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数年前までは大島弓子の作品は一冊も持っていませんでした。今後も持つことはないだろうと思っていたら「グーグーだって猫である」に巡り合いました。1970年代の大島弓子の絵柄を知っている私としてはかなりの落差を感じましたが,第1巻の話がなかなか読ませるものがあり,収集することにしました。
大島弓子は萩尾望都,竹宮惠子とともに「花の24年組」と呼ばれ,1970年代における少女漫画の革命家の一人です。実は大島弓子の作品はかって何点かもっていました。
それは,1970年代に発刊された「小学館文庫」に含まれていました。同じころ講談社も漫画文庫本を発刊し,ちょっとした文庫本ブームとなりました。
しかし,やはりサイズが小さくなることは漫画にとっては好もしいことではなく,90年代に入ると数百冊あったものを全部処分してしまいました。文庫サイズを選択したことは私の漫画人生における大きな判断ミスでした。
現在,我が家には文庫サイズの漫画は一冊もありません。この処分したものの中に大島弓子の「鳥のように」「海にいるのは・・・」「雨の音が聞こえる」「銀の実を食べた」「キララ星人応答せよ」(単行本のタイトルです)などがあったはずです。この時期の大島弓子の作品はけっこう好みでしたから残念なことです。
大島弓子は栃木県出身であり短大在学中の1968年に初めて持ち込みをした「ポーラの涙」が「週刊マーガレット」に掲載され,漫画家としてデビューします。当初は集英社の「週刊マーガレット」が活躍のばでしたが,1972年からは小学館の「少女コミック」に移っています。
作者の言では「少女コミック」はジャンルの規制をせず自由な編集方針であったことが移籍の理由となっています。
確かに「少女コミック」あるいは「別冊少女コミック」は萩尾望都や竹宮恵子が執筆しており,その環境で大島弓子も自分の独自性を十分に発揮できたようです。1970年代の代表作である「綿の国星」は白泉社の「LaLa」で発表されており,活動の場はさらに広がっていきます。
小学生の頃、ある日、母が家族になんの相談もなくいっぴきの猫を連れ帰ってきた。もう子猫とは言いがたい白いチンチラで、目は綺麗なエメラルドグリーンだった。母曰く、気がついたらペットショップで購入していたとのことだった。当時の私は、この珍事件に歓喜したのか、さっそく翌日にはクラスメイト全員にアンケートをとり、そして名前が決められた。Jといった。 家族や私の友人にたいへん可愛がられたJだったが、数年が経つと、事態は少し変わっていた。私は中学生になり、部活や勉強に忙しく、あまりJの相手をしないようになった。その代わりに意外にも、父がJの世話に熱心になった。夜、父が仕事から帰ってくると、Jは歓喜乱舞した。父が外へ連れていってくれるからだ。毎夜、Jと父は15階建のマンションを上から下まで何往復もしてから疲れ果てて帰ってくるのだった。父と折り合いの悪かった私にとっても、この外での遊びは好都合だった。 しかし、世の中とは不可思議なもので、Jと父とは相思相愛にはならなかった。いわば父はJの遊びに利用されていただけで、Jを好きすぎる父はいかんせん触りすぎる。Jはそれをちょっと鬱陶しく思っていたらしかった。家族が寝静まる夜なか、Jはふらふらと寝床を探しはじめる。高校生になっていた私はいちばん遅くまで起きているようになった。父の部屋はJが出入りできるようにいつでも開けてあった。それでもJが父の布団で寝ることはなく、いつも私の部屋の閉ざされたドアをガリガリと引っ掻いた。その音のせいで寝られない日もしばしばあった。時々、気が向いた日にだけ(それはつまり色々あって落ち込んでいたり寂しい思いをしていた日だ)ドアを開けてやっていっしょに寝た。 大学生になると私はすぐに家を出た。Jのせいではないが、父との折り合いはますます悪くなっていた。家を出ると、すぐに生活が一変した。それまでずっと視界にモヤがかかっているかのようだった慢性的鼻炎が瞬時に治ったのだった。「バカは風邪をひかない」という言葉は真であるとそのとき私は思った。たぶん、私は猫アレルギーだったのだ。 グーグーを読んでいると、猫のいた日々を思い出す。長年、思い出しもしなかった記憶が沸々と湧き起こってくる。そして、なんだかよくわからないけれど、ボロボロと涙が溢れてくる。けっしていい飼い主ではなかったのに。 Jも父もいまだに健在だ。でも父は、年に一度あるかないかで会うたびに年老いたなあと思う。Jもそろそろ猫でいえば化けてもいいぐらいの年齢になっている。家出していらい、家には寄り付かないようにしていたが、そろそろこちらから訪ねてみてもいいかもしれないと柄でもないことを思った。Jは私のことをまだ憶えているだろうか。