山城国相良郡(やましろのくにさがらごおり)で発見された柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゅうべえみつよし)の死体は、潰れていたはずの左目は開き、開いていた右目が閉ざされていた。「風太郎忍法帖が、私の作品の原点の一つであることは間違いない!!」と言う石川賢氏による筆が冴え渡る!!慶安二年(1649年)能楽師・今春竹阿弥(こんぱるたけあみ)の舞う、過去の世界に誘う夢幻能によって十兵衛の眼前に現れたのは、甲賀葵の御紋を兜にいだく“徳川家康”を名乗る忍者だった。十兵衛と竹阿弥の命をもらいに地獄より推参したと言う家康は、徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)、酒井忠次(さかいただつぐ)、本多忠勝(ほんだただかつ)、井伊直政(いいなおまさ)による人馬一体となった騎馬忍法で十兵衛を襲う!!
宮本武蔵との戦いのさなか、突入してきた甲賀軍艦とともに亜空間に飲み込まれた柳生十兵衛とウマナミ。刻(とき)のはざまで能楽を大成させた世阿弥と出会い、刻を操るコツは自らの意志の力であることを知らされる。忍者・徳川家康を将軍とした忍びが支配する江戸時代がなぜできたのか。徳川家の秘密をあばくことを強く心に誓いながら、十兵衛は家康出生の刻を目指す。さまざまな次元を通過し、辿り着いた刻は永禄元年(1558年)、美濃・三河国境。この地でそれから2年余りの時を過ごしていた十兵衛の元を、「戦(いくさ)をなくすために天下を取る」と豪語する若き日の織田信長が訪れる。そこへ時を同じくして“十兵衛抹殺”に燃える、徳川家光と佐々木小次郎が迫っていた。