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『初恋ゾンビ』の作者である峰浪りょう先生が、IKKIで発表した読切『東京、雨、したたかに』は、自分が「あの時」をどう生きていたか、そして今をどう生きているか少し考えたくなる作品だ。
「あの時」とは震災の記憶が薄れ始めた頃。
あの日、どこか世界は変わった。日常が日常では無くなった。
少なくとも、そう思った「はず」だった。
けれど、東京に日常は訪れた。
「それっぽい」日常が帰ってきてしまった。
汚れた世界を隠しながら。汚した世界を隠しながら。
主人公の少女は、そう感じる世界で生きていた。
事実がどうであれ、彼女が「そう感じていた」ことが全てで、彼女にとって、世界はとても生き辛いものになってしまっていたのだ。
#少女が生きていくためには
そんな世界で少女が生きていくためにしたことを、本作は描いている。
彼女は自分を汚した。男に汚されることで。
それは端からすると、自暴自棄に見えてしまうかもしれない。
誰もが納得するような
けれど、その行為を否定しきれない自分が確かに存在する。
私達はどこか、世界を汚れたものだと思いつつも、素知らぬふりをしながら生きている。自分はキレイだと思って。キレイなままで生きたいと思って。
少女は違った。
世界にはずっと雨が降り続いていた。地面はもう泥だらけ。
彼女が綺麗に歩ける場所なんて、もうどこにも残っていなくて。
立ち止まるしかなかったのかもしれない。
だから彼女は、泥の中で生きる覚悟をするために、自らを汚しにいったのだ。
彼女のそれは、あくまで自分が「生きるため」の行為なのだ。
もちろん、それが正解か分からない。彼女自身も、そんなことは分かっているのだろう。
ただ彼女は、自分の中の「嘘っぽい日常」を壊したかったのだ。そうすることで初めて、自分が生きる世界が見えてくると思ったのではないだろうか。
#私達はどう生きるか
彼女の選択は、世の中にとって分かりやすい「正解」とは異なるだろう。
しかし、私はそれを選べる強さを少女に感じてしまった。
相手を圧倒するような強さではなく、世の中の色々なことを自分なりに受け止めていくような「したたかさ」。
泥にまみれながらも、生きていくために、自分に必要なことを選択できる強さだ。
行為が終わった後、男性に向けた笑みがまさにそうだった。
彼女はそうして、汚れた体で、汚した体で、したたかに生きていくのだろう。
汚れた手で、彼女は目をこする。
彼女の視界はもう、開けていた。
……という凄い読切なので、読める方はぜひ。
全体的に落ち着いたテイストでありながら、読み終わった後にひどく心に刺さってくるような作品だ。
彼女は後年、自分がしたことを「バカだった」「若かった」と振り返るかもしれない。でもそれは「その時の彼女」が感じることで、「今の彼女」には必要な行為だったのではないか……と思わされてしまった。
雨が降るたびに、思い出して、自分のこれまでの生き方やこれからの生き方を考えたくなってしまう気がする。
水しぶきや泥のかかった靴で、私達は歩いていくのだから。
ーーそれは、いつの間にかやってきて、ずっと、ここにいるのです。いつまでも消えることなく。(月刊IKKI2013年4月号)