても好きな家族を取り返したいのが伝わった。 有紗も自ら殴られに行くのが衝撃だったな…体張りすぎ。 じーさんの息子の顔描いて、笑顔になって、のシーンは好き。 千晶のでかい笑顔の絵描いて、千晶が涙流すシーンもとても良い。

東京城址女子高生

空想楽しむ東京史跡案内

東京城址女子高生 山田果苗
あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ

東京の城址を求めて街を彷徨う、女子高生のあゆりと美音。微かな歴史の痕跡から、古を空想して楽しむ東京散歩。あゆりと一緒に「え、城どこ?」って言いながら、画面を睨んで楽しもう! ----- 江戸城を始め、東京には沢山の城があったと伝えられているが、それらは建造物どころか、基礎の遺構すら殆ど残っていない。必然的に東京の城址巡りは、画面的にはただの公園や社寺、街歩きになってしまう。 漫画としては危機的なこの状況を、面白く救ってくれるのは、城址マニアの美音や教師の田辺に「何じゃそりゃ!」と突っ込む、素人のあゆりの存在。 私達はあゆりと一緒に、分からないなりに目を凝らして、微かな遺構を見出し、歴史上の人物に想いを馳せる。そして城址の知識を得、歴史の醍醐味に魅せられて、街を見る目が変わった時、私達はもう一度、二度と、この作品を見返したくなるのだ。 「あそこの城址って、どんなだっけ?」と。 街の風景に「歴史」という四次元軸を与えて、古くて新しい感性を吹き込むこの作品。考え方としては、『ちづかマップ』が「古地図」によって土地の時間軸を遡行していくのと相似している。 都市の地層を、城址のかつての姿が見えるまで、めくっていく。この作品は、そんな考古学的妄想の産物なのだ。 ハルタ印の美しい画面は、緻密に描き込まれつつ整理され、眺めていて気持ちいい。ちょっと荒んでいたあゆりの心が、優しそうでいて結構毒舌な美音との会話と新たな興味で、次第に落ち着いてゆく様子も、併せて見つめていたい。

田島列島短編集 ごあいさつ

いま、ここで何かが動く ~流動する田島列島~

田島列島短編集 ごあいさつ 田島列島
影絵が趣味
影絵が趣味

寡作故に何年も前から要注目の新人であり続ける田島列島選手もとうとう単行本が3タイトルになりました。そろそろ傾向といいますか、作家性がみえてきそうな気がします。 まあ、とにかく、留まることが嫌いなひとなんでしょう。生まれついて付与された性別からして変えてしまうひとが毎度登場するのも、毎度のこと親が突然家から出ていってしまうのも、まずテコでも動かなそうなものから率先して動かしてやろうとする気概がみられます。 今作も、まあ、いきなり不倫からの幕開けで、しかも、不倫された奥さんが不倫相手のアパートを訪ねに行く。さらに本妻が訪ねて来るというので同居人の姉さん(不倫相手)が家から出ていってしまうのが主人公の妹の境遇なわけです。もう初っ端から動きまくり。そして、はじめはこの事態を「昼ドラ」と形容して、一歩引いた目線で傍観していた妹がこんどは、くりかえし訪ねてくる本妻に心を動かされて、自らアクションを起こす。ただ受け身でいるのが嫌だといって自分のほうから積極的に奥さんに働きかけるんです。この「ただ受け身でいるのが嫌で自分のほうから積極的に働きかけようとする瞬間」こそが田島列島マンガにおける決定的な動きなのではないかと睨んでいます。 ひとというのはどう足掻いても外的作用からは逃れられない受動的な生き物ですから、積極性を発揮するといっても、けっきょくは何かを受けての積極なわけです。せいぜい外的作用の決壊を防ぐために土嚢を積むことしかできないといいますか、攻撃のない野球みたいなものですね。ピッチャーがどんなに踏ん張って最高のパフォーマンスをみせても、せいぜいゼロか失点によるマイナスしかないわけで、これでは試合は動きません。田島列島には、このテコでも動かない受動的な状況をどうにかしてでも覆してやりたいとする気概がみられるんです。 ただし、この転覆は極めて難しい。だからこそ、せめて、そのほかのものだけは自由に動けるようにしようとする。これはインタビューで言っていましたけど「キャラが勝手に動く」という言い方をされている。たしかに自分でキャラの動きを先に規定してしまえば、作者本人からしてみればキャラがそこでは自由に動きまわれない不自由が生じることになる。だから、しばらくのあいだ、キャラが自分から自由に動いてくれるのを待つ。それ故の寡作なのかもしれません。そうして待つことで、いま、ここで何か動くのを最前線で捉えようとしているんです。 あとは台詞、というか言葉についてもかなり辛辣な姿勢がみられます。田島列島マンガのキャラたちは互いに言葉を介そうとはしないんです。だからいつだってセリフは間の抜けたギャグのようになり、発した言葉は相手に届かず、会話は常に両者のあいだの宙を空転している。これも留まることが嫌いな田島列島ならではの仕様といいますか、感情というのは常に複雑に流動しているものなのに対して、言葉を発するというのは、そのとりとめのないものを無理やり型にはめるような作業なので、田島列島マンガのキャラは誰も言葉なんか信じてはいない。ただ、それでも、それでも、言葉を伝えなければならない瞬間というのはどうしてもある。『子供はわかってあげない』がそうだったように。ただ、好き、と言っても、それは胸の苦しくなるようなバカでかい感情を小さな型に無理やりはめただけでそれでは嘘になってしまう。ナンセンスなんです。それは朔田さんも重々承知なんです。だからこそ、その一言がなかなか口をついて出ない。でも、それでも、せいぜいゼロかマイナスしかなくても伝えなければならない瞬間があるんです。まさにそのとき、田島列島マンガで何かが動いている。テコでも動かないような何かが動いているんです。

SARU

あまりにも強靭な物語は物語を止めて自然に還る

SARU 五十嵐大介
影絵が趣味
影絵が趣味

物語をひとつの凝固した結晶のようなものに例えるならば、物語ならざるものは水とか空気とか流動的で不定形なものに例えられるでしょう。 『はなしっぱなし』での商業誌デビュー以来、『そらトびタマシイ』、『リトル・フォレスト』、『カボチャの冒険』など、五十嵐大介はいちおうマンガ家という身分でありながら、物語の外へ外へと行こうとする傾向、物語ならざるものを描こうとする傾向があったように思います。それはペンタッチにも如実に顕れていて、一級の物語を量産した手塚治虫のガチッとしたペンタッチとは正反対に、絵がどこかへ漂いでてゆくかのような不定形なペンタッチをしています。まるで霧みたいな絵ですよね。 そんな五十嵐大介がはじめて物語と向き合ったのが『SARU』なんだと思います。猿、すなわち『西遊記』の孫悟空。いまも形を変えながら広く世界中で読まれ続けている中国四大奇書の『西遊記』は、三蔵法師が天竺を目指して旅をする明時代に成立した長編小説ですが、いまひとつ著作者がわかっていない。つまり匿名の物語なんです。物語の匿名性については狩撫麻礼の『オールド・ボーイ』にも詳しく書いたのですが、匿名の『西遊記』はしかし、実在したといわれる唐時代の僧、玄奘三蔵が記した地誌『大唐西域記』を基にしている。『西遊記』は『大唐西域記』の史実に則りながら、玄奘三蔵が旅した各地に伝えられた三蔵や猿にまつわる逸話を無数に盛り込んで、虚実入り乱れる一大伝奇小説に発展していったものなのです。 おそらく五十嵐大介はある時に気がついた、物語の外へ外へ行こうとするばかりではダメだということに。そこで物語の内部に入り込んでみた。すると物語はマトリョーシカのような入れ子構造になっていた。『西遊記』の基に『大唐西域記』があり、『大唐西域記』の実際の旅の行程が各地に伝説を残し、その残された伝説を吸収して『西遊記』が膨れ上がるといったように。 入れ子をひとつずつ外して内部に侵入するたびに匿名性が膨れ上がる。そして、ついに究極の匿名性に至ったとき、物語は作為的に凝固するのを止め、水や空気のような流動的で不定形な自然に還る。この自然を五十嵐大介は『SARU』で実現してみたかったのではないでしょうか。さらに『SARU』での試みは『海獣の子供』にも伝承という形で受け継がれていると思います。

肉女のススメ

肉欲は内に秘めるのがやはり良い

肉女のススメ 小鳩ねねこ
名無し

肉とは、テンションがあがるもの。 それはわかる。 だが、漫画やTVではストレートな表現が多すぎる。 過剰に「ウマイッ」とか「喰いたいっ!」とか 叫びまくったりするシーン。 そういうのは嫌いだ。 本音なんだから、といわれればしょうがないが、 明らかに演出としてオーバーリアクションを しているさせていると感じてしまうと、しらけてしまう。 TV番組とかで食レポ担当がやたらと 「うまそー!」「食いてえー!」 とか叫ぶのを見せられると興ざめしてしまう。 「肉女のススメ」は、その辺が適度で良い。 結局は「お肉サイコー」という内容で ちょっと演出過多な絵も出てきたりするけれど、 自分には許容範囲内。 とりあえずは色々と女性らしい理由で 「肉を食べたい」という心理を周囲に気づかれまいとする 感じから物語が始まるし。 そしてそうやって内に秘めたるがゆえに 「肉欲」がより膨れ上がってしまう、というのが良い。 で結局は秘めきれずに、暴飲暴食してしまった、マズッた! こーゆーのが良い。 それと話がすすむにつれてそれぞれの「肉女」達が 少しづつ少しづつ仲良くなっていくのも良い。 仲良きことは美しきかな、それがいずれも美女で、 あくまでも肉欲を内に秘めつつ、というのが良い。 これが 「キャー、アナタも肉好き!  私もそうなのよー、行こ行こ、焼肉行こ!」 じゃ、駄目なんです。 逆に 「私、お肉駄目でえ、サラダ頂きますね」とか 「お肉食べるなんて生き物がかわいそう」とか論外。 こういう感覚は人それぞれで許容範囲が違うとは想うが、 とりあえず私はこの漫画は許容範囲内で面白かった。 あと、女性が肉を食すシーンでは、 多少エロっぽく描いている感じはやはりあるが、 まあそれも許容範囲内で良い。 というか私はソッチの許容範囲はもともと広いし(笑)。

のーどうでいず

フルカラーで見るタナゴ&埼玉田園風景

のーどうでいず せきはん(大森しんや)
あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ

「ポンポン山美人姉妹」の姉・高校生のさとみは、タナゴオタクだった!胴長姿で水路に入っていくさとみに、妹のともえも、近所の純とはなこも、呆れ顔。オシャレもしたいけれど、まだまだ外遊びも楽しい!そんな女の子達の自然観察&アウトドア系夏休みを、フルカラーでどうぞ。 ----- 作者のせきはん(大森しんや)先生は、例えば古いバイクに跨る女の子の『グッバイエバーグリーン』、旧車のレストアを学ぶ女の子達の『ぜっしゃか!』など、ノスタルジーに消えてしまいそうな物を若い感性が再評価する、という物語を描かれる。 『のーどうでいず』の場合は、都市化を免れている田園風景を、若者が慈しみ楽しむ様子が瑞々しく描かれている。取り敢えず自然は豊かで、子供達も先のことを考えず、今を目一杯楽しんでいて、ゆるく楽しめる。 この作品が全編カラーで描かれているのは、恐らく、タナゴを描くためであろう。幾度か出てくるタナゴの、虹色の体色は本当に美しい(現実のタナゴも全く同じように美しい)。これを求めるさとみの感覚は、宝石探しのようなもの、なのかもしれない。 青空と緑の自然美に、女の子達の色とりどりの服がアクセントになっていて、単調にならない。色調を明るく、淡めに統一しているので、目に優しく、楽しげながらも、ちょっと色褪せたノスタルジーも感じられる。 優しい色彩の中を溌剌と遊ぶ女の子達に、こちらも元気を貰えるこの作品。1巻で止まっているのが勿体ない。 タナゴ釣りの仕掛けの、精緻な細工の話など出来ないだろうか。さいたま水族館やムサシトミヨの話なんかも見たい。 今後に期待しては、いけないだろうか……。