怪談を直接聞いている感覚で怖い…
そのまま怪談をコミカライズしたオムニバスって形ではなく、漫画家のエッセイ的でもあり面白い! ホラーを描いたことがない漫画家さんが、担当編集からの依頼で怪談提供者に取材をして聞いた怪談を描いていくことに。 https://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_CB01203215010000_68/ リアルなタッチの漫画家、二頭身でデフォルメのきいた漫画内漫画家、リアルなタッチの怪談の三層あってエッセイ風の絵柄とリアルな絵柄のギャップが好きです。 三層あることで、我々読者はより深くダイブしている感覚になるんでしょうか。 カメラワーク、場面の切り取り方もとてもいいので、いまこの場で話を聞きながら見てるような感覚があって臨場感がありますね。 ホラーの中でも怪談を聞くのがかなり好きなんですが、想像の余地を少し残すような描き方があるのでその感覚に近い形で読める気がします。
テレビを見ていたら、吉川きっちょむさんが「コワい話は≠くだけで。」を紹介していました
紹介自体はとても良かったのですが、当然ながら未読者向けの紹介でしたので、ここでは既読者向けの考察を書きます
最終話までのネタバレと、ついでに「地獄の子守歌」と「かわいそ笑」のネタバラも含みますので、ご注意ください
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
私、この作品に初めて触れたときは、「読者にも呪いが降りかかる」系の作品なのではないかと思ってました
ストーリーが、「怖い話を『聞くだけ』の主人公(=作者)」の身の回りで、次第におそろしい出来事が起きていく、というメタ感の強いものでしたし、作品タイトルも、「聞くだけで何かが起きるでは?」(=読者にも何か起きるのでは?)と想起させるようなものだったからです
つまり、令和版の「地獄の子守唄」ですね
「地獄の子守歌」は、主人公(=作者である日野日出志先生)が「狂気と異常にみちたおそるべく告白」をして、最後に、読者に向けて、「こんなおそろしいひみつをしられた以上」「きみに生きていてもらってはこまるのだ!」と叫んで、読者に対して「きみはこのまんがを見てから3日後かならず死ぬ!」という恐ろしい予言をするという漫画でした
本作についても、「地獄の子守歌」のように、「読者さん、呪われちゃったねえ」とか、そういうオチがつくことを考えていたわけです
しかし結論として、この予想は外れました
むしろ、本作は「除霊のための漫画」であり、「その犠牲として一部の人(=主人公)に呪いが降りかかる様子を楽しいホラーエンタメとして見届けてもらう」という作品だった、とのことです(23話)
メタではあるのですが、読者が呪いを受けるのではなく、作中人物に呪いを押し付けるという、真逆の作品であったわけです
原作者である梨先生の「かわいそ笑」は、「読んだ人に呪わせる話」だったわけですが、方向性としては似ています
おまけに、本作は、登場人物に呪いを押し付けたうえで、最終24話で円環を閉じることで、物語にループを作り出し、全てがその中で完結してしまう(=そこから何も抜け出せなくなる)という形で、完全に呪いを閉じ込めて、犠牲者(=主人公)の救出を不可能にしました
これが、本作における作者の意図です
物語と現実は、接続することがありますが、片側通行です
つまり、現実が物語を書き換えることはあっても、物語が現実を書き換えることはない
キャラクターは、一方的に役割を押し付けられるだけの役割であり、このように閉じられた物語から抜け出すことはありません
いやぁ良かったハッピーエンド!
…だけど、本当に?
そもそもですね、呪いを封じ込めるだけなら、こんな形式をとらなくていいはずなんですよね
だって、読者がいなくても、除霊はできます
つまり、除霊そのものが目的なら、少なくとも、商業誌で連載する必要はない
これに対して、前述の「かわいそ笑」は、読むことそれ自体が呪いになるという作品であり、それこそが作者の意図でした
読者は、必然的に、呪いの共犯関係に立つことになります
でも、読者は、意図して呪うわけではなく、作品を読むことで、結果として、呪いに加担することになるだけであり、読者もある種の「被害者」ではありました
これに対して、本作は、前述のとおり、読者がいなくても成立するはずです
では、読者は不要なのか?
実はこの点、この点、作中で言及があります
読者の役割は「楽しいホラーエンタメとして見届け」ることなんですね
しかしこれは、よくよく考えると、かなりきわどい話でして、つまり、我々読者は、ホラー漫画を読むとき、作中人物がひどい/こわい体験をするのを見て、「こわーい」とか言いながら、安全地帯からそれを楽しんでいるという、そういう意味です
我々は、普段、そんなことをあまり意識しませんが、本作のメタ構造、現実と物語の一方通行性を前提に、本作における読者の役割を意識すると、そういうことがみえてきてしまいます
我々は、主人公がひどいめにあって泣いているのを見て、それをエンタメとして消化してしまっているわけで、これは実に残酷な構図です
しかも、読者は、単なる傍観者ではありません
そのようにエンタメとして消化すること自体が、主人公に対する加虐にもなっています
(主人公は、自分の住む世界が、『楽しいホラーエンタメ』であり、
読者のみんながそれを見て楽しんでいると知って、より強く絶望したことでしょう)
おまけに、「かわいそ笑」と違って、その加虐は、能動的なものです
前述のとおり、本作に限らず、ホラー漫画を読むとき、我々は、常に、能動的に、エンタメとしてこれを消化しており、ただ、そのことを意識していないだけです
本作は、そのこと、つまり、我々の能動的な加虐を、強く可視化させる作品なのです
…ということを散々書いてきたのですが、これは、「自分が普段作っていたものが、実は爆弾の部品だった」と気づいたみたいな話で、そのことに気づいても、もはや取り返しはつかないわけです
ではどうするか?
じゃあせめてその加虐に意識的でいよう、きっちりエンタメとして消化しようと、いうのが私の結論です
コミック最終巻に、QRコードがついていて、それを読み込むと、以下のURLに飛べます
https://x.com/intent/like?tweet_id=1741066608448016478
私は、この作品をエンタメとして消化するために、この画像に、敢えて、「かわいそ笑」というコメントを書き込ました
ただ、これが正しかったのかどうかは、今となってはよく分かりません