兎来栄寿
兎来栄寿
2019/02/04
ネタバレ
「日本一泣ける4コママンガ」
業田作品で最も有名なのは、映画化もされたこの作品でしょう。実際、私が初めて単行本を買った業田作品も、この『自虐の詩』でした。この作品の触れ込みは、「日本一泣ける4コママンガ」。普通、4コママンガといえばギャグマンガです。泣けるようなストーリーをやりたいのであれば、明らかに普通のコマを割って抑揚を付けられるマンガの方が有利でしょう。どんなものなのか、と気になって手に取りました。正直、最初は面白いと感じなかったのです。絵柄もギャグもあまり肌には合わないな、と。それでも「最後まで読んで欲しい」「終わりまで読めば解る」という大多数の声を信じて最後まで読んだら…… もう、まんまと感銘を受けてしまいましたよね。私のように最初は微妙だと感じる方もいるかもしれませんが、この作品だけは最後まで読み切って下さい。 幸江という名前ながら、ずっと不幸な目に遭い続けた主人公が、最後に至った境地。 > 幸や不幸はもういい。 > どちらにも等しく価値がある。 > 人生には明らかに意味がある。 映画版の最後でも同じ文言で読まれる手紙は、どんなに辛い境遇にある人の人生をも肯定する比類なき名文です。そして、最後に出て来るこの至高のモノローグ。これらの言の葉は、私の血肉となって長らく心の支えとなっています。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/02/04
あなたに贈りたい哲学短篇集
私が、業田作品の中で最も好きなのが、この『ゴーダ哲学堂』シリーズです。 一話完結型の短篇集なのですが、その一つ一つのお話に込められたテーマ性の深さ、訴えの切実さたるや! 愛とは何か、幸せとは何か、正義とは何か、人は何のために生きて行くのか……一篇は僅か16ページ程なのですが、「哲学堂」というタイトルに相応しい、深い洞察がそこには存在します。16ページの短編マンガとしてはあまりにも有名な萩尾望都先生の『半神』がありますが、『半神』を読んだ時と同じように、マンガというのはこの僅かなページ数にこれだけの物を込められるのだな、と感嘆せずにはいられません。 この世からあらゆる悲劇を排除したら世界はどうなるのかを描いた「悲劇排除システム」や、素粒子や「空」「物自体」「神」といった概念で世界を解体しつつ最終的に愛という究極の奇跡に帰着させる「原子的ラブレター」など、私は愛して止みません。 業田先生は、人間存在や社会を時に冷厳に見据えつつも、しかし根底では深い愛情を以って希望と共に包み込みます。この本は、読めばきっとあなたの人生の財産となります。もしも今読んで響かなかったとしても、何年か経ったらまた読み直してみて下さい。様々な経験と年齢を重ねて再び紐解いた時、この一つ一つの輝く結晶はきっとまた違った感動を与えてくれるでしょう。又、誰かにプレゼントするにも最適な本であると思います。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/02/04
人間賛歌の究極形
第17回手塚治虫文化賞短編賞受賞作。NHKでラジオドラマ化もされ、名実共に業田良家先生の代表作と言って良いでしょう。 こちらも、一話完結型の短編集です。上記の、『ゴーダ哲学堂』や『ロボット小雪』などでも描かれて来た、「心を持ったロボット」というテーマに今一度踏み込んだ物語群となっています。子供や老人と触れ合う、感情を持った純粋無垢なロボット達のお話は、ハートフルでとても感動的です。 しかし、この作品が凄いのは、そういった従来の「心を持ったロボットとのコミュニケーションによって生ずる感動」のみならず、戦闘用に作られたロボットや尋問用に作られたロボットたちが送るハードな物語も同時に描かれることです。その双極性によってそれぞれのテーマが立体化し、どちらもより痛烈に刺さって来るのです。業田先生は、ロボットを描くことによって、間接的にどこまでも人間を掘り下げて行きます。 今この瞬間に飢えている人に法を犯してでも食べ物を分け与えることは不正義なのか? 何かを築き上げてもいつかは天災などによって無に帰ってしまう不条理を前に、人間は諦観するしかないのか? 様々な哲学的な問い掛けに、業田先生は果てしない希望と愛情を以って筆を尽くします。誰かの為に何かを為すことの尊さは、決して失われることのない永遠性を持つのだと。そう、この作品は、負の面も含めた人間賛歌の究極形なのです!
兎来栄寿
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2019/02/04
残酷なまでの天才に、秀才は努力と執念で勝てるか?
才能を問い、芸術を問い、魂を焦がす美しき絶望と希望。 この物語の中には、こんなシーンがあります。 > 芸術と命の輝きは理屈を超越しとるんだ > それに触れただけで生きがいを感じ > すべての現実を忘れられるかのような瞬間を生む > > 空腹を忘れられる芸術を > あなたが感じたことがないのなら > そのことのほうが不幸だ この言葉は、作中では現実の飢えや貧困、それによる死を間近にしている者に「富める者の傲慢」と断じられはします。しかし、少なくとも理屈を超越し寝食を忘れて生きる歓びを与えてくれる芸術の存在を私は沢山知っています。むしろその為に、すべてを忘れて没頭し、胸を焦がされ脳を支配されるような体験と出逢うためにこそ生きていると断言できます。 食べた野菜や肉は身体を形成しますが、鑑賞した芸術は同様に心や魂の一部となります。そして、身体と違って物質的な制約がない分、幾千幾万幾億の世界や人生を味わうことができます。一回性の人生に与えられた、限りのない派生を可能にする階。俗世の理を超えた存在。それが芸術であり表現というものでしょう。 そして、この『神様の横顔』もまたそういった理を超えた所にあることを強く感じさせてくれる作品です。     ■秀才と天才の紡ぐ物語 人間は天才が大好きです。圧倒的なパフォーマンスで周囲を、常識を、世界までもをドラスティックに改変していく。そんな天才の姿に憧れます。願わくば、自分もそんな才気を発揮したい。自分も天才だったなら……。誰もが一度は思うことではないでしょうか。『神様の横顔』が描くのは、そんな天才と、才能を渇望する秀才の物語。 才能はどこから やってくるのか? 地からわき出すように 体の中に生まれるのか? 天から降るように 与えられるのか? 持つ者と持たざる者は すでに決まっているのか? > 嫌だ!! > 才能が生まれた時から決まってるなんて… > 俺は…信じない――!! 主人公・千鳥敬太郎のこんな独白から物語はスタートします。 そして、冒頭で敬太郎が祖父の創設した「青年劇団千鳥」の首席スターの華やかさに心奪われ、憧れるシーンが描かれます。「僕も真ん中に立ってあの人のようになりたい」という敬太郎の原体験は十分な説得力を持っており、物語の幕開け直後から入り込んでいけます。 成長した敬太郎は容姿・実力ともに申し分なく、千鳥で学年トップの座につき将来の千鳥のスターを嘱望されていました。しかし、理事長であり義母である千鳥藤子から「千鳥初の地方試験合格者である麦蒔摂(むぎまきせつ)に会って、あなたは真の首席スターではないと解った」と宣告されてしまいます。麦蒔こそは、秀才である敬太郎に立ちはだかる圧倒的天才。敬太郎は、同室で暮らすようになった麦蒔の才能を様々な局面で徐々に目の当たりにしていきます。 しかし、自分と掛け離れた圧倒的な才能を前にした敬太郎が陥ったのは絶望ではありませんでした。敬太郎は、麦蒔によって進むべき道を希望の光で照らされたと感じたのです。秀才の飽くなき野心にゾクゾクしつつ、滾ります。自らの凡庸さを自覚した上での戦い。それは、多くの人にとって少なからず共感できる所があるでしょう。 残酷なまでの天才と秀才の対比は、その後も切々と描かれ続けていきます。演技することを楽しむ麦蒔と、苦しみ悩みぬく敬太郎が同時に描かれる残酷なコントラストは特に印象的です。単行本の表紙においても、一巻の全てを覆うような黒の中で正面を向いて強く唇を結ぶ敬太郎と、二巻の純白の中で天使のような翼を生やして一人だけ神様の方へ向かっているかの如く横顔で柔らかく微笑む麦蒔という明暗の描かれ方。陰と光。月と太陽。果たして、敬太郎は自ら光輝き神様に正面から微笑んでもらえる日が来るのか。 演技での天才と秀才の激突というと『ガラスの仮面』を思い出さずにはいられないですが、『神様の横顔』はそこに留まらず彼らの間に生ずる感情も注目すべきポイントとなっていきます。ある意外な設定がもたらす関係性への波紋は、他の天才VS秀才の物語でもあまり見られない類のものです。又、1935年というのは第二次世界大戦の直前でもあります。藤子が「3年で次の主席スターを育てる」というセリフがありますが、もし育ったとしてその翌年、1939年からは大戦が開戦します。激動の時代の中で、彼らや千鳥はどんな運命を辿るのか。 ここで語った以外にも、本作には尽きぬ見所があります。特に十話は内容も、それを読んだ後に噛みしめる日本語/英語のサブタイトルも最高です。語りたくとも語れないその良さは、ぜひ読んで実感してみて下さい。
兎来栄寿
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2019/02/03
ラグビーマンガ界を牽引する本格ラグビーマンガの雄
『オールアウト!!』は、超王道スポ根。身長190cmの長身でラグビー経験者ながら気の弱い岩清水と、小さい体ながら持ち前の威勢の良さで未経験のラグビーに挑む祇園の二人を中心に、神奈川高校の面々が花園(野球でいう甲子園)を目指して闘っていく青春群像ラグビーマンガです。 ラグビーは一チーム十五人、敵味方合わせれば三十人。他のスポーツに比べると描かねばならないキャラクターが多く、ある意味マンガ化するのが大変な競技です。実際、登場する多くのキャラ全員を覚えるのは最初は困難に感じるかもしれません。 しかし、『オールアウト!!』の強みはそのキャラクター描写。読み進めるにつれて個性豊かなチームメイト一人一人のエピソードが丁寧に描かれ、自然と感情移入します。バカなヤツ、クールなヤツ、仲間思いなヤツ、食事シーンで真価を発揮するヤツ、重い事情を背負ってるヤツ……気付けば控えのメンバーも含めて自然と愛着が湧き、応援したくなります。敵となる相手校にも魅力的なキャラが沢山出てきて、今後の新キャラの活躍も楽しみです。 そんな中で私が最も惚れ込んでいるのは、キャプテンの赤山。チーム内でも最も剛健であり、外見も謎のメッシュで厳つい男ですが、その実とても情に厚く優しい頼れるキャプテン。誰よりも勝利に貪欲で、ストイックに上を目指し続ける姿勢にシビれます。厳しい練習に、 「もっムリ…」「死ぬ…」 と喘ぎ倒れ込みそうな部員への一喝。 「愚痴る力あるならっ 走れ! 今のっ 俺たちでも 出し切ることはできるっ」 と、気持ちを強く引っ張って行く姿は堪りません。そして、その「全てを出し切る」ということこそがタイトルでもある「オールアウト」。一度きりの人生。一秒も無駄にせず、今の自分を生かしてくれる周囲に感謝しつつ、オールアウトで行きたいものです。そんな熱量を『オールアウト!!』を読むと貰えます。 主人公たちを導いて行く大人もまた魅力的。熱い激闘の間に挟まれる、人生の年輪を感じさせる大人同士の呑みシーンの会話がとても良いメリハリを生んでいます。一人一人を叱咤激励し、チームをマネジメントしていく側の想いや葛藤、あるいは楽しさといったものも描かれ、こんな良い酒宴をしたいなと思わせてくれる稀有なスポーツマンガです。 キャラクターの良さに加えて、ラグビーという競技を知らなくても楽しめる丁寧な作りもポイント。細かいルールも、ラグビーを知らない主人公祇園と同じ目線で学びながら読み進めて行くことができます。『オールアウト!!』を読んでおけば、ラグビー観戦がより楽しくなること間違い無し! 2019年には、日本で9回目のラグビーワールドカップも開催されます。『オールアウト!!』のアニメ化も伴って、今後ますますラグビー旋風が吹くことでしょう。ぜひ今の内から『オールアウト!!』を読み、ラグビーの熱き世界に触れてみてはいかがでしょうか。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/02/03
禁断のソリッドシチュエーションSF
何という面白さ! 面白すぎる! 凄すぎる!! ルートダブルに本腰を入れ始めた時、私は「ジョジョの奇妙な冒険」のアニメのリアルタイム視聴すら諦めて、この過酷な世界に徹夜で没入してしまいました。そして、暫くの間うわ言のように「ルートダブル面白い」「ルートダブル面白い」としか言わない、壊れたレディオのようになりました。 「ルートダブル」は、2012年の6月にXBox360で発売されたAVG。今や禁忌とも言える極限状況。知的好奇心を刺激して止まない、近未来における新たな理を描くSF設定。それらが合わさって構築される、濃密な物語。その圧倒的な面白さは、私が2012年に触れた全ての物語の中で最高ともいえるものでした。   ■禁忌の絶望的極限状況 「ルートダブル」は、メルトダウンした原子力施設の中に閉じ込められた9人の脱出劇を描いた物語です。蔓延する放射線、火災、バックドラフト、酸欠空気、殺人……様々な苦難が満ちた地獄の世界で、果たして彼らは生き残れるのか。 このあらすじを聞けば、「福島の事故があったのに、そんな話は不謹慎ではないか」と感じる方もいるでしょう。実際、社会情勢を鑑みて発売中止になるかもしれない、という時期もありました。しかし、この作品の制作が発表されたのは2010年。元々、原発事故の被害者を貶める意志など微塵もなく、むしろ極限状況における人間の希望を描いた作品であるということが強調され、何とか発売されました。私は、この作品が世に出てくれて本当に良かったと思っています。純粋に面白いのは勿論ですし、触れれば悪意を持って創られた作品でないことは明白に理解できます。そして、放射線・放射能・放射性物質やベクレル・シーベルト・グレイの違いといったような知識を改めて学ぶことができる内容、そして作品の中で語られるテーマは今の社会において非常に重要で有用であるからです。   ■視点は「二つ」あったッ! 双極から立体化する物語 「ルートダブル」は、そのタイトルが表す通り、二つの異なる視点から同じ対象が描かれます。√Aは、記憶喪失になってしまった救急隊員の笠鷺渡瀬の視点で、√Bでは母親が研究所の職員である高校生の天川夏彦の視点で。マンガ版でもそれぞれのルートの話が別々に一本の作品として描かれ、単行本も√Aと√Bが二冊同時に発売される形でした。   たとえ見るものが同じであっても、観点が変わればその印象は全く違う……そんな面白さも見事に表現されています。一方的な視点見るだけでは解らない側面。他者の立場に立ってみて初めて解ること。この双方向的な構造それ自体が、批評性を持っています。これ以上ない緊張感溢れるシチュエーションで、二転三転していく物語。何でこんなに続きが気になる所で仕事に行かなければならないのか! と理不尽な怒りすら湧くほどの牽引力でした。この作品に込められた様々な趣向と構造には、思わず溜息すら漏れます。   ■SFの世界が現実に ジュール・ヴェルヌが描いた潜水艦や宇宙船、アーサー・CD・クラークが描いた衛星通信技術、H・G・ウェルズの描いた光学迷彩……優れたSFは、未来への真摯な想像力によって、現実を先取りしすることが多々あります。「ルートダブル」もその好例です。実際に制作中に原発事故が発生してしまった、というのも先見的ですが、この作品では根幹となる部分に一つ大きな設定を導入しています。それが、「Beyond Comminucation(BC)」、いわゆるテレパシーと呼ばれるような能力です。脳と脳による直接的なコミュニケーションが超能力としてではなく、極めて濃厚な科学的考証を経て、社会では普通の存在となった能力として描かれます。「"情報"もエネルギーの一種である」という理論は近年研究が進められ、今作で描かれるような現象も近い将来には実現しているのではないか、と思わされるリアリティがあります。知的好奇心の擽られるSFが好きな人間には堪らない作品です。   ガンガンオンラインのサイト上で1話の試し読みができますので、まずは騙されたと思って触れてみて頂きたいです。商業的な要請から美少女が全面に押し出されてはいますが、中身は実に重厚です。 ただ、この「ルートダブル」は、マンガ版は物語の途中までで完結となっており、事件の全ての真実や、より細かい世界設定などを楽しむためには原作をプレイする必要があります。とはいえ、マンガ版にはマンガ版の魅力も勿論あります。ゲームでは見られなかったアクションやキャラクターの表情・魅力といったものを堪能できるのは、マンガ版の強みです。原作と共に相乗的により深く物語を楽しめる作品として、まずマンガ版から入るも良し、先に原作をプレイして後から読むも良し。現在、PS StoreにてPS3版とVita版の半額キャンペーンが行われていますので、是非とも原作と併せてこの類稀なる傑作として「ルートダブル」の世界をお薦め致します。     ■余談 マンガソムリエを名乗り、あまつさえマンガレビューサイトでこんなことを言っていいのか悩みます。しかし、敢えて言いましょう。こと物語創作において、今最も可能性を持った媒体はノベルゲームではないかと。ヴィジュアル面とサウンド面、そして構造的演出による相乗効果を駆使できながら、映画やアニメに比べれば遥かに低コスト。その気になれば四畳半の部屋で個人単位で制作し、世界を変えて行くこともできます。 原稿用紙数万枚分や単行本数十巻分、あるいは映像にして数十時間分の超大なボリュームの物語をいきなり新人が打ち出すのは極めて困難ですが、ノベルゲームはそういったことも可能にする世界です。今後も、野心的な素晴らしい作品が生まれることを期待しています。 ただ、マンガにおける音声面の補完としては、最近では集英社のVomicや、Domixといった試みもあり、非常に興味深い所です。あるいはニコニコ動画などでも絵が多少動きつつ音声も付けられた作品があり、そちらにも新たな可能性を感じています。ロッキーの練習シーンや、ラピュタ上陸シーンのような、聞けば一瞬でそのシーンを想起するような音楽の力がマンガに付加されたらどうなるのか。Webマンガやスマホで読むマンガが隆盛を極め、マンガ業界も過渡期を迎えている今、どんな形のマンガが今後生まれてくるか、楽しみです。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/02/02
超絶的な冒険マンガがここにあった。
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未知の世界。 見たことのない景色や生物。 知的好奇心から来る「冒険」というものへの憧憬は、人間の奥底に根ざしています。そして、物語はその冒険の興奮を疑似体験させてくれます。『指輪物語』や『地底旅行』、『エルマーの冒険』などを読んで、夜眠れなくなるほど心踊らせた子供の頃のあの想い。 『ファンタスティックワールド』は、そんな感覚を再び呼び起こしてくれました。 トーチWebで読んでいた時から様々な面で普通のマンガとは一線を画した作品でしたが、紙の本になってそれは更に加速しました。何と豪華な装丁! 実際に手に取った時にその素晴らしさに感激しました。 表紙をめくった部分にある、異文化の文字による手稿。全く読めはしないのですが、図解で何となく概要は掴めます。もうここだけで最高にときめき、わくわくします。 小口や天地が表紙と繋がる一枚絵になっているなど、なかなかこのような贅沢な装丁のマンガはありません。 WEB掲載時にはなかった冒頭部のイントロダクションとタイトル見開きも、それだけでこの作品のスケールの大きさを雄弁に語ってくれます。圧倒的に広大で、明らかに既知の地球上にはない光景。この見開きを見せられて胸が高鳴らないわけがありません。 大判サイズで、これだけ美麗なフルカラーのビジュアルで見せられると圧巻です。極彩色の世界に陶酔します。これは紙で持っておきたくなる一冊。 内容については「地球の内部に存在する地表とは別の文明圏で、少年が歯を相棒に旅をしていく」という、あらすじだけ字面だけで見ると若干意味不明なものです。キャラクターの造形が独特過ぎると共にシュールな部分も多々あるが故に、最初は取っ付き難さを覚える方もいるかもしれません。しかし、そんなものはこの本の中の広大な世界と遙かなる奇想の数々に比べれば瑣末なことです。 ファンタジーだとかSFだとか、そんなジャンル分けをすることもこの作品に関しては無粋に思えて来ます。ただただ、ひらのりょう先生によって紡がれていく独特の世界を、読むというよりは体全体で浴び続け深く味わうような感覚に陥ります。そして、それが非常に心地良いのです。脳の普段使わない部分を活性化させられます。 これは、ただ単純に絵が魅力的であるというだけではなく、マンガとしてのコマ運びや静と動の緩急が上手く行われている所に起因しています。この作品がマンガとして表現されている意義を、読んでいて十全に感じます。 一見すると荒唐無稽な世界観に思える箇所もいくつかありますが、一方で現代社会や人類史上の現象や問題、哲学的なテーマを掬って解体し提示する面も見られます。 未知の世界のもたらすわくわく感を純粋に楽しむのも良いですし、創作的な刺激や思考の材料にもなる優れた物語です。 主人公の少年、ビコの以下の言葉に共感するなら、ぜひともこの唯一無二のファンタスティックな世界を体験してみて下さい。 > 「色んなヒトや知らない景色と出会える… >  もっと見たくない? >  この世界の先を…」 果たして、ビコと歯ちゃんの旅はどこまで達するのか……。続きと結末が非常に気になります。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/02/01
無冠の傑作
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タイトルだけ見ると、11人で闘うサッカー漫画? と思うかもしれません。ただ、残念ながらそうではなく21世紀中盤を舞台にしたSFバトルアクション青春群像劇です。 しかしながら、ある意味でサッカーとも共通点がない訳ではないのです。それは、まさしくサムライの心、志を描いているという一点。 サッカーの日本代表は、サムライブルーと呼ばれる「現代の侍」。そして『イレブンソウル』で描かれるのは、「近未来の侍」。やることは違えど、その根底に流れるソウルは同じ。イレブンは漢字にすれば十と一で「士」となる点からも、サッカー選手をサムライと呼ぶのには理が感じられます。 この作品では、常に死と隣り合わせという状況の中で、「心とは何か」、「愛とは何か」といった哲学的な問い掛けが度々なされ、その度に名言が頻出します。 その流れの中で、「幸せとは何か」という問いに対する、ある人物の答。 > 士(もののふ)とは… > 「十」の経験を「一」に帰結させる人種だと…… > (中略) > 一つのことを成し遂げるその瞬間… > そこに心の全てを傾けて生きる… > それが「志」ある生き方なんだと…… > そんな生き方ができるなら…… > 俺は「幸せ」だな…… この台詞を放った乃木玄之丞という男、あまりに格好良過ぎてシビれ憧れ尽くします。彼の「生きるとは何か」という問への答には思わず唸らされましたので、是非読んで確かめて頂きたいです。 ワールドカップ前にサムライとしての心構えを再認識させてくれるこの作品を読むことで、熱く闘う男たちの姿により一層感銘を受けることができるようになるかもしれません。   ■イレブンソウルの世界の魅力 2051年、遺伝子技術の発達によって不老不死に肉薄した人類。しかし、バイオハザードが発生。実験サンプルは自然界から遺伝子を取り込み急激に進化。「シャヘル」と呼ばれるようになったそれは、2年で南北米大陸を制圧。歴史上に初めて現れた自らを超える種に対抗すべく、人類は外骨格兵装を纏えるよう身体強化と訓練を施された「侍」と呼ばれる少年少女の部隊を結成。未曾有の進化を遂げる正体不明の敵を相手に対峙して行きます。 今作の主人公・塚原武道、通称たけちーは、およそ軍人には向かない穏やかな性格で、入隊前の適正検査でもEランク。特Aランクの秀才ヒロインに罵倒されながら、それでもある「志」を持って必死に地獄の訓練に喰らいついて行きます。 今作の魅力は幾つもありますが、まず上で挙げた乃木も含めキャラクターが実に魅力的。普段は軽口を叩き合う彼らですが、それぞれが抱える様々な凄絶な過去や切なる想い、そして迎える運命に胸が熱くなります。常にいつ誰が命を落とすか解らない極限状況の中で、重厚ながら人の温かみを感じるドラマに思わず涙してしまう箇所も。 「あいつらにもつまらない大人になる権利はあった」と語る渋い上官の言葉に、何とも言えない想いを噛み締めます。そう、このマンガでは美男美女だけでなくおっさん達も実にイイ味を出しています。おっさんが格好イイ作品は良い作品です。 強化外骨格による、シャヘルとの戦闘シーンの迫力も圧巻。中でも、前半の山場でもある7巻において、ある理由から自ら窮地に飛び込んだたけちーが地平線を埋め尽くすおびただしい数のシャヘルに対して単騎駆けを敢行する場面の盛り上がりは特筆すべき物。シチュエーション的にも、そこで飛び出す数ページにわたる名言も、あまりに熱すぎます。これに燃えずに何に燃えろというのか! 必見です。できれば序盤では切らずに、ここまでは読んでみて欲しいと思います。 又、最終15巻収録の一切セリフなしのサイレントで描かれる、サブタイトル「真空(オトタチ)」は、SFアクションマンガ史に強烈な一撃を斬り刻みつけたと言っても過言ではありません。『スラムダンク』の山王戦を髣髴とさせる、この圧倒的なクライマックスが語り継がれないなんて、そんなオカルト有り得ません!   ■進撃、シドニア、オルタ、ガンパレが好きな人はイレブンソウルも読むべし! ある時「『ガンパレード・マーチ』や『マヴラブオルタネイティヴ』のような漫画がある」と聞いたのが、その両作品が死ぬほど好きな私と『イレブンソウル』の出会いの始まりでした。「マヴラブオルタネイティヴ」は、あの『進撃の巨人』の諫山創先生自身が「物凄く影響を受けた」と公言している作品。そして、「ガンパレード・マーチ」はその「マヴラブオルタネイティヴ」が大きく影響を与えているのではないかと言われている作品です。あるいは更にそれらの大本である往年の名作SF『宇宙の戦士』的な物語です。 又、現在アニメも放映中の『シドニアの騎士』の原作である弐瓶勉先生も、諫山創先生が敬愛し影響を受けている一人であり、『シドニア』もまた類型的な世界観を持つ作品です。それらの作品が好きな方には、特に強くお薦めしたいです。 『マヴラブオルタネイティヴトータル・イクリプス』や『シドニアの騎士』のBD/DVDが5000枚以上売れる今の時代、『イレブンソウル』も然るべきクオリティでアニメ化すれば、必ず世に受け入れられると確信しています。強化外骨格での迫力ある戦闘シーンを動画で見られる日が来ることを願って止みません!   ■SF好き・ロボットアクション好きにも、そうでない人にも 絵に関しては、序盤クセがあると感じられるかもしれません。ただ、物語と共に後半になるにつれて顕著にスタイリッシュに進化して行きますので、ある意味そこも見所と捉えられます。逆に、読み終えるとこの作画を全て一人で行っているという事実に驚かされます。 かなり濃厚なSF設定や兵器描写はニッチさを醸し出しているかもしれませんが、この作品が持つ心を揺さぶる人間ドラマは多くの人に届くはずです。何より、純粋に続きを渇望するほど面白いのです! これから『イレブンソウル』を読む人が羨ましい限りです。一気に全巻揃えて、続きが気になって狂おしい夜を過ごすことがないのですから。そして、たとえ夜中であっても、Kindleで全部買えてしまうのですから! どうぞ、心行くまで熱き士魂の活劇に酔い痴れて下さい。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/01/31
この短篇集に収録された「青いサイダー」はあまりにも天才的!
読み始めてすぐに衝撃を受け、読み終えると五秒ほど深く嘆息しながら、その卓越したセンスに拍手を送るばかりでした。漫画読みでいて良かった、と心の底から思えた作品です。そして、何度か読み返す内に涙すら零れて来ました。 町田洋先生のこれまでの作品は、イメージでいえば圧倒的に「夏」。自分の中にある過去の夏の情景が想い起こされます。しかし、それは常夏の南国のような陽気な夏ではありません。どちらかと言えば、夏休みのプール教室に行ったものの知り合いが誰もおらず蝉時雨の中で歩んだ孤独な帰り道や、最後の一本の線香花火の火が消えて後片付けをしている時のような、鮮烈な季節の中にある陰。夏の終わりに存在する、独特の寂しさのようなものを感じさせます。そして、それは切なくもどこか仄かに温かです。   ■ 町田洋、その誉れ高き新鋭 町田洋先生は、そもそもが珍しい経歴の作家です。元々は自サイトで漫画を掲載していた所、電脳マヴォに掲載。そして、デビュー作となる前短篇集、『惑星9の休日』が、描き下ろし単行本として祥伝社から昨年刊行されました。今の時代、連載も無く単行本が出される、しかも新人が、というのは非常に稀なケースです。ネットの海の中で人知れず花を開いていた才能が発掘され、そうして特殊なルートでデビューを果たすことができたということは、マンガ業界における一つの希望でもあります。 それに続き、電脳マヴォに掲載された三作品を中心に、描き下ろしとして8ページの短編「発泡酒」を加えて書籍化されたのが、二冊目となる『夜のコンクリート』。その内の一作「夏休みの町」は、文化庁メディア芸術祭で新人賞を受賞しています。 ちなみに、『夜とコンクリート』刊行にあたって、最初は電脳マヴォに「青いサイダー」だけを残すことが町田先生に提案されたそうです。しかし、その提案とは逆に町田先生は「青いサイダー」のみを掲載作から外すことを要望したのだとか。私はそのエピソードを知って、とても納得が行きました。それは、言い換えれば他の2篇をWEBで読んで既読の状態であっても、本を買った時に「青いサイダー」さえ読んで貰えれば満足して貰えるだろうという自信の表れではないでしょうか。   ■ かつて見たこともない描線が織りなす、独特の世界 町田洋先生の描く絵は、シンプルですがそれ故にエモーショナルです。 表題作「夜とコンクリート」と「発泡酒」ではフリーハンドで、「夏休みの町」では定規を使った作画になっています。 その中で、異彩を放つのが「青いサイダー」。この作品だけは、全ての絵も書き文字も、Windowsのペイントで描いたかのように直線のみで構成されています。 数多くの漫画作品に触れて来た私ですが、かつて出逢ったことのない画面作りにまず衝撃を受けました。 『夜とコンクリート』P109 > この島はシマさんという > ステレオタイプな島だねと > 人はいうだろうけど > まぎれもなく僕の友人なのだ という、1ページ目から始まる「青いサイダー」。何を言ってるか解らないと思いますが、私も解りませんでした。しかし、このちょっと掴み辛い物語、読み進め、じっくり咀嚼するとその味わい深さに唸らされて行きます。 近年の中でも、町田洋先生は静寂を紙の上に現出させるのが一番上手い作家です。敢えて何も語らせない、キャラクターが無言でいるコマの多さ。そして、どこまでも静謐を感じさせる広漠な風景。それらは謂わばミロのヴィーナスの両腕のようなもので、無限の想いの余地が茫洋として広がり行きます。ぽっかりと開いた空間に夏の匂いと追憶を感じながら、そこに成長と共にある大人になることへの寂寥感、それとコントラストを成す大人として世界の要請に付き合ったが故に生じた後悔といった繊細な情動がもたらされ、胸を締め付けられます。   ■ 今年の夏の傍らに、町田洋を 「夜とコンクリート」「夏休みの町」「青いサイダー」「発泡酒」という四篇によって構成されるこの本は、一冊の短篇集として総体的にも完成度が高いです。「夏祭り」や「夏影 -summer lights-」を夏が来る度に聴きたい曲だとすれば、『惑星9の休日』と『夜とコンクリート』は夏が来る度に読みたいマンガ。 是非、夏の夜に一人静かになれる場所で、町田洋という海に潜ってみて下さい。漫画の世界の無限性を改めて感じさせてくれる、清冽なる才気がそこに輝いています。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/01/30
小6の夏、友達が死んだ。もう一度だけ彼と遊びたい……ボクはそう願った。
> 「なァんかさ思い出すンだよナ >  クラス離れてから遊ばなくなった奴とか >  転校してったやつとかを >  でも それでも仲良かった奴って覚えてるだろ?」 > 「――…ウン >  普段思い出すことはないけど >  忘れることもないよ >  ずっと覚えてる」 ページを開くと在りし日の想いを、鮮烈に蘇らせてくれる…… 今回紹介する『いないボクは蛍町にいる』はそんな作品です。 小学生の頃、一番仲が良かった友人のことを覚えているでしょうか。 私は今も彼との想い出を昨日のことのように思い出せます。 40日以上の長い夏休み。 好きなだけ寝坊できて、でも夏休み特別アニメの時間には起きて。 普段は観られない昼ドラまで観て。 毎日のように遊んで。 プールやイベントや海や山に行って。 そして、最後の数日は溜めに溜めた宿題に追われて……。 その時、夏休みの日記に何度も書いた名前。 中学で離れ離れになった後もたまにやり取りすることはありましたが、今何をしているのかはもう判りません。ただ、元気に生きていてくれれば良いなと思います。 『いないボクは蛍町にいる』には、小学生の時分ならではの喜怒哀楽が鮮やかに描かれていて、当時の自らの記憶や感情が強く呼び起こされました。 他人から友達へと変わる最初の些細な切っ掛け。 重いランドセルを背負った登下校中の、他愛もない会話や奇行。 わずかな休み時間を目一杯校庭を駆け回って遊んだ時間の楽しさ。 些細なことで守れなかった、友達との約束。 もっと優しく接することができたはずなのに、幼さ故にそうできなかったこと。 それらに対する後悔や気不味さの苦味。 読み手によって、様々なシーンで様々な想いが引き出されることでしょう。子供という存在のリアリティを感じ取れる数々の表現からは、筆者の誠実で真摯な眼差しが感じられます。 この物語の主人公・健(たける)は、大切な友人・卓哉(たくや)を交通事故で喪くしてしまいます。 小学6年生というのは、一般的に考えられているよりもずっと大人で分別もつく歳だと個人的には思いますが、それでも大人でも辛い友人の死を受け止めるには幼すぎるのも確かでしょう。 しかし、健は卓哉が言っていた「不思議な光る物体」に導かれた先で、卓哉が生存しているもう一つの世界線のような町に行き着きます。自分の住んでいる町とほぼ同じながら、少しずつ違う所もある町。この不思議な世界を行き来しながら、切なく優しいドラマが紡がれて行きます。 本作で特に印象的だったのは、ある人物が健にこんなセリフを述べる一連のシーン。 > 「…ボクもねぇ > 不幸を嘆いたことがある > 何度も 何度もね > …だけどねそんな中でも > なにかに感謝する気持ちを持てたとき > それは立派な幸福の気づきだと思うんだ > …この歳になってようやく > そう思えた」 この言葉は、友達を喪って自暴自棄になっていた健の心にどんな響きをもたらしたでしょうか。 そして、健を通して読者の心にも慈愛をもって響いてくるセリフです。 誰かに何かを感謝することができるなら、それは幸せなこと。そんな幸せを、人は生きているだけで日々沢山もらっているはずですが、不幸に囚われるとそのことを簡単に忘れてしまう。だからこそ、辛い時ほど感謝する気持ちを大事にして生きていくべきだ、と。 最後のページの健の表情を見た時、澄み渡るような気持ちになると共に、この作品に出逢えて本当に良かったと思いました。 ひと夏の哀しい喪失と優しい奇跡を経て、少年が成長する物語。 現実と地続きの少し不思議な世界を一度は体験してみたい、と思ったことのあるあなたに強くお薦めしたい一冊です。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/01/27
理不尽な親の元を飛び出して徳島で幸せになる方法
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「両親を敬う」 それは基本的には理想であり、美徳です。 しかし、人間的に致命的な欠陥を持ち、それを我が子に容赦なく振り撒く親というのも確かに存在します。理不尽な暴力やネグレクトに晒され続けてなお、「それでも親は親だから」と言えるものでしょうか。憎悪と殺意以外の感情を向けられない肉親の存在は、心を病ませます。なまじ家族であるだけに、離れることも叶わない。それは呪縛です。血の繋がりを呪い、同じ血が流れ遺伝子を受け継いでいる自分すらも嫌悪の対象となります。そんな風になるくらいであれば、いっそのこと物理的に距離を取ってしまった方が余程良いです。 今回紹介する『アンの世界地図』は、そんな選択をして幸せを手に入れた女の子のお話です。そして、様々な要素が詰まり充実した物語です。   ■家出ロリータ少女、徳島で着物少女に出会う 主人公の竹宮アンは、フランス貴族に憧れる16歳の少女。父親は単身赴任中、東京のボロアパート(通称:ゴミ屋敷)にて酒乱の母親と二人暮らし。綺羅びやかなロリータ服が唯一のアイデンティティだったアンですが、ある日、母親の酒が入ったことによる蛮行で自らの宝物の洋服の数々をズタズタにされ、遂に祖母のいる徳島を目指して家を飛び出します。そして、辿り着いた徳島の地にて、美しい着物の少女アキと出会い、アンはアキの家で暮らし始めます。 ロリータ服で近所のコンビニで半額弁当を買って行き、店員には「値引きのロリータ」「ビンボー姫」などと仇名を付けられている、小さい頃から貧乏だったアン。他の家庭では注いで貰えた愛情をろくに注いで貰えなかったことは、深い傷をアンに与えていました。 > 自分のこどもに食べさせることも着せることにも > 興味のない親っているんです とアンがアキの祖父に語るシーンの言葉が重く響きます。あまつさえ、自分の本当に大切にしている物をゴミ扱いされては、我慢の限界に達するのも解ります。 徳島の神社にて、 > 毎朝しあわせな気持ちで > 起きてみたいです と祈る彼女の切実さ、いじましさに胸が搾られる想いです。 その後、彼女はお遍路さんを助けるおもてなし文化「お接待」の心を大切にしているアキを母親代わりとして、新しい暮らしの中で幸せに起きられる朝を得ます。ずっと自分のいる場所を「ここではない」と思い続けて来た少女の、その世界地図が新たに拓けていく時。出だしは少々辛いですが、その分そのカタルシスとなる部分は優しく暖かで胸に沁み入って来ます。     ■日本や徳島の豊かな文化 (画像『アンの世界地図』1巻4頁) この作品、開幕が「吾輩は猫である」ならぬ、「わたしは家である」というモノローグから始まります。そこで行われるのが「うだつが上がらない」の「うだつ」の解説。他にも、神社の参拝の仕方や、着物の着方、お箸の持ち方など、時折日本人として知っておくと良い雑学が語られ、作品に溶け込んでいます。 又、徳島の名産料理なども実に美味しそうに描かれます。青とうがらし味噌を塗って、青じそを巻いて食べるおにぎりや、みょうが・シソ・甘辛豚肉・干しエビ・半熟卵・しらがねぎ・きゅうり・かにかまという豪華な付け合せのたらいに入ったたらいうどんなど、実に食欲をそそってくれます。もう、これらを食べるために徳島に行ってみたいと思わせられる程。今、「マチ★アソビ」などで注目を集める徳島ですが、この作品にも注目し、これらを提供する場所を作るのも良い町おこしになるのではないでしょうか。 更に、ここまでに書いたことだけであればまだ通常の少女マンガの範疇なのですが、1巻後半では突如として濃厚なボードゲーム語りから麻雀が描かれます。少女マンガとしては異端ですが、そこがまた面白い所で。ゲームというのもまた一つの対人コミュニケーションの手段。家族麻雀を通して紡がれる絆や想い、そこにもまた優しさと暖かさが満ちています。不良になった息子とも、麻雀を通してなら繋がることができたという描写があるのですが、親子の間でそういった絆となる物を持っておくことは良いと思います。 一冊の中にメインストーリーの他にも多様な要素が盛り込まれており、飽きさせません。    ■十年後の小さな幸せのお供に、『アンと世界地図』を 吟鳥子先生は、「現実の十年後の小さな幸せにつながる少女漫画が好きで、そういうものを描けたらいい」と仰っていました。曰く、「20年前に読んだ、タイトルも忘れた低年齢向け少女漫画で、おばあちゃんがクラシックなイギリス風ケーキを焼いて、孫の少女が「あ、お茶はアールグレイがいいな」と言った。その台詞からアールグレイという茶葉を覚えて、今でもクラシックなケーキを食べる時はアールグレイを淹れる。そういう幸せ」と。『アンの世界地図』は間違いなくそういう幸せをくれる作品になっています。それは徳島に足を運んでたらいうどんを食べた時かもしれませんし、誰かと心を通わせる瞬間かもしれません。いずれにせよ、読んでいる瞬間、そして読み終えた後の未来において、素敵な時間を約束してくれる作品です。 今年読んだ少女マンガの中でも、屈指の作品。男性でも読み易い内容ですので、お薦めです。  吟鳥子先生の作品は、切なさと優しさに満ちています。『アンの世界地図』を気に入ったら、他の作品にも是非手を伸ばしてみると良いでしょう。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/01/26
生と死と愛の超傑作SF『愛人[AI-REN]』
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こんなにも素晴らしい傑作が、知る人ぞ知る名作として埋れている…… 果たして、このままで良いのか? 否ッ! 断じて否ッッッ!! 一人でも多くの漫画やSFを愛する人に! そして、この残酷な世界で人生に悩む方、悲しみの淵に暮れている方に!! この至上の愛の物語はもっともっと読まれるべきなのである!!! そんな万感の願いを込め、使命感を持って、今回筆を執っています。     確かに、この『愛人』というタイトル。 ヤングアニマルという掲載誌。 そして、この表紙。 「低俗な成人向け漫画かな……?」と敬遠してしまう気持ちも、解らなくないです。 ですが、それは大いなるミスリードに掛かっているのです! 愛人と書いて「あいれん」と読むタイトル。 そこからは一見して想像できない程に、深遠で重厚なテーマや想いが詰め込まれた、未来SFとなっています。 何せこの作品、創られ方が凄いです。 1999年。 世間ではノストラダムスの大予言を中心に終末論が蔓延していた時。 そんな時代に、連載が始まりました。 時勢に沿ってか、人類が通常の生殖機能を喪い種としての終わりを迎えつつある世界を描いて行きます。 そして、一度の休載もなく2002年連載終了。 ここまでは良かったのです。 しかし、待てども待てども出されない最終巻。 何と、連載が終了してから最後の5巻が出るまでには二年以上も掛かりました。 何故か? それは田中ユタカ先生が全身全霊を賭して、改稿・加筆作業を行っていたからです。 今作のラストは、雑誌掲載版とコミックス版では大きく異なった物になっています。 コミックスで加筆修正が行われる、それ自体はよくあることですが、それに二年が費やされるというのは極めて異例です。 普通に商品として漫画を考えるならば、『愛人』は失格でしょう。 しかし、視点を変えて、一つの作品として考えた時には違って来ます。 その二年間が素晴らしい作品の輝きを、更に途轍もない領域まで磨き上げたと言っても過言ではありません。 今回、この稿を書くに当たって、改めて精読しました。 全編面白いのですが、やはり5巻の部分は格別であり、至高です。 一度築き上げた物を全て崩し、死に物狂いで改めてこの結末を持って来た田中ユタカ先生に対し、私はあらゆる賞賛を惜しみません。 熱い涙無しに読むことなんて、絶対に無理です! ところで、漫画が好きな人なら、一度位は自分で漫画を描いてみたいと思ったこともあるのではないでしょうか。 マンガソムリエである無類の漫画好きの私も、多分に漏れずそんな経験があります。 結構本気で、丸二ヶ月間あらゆる余暇を捨て去り、平均睡眠時間3時間を切る程に根を詰めて、一作を描き上げました。 その時に、自分はこの生活を一生続けるのは無理だな、と諦めてしまったのですが……。 しかし、そんな僅かな時間の中でさえも実感したことがあります。 登場人物に絶大な辛苦を強いる際には、自分でも不可解なほどに嗚咽が止まらなかったり、怒りで情緒不安定になったりするのです。 多くの作家、『ワンピース』の尾田栄一郎先生なども、キャラクターを描く時には感情移入し、同じ気持ちになりながら同じ表情で描くといいます。 それを考えると、『愛人』の壮絶なるクライマックスと格闘している時の田中ユタカ先生は如何許りだった事か…… 田中先生は、『愛人』の連載が終わった後は自分の中に漫画を描く能力が無くなってしまったといい、実際暫く何も描けなかったそうです。 これだけの作品であればそういう事も起こるだろう、と読めば自然に納得できます。 ネタバレになるので語れませんが、一線を画す愛が『愛人』では描かれています。 どこまでも残酷でありながらも、果てしなく美しい世界が、呈示されています。 常に死が共に存在する中で、尊き生への頌歌が謳われています。 こ、ここまで描いてしまうのか……と、半ば放心してしまうような凄味があるのです。 これ位途方も無い作品を描き上げられたら、私なら人生に悔いが無くなるでしょう。 ……本当はその凄さを赤裸々に語りたいんです! でも語れない…… 嗚呼、もどかしい! さあ、早く読んで、誰かこの素晴らしさを語り明かしましょう!! 恐らく生涯顔を合わせることのない、それでもこの世のどこかで一度しかない人生を懸命に生きている誰かに届けば、そんな嬉しいことはありません。 そして、田中ユタカ先生。 こんな大傑作を描いて下さってありがとうございます!     通常版と特別版がありますが、空白の二年間のメイキングを含んだ濃厚なインタビューが掲載されている上下巻の愛蔵版をお薦めします。
兎来栄寿
兎来栄寿
2019/01/22
同人誌で目指す最底辺からの脱出、そして世界平和! これ一冊で同人界が解る『同人王』
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サンクリが終わり、夏コミに向けた準備が本格化する今日この頃。皆様如何お過ごしでしょうか。 「サンクリ? 夏コミ? 何のことです?」という方は、是非この『同人王』を手に取ってみて下さい。同人誌の作り方からダウンロード作品の利率、同人界の主なイベントに至るまで、同人というものについてはこの一冊を読めば全て解ります。 はたまた、「夏コミ、楽しみ!」「また、戦争が始まるのか……」「(言葉を発する間もなく修羅場る)」といった方も、より今作を楽しめるので、やはりお薦めです。 ただ、今作を薦める理由は単に同人をテーマにしているから、ということではありません。 この作品は、あらゆる人間に響き得る熱く重厚な現代人間ドラマです。そして、何かに行き詰まりを感じてしまっている人の魂を奮わせる賛歌です。人生、才能、愛……様々なテーマが、478頁の厚いハードカバーの中に密封されています。とりわけ、絵や漫画を描いている人を始め、創作に携わっている人には響く部分が多いでしょう。 2013年刊行作品の中でマンガソムリエである私のベスト5に入る存在です。熱く、篤く、淳く、お薦めします!   ■主人公がスゴい! 『同人王』の主人公は、友人も職もなく、女性は二次元のキャラクターしか愛せない底辺ニートの青年、タケオ。二次元の同人誌をオカズにアクロバティックな自慰を繰り広げている所を妹に目撃され、親に告げ口されて叱られる、というあまりにも悲哀を誘うエピソードから今作はスタート。死を考え始めた彼は、二次元にしか自分の生きる道が無いと悟り、「同人王」に俺はなる! と、同人誌で食べて行くことを目指します。 > 3次元の女は決して俺を救わない… > 俺を救うのは2次元のみ… > 萌えという文化だ… > ならば俺は自分を救うもののために一生を捧げるべきではないのか? > (中略) > 俺は…同人王になるために生まれたのだ!! この作品、率直に言えば絵は素人が描いたような感じなのですが、それを補って余りある言霊の威力、それを下支えするネーム力・コマ運びの巧さがあり、読ませられます。 そんな彼が、初参加するイベントであるサンクリに持ち込んだ同人誌が、オフセット100部。これは、例えるならコンビニに3年前のジャンプを100部入荷するような暴挙です。500円では全く売れないので300円に値下げるタケオ。それでも売れないので無料配布にする。しかし、そこまでしても「タダでも欲しくない」と言われてしまう。圧倒的なまでの挫折を味わいます。 その後も、彼は簡単には前に進めません。ヒロインに出会い師事を仰ぐものの、絵の練習をしてもすぐに集中力が途切れて遊んだり、居眠りしたりしてしまうタケオ。ならば、と「もし〆切を守れなかったら××××する」という重度のペナルティを課しますが、それでもなお彼は完成させることができず、原稿を落とします。今度こそは、とまた目標を新たにして頑張り始めようとするも、そこでもまたタケオは何も成せません。 > なぜここまでしても… > やる気がでないんだ… 自分でも悲しい程にモチベーションが上がらない。人にはそんな時もあるでしょう。どん底の人生の中で、やるしかないにも関わらず、それでも何もできない……! しかし、そんなタケオにも意識が変わり、努力をし始める瞬間が訪れます。一体彼が何によって奮起し始めたのか。その答、世界が変わる瞬間は、読んで確かめて見て下さい。読むことで、あなたの世界も変わるかもしれません。最後まで読めば、こんな真摯な成長物語はないと実感できるでしょう。   ■ヒロインがスゴい! この作品を語る上で外せないのは、ヒロインの売れっ子同人作家・肉便器先生です。物凄い名前ですけれど、読めばこの名前の意味も解るようになります。 この肉便器先生、登場早々に名前以上にインパクトあるセリフを言い放ちます。 > ねぇ…世の中には犯罪が絶えないわよね… > なぜだと思う? > 答はね 精力がたまるからよ > 余った性エネルギーがすべての悪の元凶なの そう、肉便器先生は、エロ同人誌を描くことによって男性の余った性エネルギーを発散させ、それによって世界を平和にしようと真剣に考えて実行しているのです! 一見突拍子もなさ過ぎるように聞こえるかもしれません。 しかし、私はこれを読んだ時に、『キーチVS』6巻末にある、「新井英樹×堀江貴文 特別対談」を思い出しました。堀江さんという人間を自分が描く物の対極にある人だと認識していた新井先生がその印象を変える切っ掛けとなったのが、堀江さんの秋葉原通り魔事件へのコメントだといいます。曰く、「なぜ犯行に及ぶ前に一本抜かなかったのか」「一発抜いたら終わる鬱屈に根ざした暴力はもう少し減らしようがある」と。 これは社会学的にも指摘されている所で、女性の数が相対的に少ない所では若い男性は凶暴化し、そこに社会不安などが重なると一気に暴徒化したりテロリストになったりする例は歴史を辿っても枚挙に暇がありません。そこに女性の存在があることで、男の悩みの多くは解消される。これは一つの真理でしょう。 しかし、それでも救済できないタケオに対し > 愛を受け付けない人間を > > どうすれば救えるっていうの…!? と肉便器先生もまた大いに苦悩します。そんな肉便器先生が、タケオに光を与えることに成功するシーンは心を打って止みません。彼らによって紡がれる愛の物語も、またこの作品の一つの見所です。   ■クリエイター魂に響く! > ヘタレほど才能がないとか言って現実を投げたがる!! > > 「デキるやつ」に蹂躙されたことのない強者などいない!! > > みんなクシャクシャに踏みつぶされながら何度も立ち上がって上手くなっていくんだ!! > お前の下手さからはそれが感じられない!! > 才能がないんじゃない… > 人生を知らないだけだ このシーン、絵面は酷いんですが、セリフだけ見れば最高に熱いです。『アカギ』の巻末にある名言のリフレインを通して、そういった印象的な人生にも敷衍できるセリフがあることの効果を学んだという作者。この『同人王』にも創作する人間、ひいてはこの世界で生きる人間に対して、ビンビン響く名言が沢山あります。 肉便器先生と自信を比較した時、そもそもの生活ペースにおける活動量に打ち拉がれるタケオ。しかし、まずは挫折を味わい、そのルサンチマンを抱く所から全ては始まります。そうして成長していくタケオの姿は名言と同等以上に雄弁に、多くの人の心と魂に語りかけ、届くものがあるでしょう。同人という狭いテーマの作品でありながらも、誰にでも読んで欲しいと思うのはこのためです。 そして、絵や漫画を描く人間にとってはより個別具体的なアドバイスが有り、その部分を読むだけでもやる気が湧いて来ること請け合いです。同人誌が一部も売れなかったタケオですが、pixivで段々と評価を上げていくようにまで成長していきます。その時に行った練習とは……? これは誰しも実践可能ですので、「絵が上手く描けるようになりたい」「もっと売れるようになりたい」といった方も是非読むべきです。    ■そもそもこの作品が世に出たことがスゴい! 上記に紹介した以外にも、この作品の魅力はまだまだあるのですが、それは是非実際に読んで自身の魂で感じ取って頂きたいです。 Web漫画サイト新都社から始まり、電脳マヴォでの再連載を経てこの作品が書籍として刊行されたという事実。そしてKindle化まで漕ぎ着けたという事実。それ自体が、マンガ界において一つの福音であると言えます。一線を超えて素晴らしいマンガは、たとえ画力的に見劣りしようともこのように陽の目を浴びる機会があるのだ、と。 今も電脳マヴォにて8話まで読めますので、まずはそちらをお試し下さい。 なお、牛帝先生個人が発行するKindle本は、太田出版から発行された書籍単行本がベースとなっており、大幅な加筆修正が入っていますので、大変お薦めです。
兎来栄寿
兎来栄寿
2018/04/26
進撃のマンガ雑誌アプリ!殺人鬼でも美人ならOK?『穴殺人』他マンガボックスのススメ
今、日本で一番読まれている雑誌をご存知でしょうか?
はい、言わずと知れた週刊少年ジャンプです。 では、二番目に来るのは何かお分かりになるでしょうか?
それこそが、今回紹介するマンガ雑誌アプリ「マンガボックス」です。 昨年の発行部数のデータでは、週刊少年ジャンプが約283万部、週刊少年マガジンが約143万部(ちなみに、その後は月刊少年マガジン73万部、コロコロコミック70万部と来て、週刊文春が69万部でマンガ雑誌以外での発行部数一位となっています)。
一方で、マンガボックスは何と400万ダウンロードを突破。2ヶ月前の時点で人気作品のアクティブユーザー数は100万人を超えており、現在も読者数は増え続けていますので、実売数も考えれば恐らく今や週刊少年マガジン以上に読まれているでしょう。 進撃の巨人を「根は優しいヤツなんですけどね」と語った秀逸なCMや、続きが気になった際にはSNSで拡散を行うことによって一つ先の話まで読める面白い仕掛け。日本語以外にも英語と中国語に対応しており、動作も快適。基本無料ということもあるのでしょうが……まさに快進撃と呼ぶに相応しい伸び方です。 このマンガボックスの編集長は樹林伸さん。
『金田一少年の事件簿』、『探偵学園Q』、『サイコメトラーEIJI』、『クニミツの政』、『シバトラ』、『GetBackers-奪還屋-』、『ブラッディ・マンデイ』、『エリアの騎士』、『神の雫』などなど、現在も様々な名義で数多の作品を手掛けています。
個人的に大好きな『MMR』のキバヤシ隊長そのものであり、これらが全て同一人物によって創られた作品なのだと知った時は「な、なんだってー!?」と叫んでしまった程の衝撃でした(今でも、講談社の原作と作画が分かれている作品を見ると「もしかしたらこれも樹林さんなのではないか」と疑ってしまいます)。 今まで一切マネタイズを行って来なかったマンガボックスですが、本日が初のコミックス発売日! 11冊が同時発売となりました。
果たして単行本の売上はどうなるのか。それによって今後の運営にどう影響があるのか……
今後のマンガ業界全体から見ても興味深いトピックです。 業界にとって明るい話題になると良いなぁと思いつつ、私もマンガボックスはサービス開始初日からダウンロードして全作品を読んで来ていますので、今からでも特に注目すべきお薦め作品を紹介していきます。 最注目は、100万人以上に読まれている大人気作『穴殺人』。  隣に美人のお姉さんが住んでいる!
健全な男性だったら、テンションが上がらない筈のないシチュエーションです。
これは"たとえば"の話ですが……もしも偶然その美女の部屋が見える覗き穴ができてしまったら、あなたはどうしますか? え? 大家さんに報告して塞ぐ?
…………ふぅ。
OK、社会的立場のある人間としての建前上の答は、それでフォルコメンハイト(完璧)です。ただですね、ここでは理性という枷に抑え込まれていない、あなたの真なる内心を伺いたいのです。あくまで"たとえば"の話ですので、この答如何によってあなたが不利になることは何もありません。そこでもう一度、あなたの意見をきこうッ! 覗き穴ができた時、どうしますか?
ちなみにこの美女はスタイルもグンバツで、ちょっとエッチなものとします。
「穴に目を近づけるのはいけないことでしょおーか~!?」と、かの世界を救った英雄ジョセフ・ジョースターも言っていましたが……
健全な紳士諸兄であれば、心の答は決まっていますよね。ナァーイス!(実際に覗いたら軽犯罪法第1条23号により罰せられますので、漫画の世界で我慢しておきましょう。世界が平和でありますように)。 この『穴殺人』は、そんな男の夢と希望が成就した状況から幕を開けます。
数センチの隙間から漏れ出づるメルヘンに、「YEAAA!!」と勝鬨を上げ、ピシガシグッグッと拳を交わしておきましょう。
もっとも、それだけならば『ノ・ゾ・キ・ア・ナ』を始めとして、よくある他愛もないお話です。 が、もしその美女がサイコパスだったとしたらどうでしょうか。
そして、その凄惨な犯行現場を目撃してしまったとしたら……
さっさと警察に通報する? ええ、至極真っ当ですね。 ただ、今作の主人公・黒須は、そうはしませんでした。
彼は、そんな美しすぎる殺人鬼・宮市に、覗き穴を介してお近付きになります。
二浪しながら予備校も辞め、両親にも見放され、友達もおらず、一年間も引き篭もって自殺未遂にまで至った黒須。
恐らく、人と会話する機会さえほとんどなかったことでしょう。
そんな折、自分の為に屈託のない笑顔で肉じゃがを作ってくれる可愛い女性が突然現れたら、たとえ狂気の殺人鬼であったとしても気持ちを持って行かれるのは無理からぬことですね。 私がマンガHONZに入った切っ掛けでもある『キーチVS』の巻末にあった堀江さんと新井英樹先生の対談で云われていたこと。
あるいは、とある小説の冒頭文にある「この世の全ては、一人の可愛い女がいれば大抵どうでも良くなる」という命題。 これらは、極めて重要な真理を突いています。そして、それは男女を逆にしても当てはまること。
皆さんの周りにはいないでしょうか。
「この世界に生きている意味はない」「どうせ死んだら全ては無なのだから何をしようと無価値」などとのたまっていながら、彼氏/彼女ができた瞬間にSNSにラブラブな写真を載せては「毎日幸せ♪」と人生を謳歌しているような人は。
そんな友人に対する個人的な感情はさておき、人間の本質はそんなものだと思います。
圧倒的な破壊衝動も破滅願望も、可愛い女の子や格好良い男の子がいるだけで雲散霧消してしまうのです。人間のリアルがここにあります。 そのようにして、黒須も宮市の存在によって意識を大きく変えられています。呼吸をするように人を殺す宮市の存在が、自殺しかけていた黒須の命を繋ぎ止めている。あまつさえ、その命を宮市が断ち切ろうとする……何という皮肉的な構図でしょう。支配されることを是とするそのリアルな歪さ。そして窃視や殺人といったタブーが、読む者を惹き付ける作品です。
可愛い新キャラクターも登場し更に混迷を極めつつありますが、果たしてどこに帰着するのか。
今後も、毎回のアオリ文と共に楽しみにしていきます。   『穴殺人』以外の作品についても、簡単に触れておきます。 
兎来栄寿
兎来栄寿
2018/01/17
面白いマンガに上手い絵は必要なのか? 『とんかつDJアゲ太郎』から考える現代マンガ表現と制作
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「何でとんかつとDJ?」と誰もが思うことでしょう。そして、そう思った時にはスデにこの作品の術中にハメられているのです。オリジナリティという点において、他の追随を許さない異色作。この数奇なマンガは、しかし驚くほどに堅実な作りでテーマを溌溂と語り、かつその存在自体がマンガ界の一つのあるべき姿を剥き出しにします。
  **「とんかつDJ」とは一体… うごごご!** 「とんかつDJ」という、誰もが初めて聞くであろう謎の単語。そして、この絵柄。「ちょっとアレなギャグマンガかな?」という印象は、半分は間違っていません。 > No matter I be cookin' meat or droppin' beat!!(豚をアゲるか客をアゲるかに大したちがいはねぇ!!) > All what matter is yo move to the groove!!!(重要なのはオマエがグルーヴを感じるかだ!!!) という、今作最大の名言とタイトルが示す通り、本当にとんかつを揚げつつDJとしてクラブをアゲるという内容のマンガです。 主人公は、実家である渋谷道玄坂のとんかつ屋「しぶかつ」で働く若者・勝又揚太郎。
仕事に意欲はなく漫然と日々を送っていたある日、とある切っ掛けで初めてクラブへと足を踏み入れる。その新天地(ユートピア)でクラブカルチャーの魅力に取り憑かれた揚太郎は、とんかつを揚げてクラブもアゲられる「とんかつDJ」を目指す……。何を言ってるか解らないと思いますが、考えないで感じて下さい。この作品に流れる熱いバイブスを! フライヤーやミキサーといった単語を始め、「キャベツの千切りと同じBPM」、「ぬか床だと思ってディグをする」、「音の組み合わせはまるで串かつ」と、クラブカルチャーの全てを無理やりとんかつ屋に結びつける強引さ。相当に嫌いじゃありません。 しかし、このマンガはただのイロモノではありません。
友情、努力、勝利が詰まった正統なるジャンプマンガの系譜上にある作品なのです! それこそ、揚げたてのとんかつのように、熱い熱い作品なのです! 揚太郎が想いを寄せる可愛いヒロイン・苑子ちゃん、圧倒的に自分より兄弟なライバル・屋敷、一度は深い挫折を覚える様、自分を高みへと導いてくれる師匠・オイリー……。外側だけ見れば突飛なマンガですし、一日ラード3かけで結ばれる師弟関係などツッコミどころも満載なのですが、一つ一つの骨子を見て行くと驚くほどオーソードックスな作品です。   苦しくも熱い修行シーン。1000回のアタマ出しや無限スクラッチを繰り返す中で、確実に何かを掴み得ていく揚太郎。 その結果生じる、確かな成長。とんかつ屋としてもDJとしても、着実に少しずつステップアップしていく揚太郎の姿は実に正統派な感動を与えてくれます。 又、DJというテーマに関しても少なくとも想像するよりはずっと真摯に描かれており、「DJマンガ」として読んでも差し支えありません。コミックスに加筆された幕間のDJコラムと併せて、クラブカルチャーを知らない人でもこの世界について学びながら楽しめます。 一目見て「絶対この人とは仲良く出来ないだろうな」と感じながらもいざ話してみると意外と普通でいい人だった(でも相変わらず外見はちょっとぶっ飛んでる)、そんなマンガです。   
**マンガの”絵”** 今作は良いマンガだと断言します。しかし、こと絵に関しては、はっきり言ってしまえば素人が描いているような拙さです。そして、ただ上手くないというだけではなく、言ってみれば丁寧さも欠如しています。 たとえば、集中線。普通は一点を定めそこに向かって線を引いていくのですが、中心点も取らずアバウトに、恐らくフリーハンドで描いています。もし、マンガの学校でこんな描き方をしたら明らかに注意されるでしょう。 しかしながら、私はこういった部分こそが逆説的に今作の素晴らしい点だとも思うのです。 言うまでもなく、マンガにおいて絵は重要です。「ある程度綺麗な絵でないと読めない」という読者は一定数います(個人的には勿体ないと思いますが、各々の嗜好なのでそこはとやかく言うべき所ではないでしょう)。プロの漫画家に、雑誌掲載に求められる最低限の画力というものもあるはずです。 あの『進撃の巨人』がかつてジャンプやチャンピオンに持ち込みに行って蹴られたというのは有名な話ですが、その大きな一因が絵であったことは想像に難くありません。マガジンで佳作を取った時にも、ストーリー7点、構図・コマ割り8点、独創性8点など高い評価を受けていましたが、絵は2点でした。その時よりは格段に進歩しているとはいえ、未だ画力の問題を論じられるケースも多々目にする『進撃』。しかし、その評価や売上は圧倒的です。 つまるところ絵は重要ですが、必ずしも綺麗で上手い絵が必須ではない。むしろ、荒々しくても内容が面白ければ正当に評価される。そんな時代になって来ていると感じます。 近年ではマンガ作品を発表する場が限りなく広がっていることにより、その表現の自由度もますます高まりつつあります。そして、求められる画力のハードルというものも著しく低くなっていると感じます。『同人王』などは正にその典型例。決して商業誌に載せられる絵ではないですが、中身は圧巻。 その『同人王』や『ワンパンマン』のONE先生を輩出した新都社、裏サンデーのU-2リーグ(残念ながら見られなくなってしまいましたが)、マンガボックスのインディーズなど、絵だけ見れば従来の雑誌に載っているのが想像しにくい、しかし凡百のマンガにはない魅力を持った作品が沢山あります。 こうした土壌が醸成されて来た故に、『とんかつDJアゲ太郎』もスムーズにジャンプ+に掲載され多くの人の支持を受けることができたという側面はあるでしょう。そして今や絵を描かない原作者としての道もあります。多数の成功事例と共に専門の賞なども創立され、多く開かれるようになって来ましたし、実際に『テラフォーマーズ』や『賭ケグルイ』など巷を賑わせるコラボレーションが続出しています。 このように今まで日の目を見る機会を持ち得なかった作品やさいnが表の舞台に台頭してくることによって、一つの事実が浮き彫りになって来ます。本質的に、マンガは自由なんだ、と。   **マンガの自由さと『はじマン』** ここで、もう一つ紹介したいのが、『ヒカルの碁』のほったゆみ先生による『はじマン』です。   百聞は一見に如かず。知らない方は実物を見てみて下さい(http://tonarinoyj.jp/manga/hajiman/)。 このマンガは、「マンガを描くことを特別な行為だと思わずに、誰もが当たり前にカラオケで歌を歌うようにマンガを描けたら素敵だよね」という理念のもとに、気楽に自由にマンガを描いてみることを提唱する作品です。そんなこと言っても絵なんて全然描けないし……という人にも、まずはものの試しにコマを割ってみるという体験をしてみよう、と薦めてきます。 友人同士で有名なキャラクターを何も参照せずに描き合うと意外な画伯が発掘されて面白いですが、そんなノリでこの遊びを飲み会などでやると意外な程に盛り上がって楽しいので、騙されたと思って試しにやってみて欲しいです。 マンガを全く描いたことがない子供や大人が描くマンガ。そこにこそマンガの本質がありありと存在しています。たとえば、1ページに20コマを詰め込む人がいました。そこでなされたのが、「これは流石に多いよね?」「いやいや、本当は何コマ描いたって良いんだよ。大きい紙に描けば良いんだから。原稿用紙に描くという都合に縛られているだけだよ」といった具合の会話です。もう、私はこの作品を読んで目から鱗が何枚も落ちました。 マンガってすごい。マンガって自由だ。 そして、今はそんな自由なマンガがその存在を広く許されるようになって来ているのです。良い時代になったものだ……。    **マンガと制作環境の進化** 現在ではマンガの制作環境も大きく進化しています。Comic Studio一本あればトーンが貼り放題というのは、一昔前からすれば革命的です。このDIOの時代には一枚数百円から千円ほどもするレトラやICのトーンをチビチビ欠片も無駄なく使っていた……。デリーターが30%オフセールと聞けば、F-MEGAのロケットスタートの勢いで飛び出したものだ……。それが今では、無料で使えるクラウドアルパカというソフトなども登場しました。 カラーイラストにしても、今はSaiのような安価で高性能なCGソフトがあります。わざわざコンプレッサーを買って使ったエアブラシが誤噴射して黄緑色が頭部付近で炸裂し、ファンキーなスプラッタイラストになってしまったあの日々を遠い目で回想します。宮城とおこ先生に憧れて買い揃えたドクターマーチンが幾らしたと思ってるのか。 背景やオブジェクトを描くための資料も、今はヘリコプターであろうがサグラダファミリアであろうが画像検索で何でも簡単に調べられます。そして、人体でも風景でもスマホで簡単に撮影してファイリングできます。一昔前は、わざわざ現物が見られる場所まで行って写真を撮るか、あるいは記憶に焼き付けるといった手段を取るしかありませんでした(それによって逆に集中力や観察力が培われていた側面もあるのかもしれませんが)。写真を撮ってもそれをプリントするまでに何時間も何日も掛かるなど今や考えられませんね。 そんな現代においては、昨年に何と東西線の中で通勤時間中に描いたという『RAPID COMMUTER UNDERGROUND』も刊行され、話題となりました。つくづく凄い時代だと思います。 今でもPCやタブレット一台で描けるマンガ。3Dペンによって、空間そのものが原稿用紙になる『ドラえもん』のような世界も既に来ています。近い将来、歩いたり運動したりしながら描いたマンガや、高山や深海、あるいは宇宙で描いたマンガなども登場するかもしれません。その時には、今のマンガという言葉から想像される概念とは大なり小なり変遷していることでしょう。マンガの進化を生きている内にどこまで見られるか、楽しみです。   **素晴らしい時代に感謝と期待を** 現在では、マンガを描く為のハードルもそれが認知され読まれる為のハードルも限りなく低くなっています。それは、既存の漫画家にとってみればただでさえライバルが多い世界で更に生き残るのが難しくなるという意味で脅威的なことかもしれませんが、面白いマンガ・新しいマンガがより生まれやすい世界であることは業界を活性化させますし、一人のマンガファンとして喜ばしいことです。 もしも絵が下手であることで気を悩ませている人がいたら、そんなことは何も気にしないで良いと『とんかつDJアゲ太郎』を差し出しながら言いたいです。 大切なのは、自らの偽りなき魂やパッションを存分に込めること。そうすれば、きっとこの広い世界の誰かには伝わります。誰かに届く作品が生まれます。誰かを幸せにできます。描くか描かないかで迷ったら、是非とも描く方を選んで欲しいと、私もこの世の誰かに伝えたいです。 
※余談ですが、この記事を書く前に万全を期してかつ丼を食べておきました。マンガ界初の巻頭カラーとんかつグラビアもあいまって、読むととんかつを食べたくなるので覚悟と準備を完了してから読んで下さい。
兎来栄寿
兎来栄寿
2018/01/17
死して後も残る価値を、この世に刻め『シュトヘル』
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『シュトヘル』は、自分が何の為に生きて闘うかを強烈に問うて来る作品です。 人は誰もが例外なく、死という絶対的で問答無用な消滅を迎えます。そこに至ってしまえば、それまでに築き上げた知識、技術、経験、財産、人間関係……全てがゼロとなります。
一方で、当人が鬼籍に入った後も、人の世の中で受け継がれて行くモノがあります。人の想いを紡ぎ、時代を越えて大きな影響を与え続けるモノがあります。
「それは百年先でも価値を持つか?」という問は物事を推し量る一つのものさしですが、百年千年と人の寿命の何倍も何十倍も連綿と人の世に残りその価値を受容されるモノというのは、ある種、人が人のままで人の領域を超えた部分に触れているようにも感じられます。
それは例えば書かれた物語であったり、描かれた絵画であったり、建築であったり思想であったり……勿論、漫画もその一つとなり得るでしょう。もし自分が死んでも、自分の遺したモノによって、どこかの誰かに感動や安らぎを与えられ、より良き未来を作る一助を担えたとしたら、そんな素晴らしいことはありません。
『シュトヘル』で描かれる高潔なる志と闘いを目の当たりにすると、自分もそういったモノに焦がれる気持ちを掻き立てられてしまいます。ただの歴史物とは一線を画す、魂に訴えかける叫びが聞こえて来るような漫画です。 
**一風変わった、歴史物** 『シュトヘル』の舞台となるのは、13世紀初頭のユーラシア大陸。
13世紀といえば、モンゴル帝国が歴史的な躍進と繁栄を遂げた時代です。
チンギスハンがモンゴル帝国を建国してから3年経った1209年から物語は語られ始めます。
モンゴルの末席であるツォグ族の皇子として育てられたユルールは、戦を好まず書に張り付き、文字を愛する幼い少年。そんな彼は、実はチンギスハンの息子です。一方、モンゴル族の頂点に立つ大ハンことチンギスハンは、ある理由から敵国・西夏の文字に対して異常とも思える程の憎悪を持っており、地上から根絶やしにしようとします。ユルールは、そうして西夏文字が滅び行くことを嘆き、憂いていました。煩悶の末、ユルールは兄を始め一族郎党を敵に回し、西夏文字を守る為の闘いを始めます。 正直、私はこの辺りの歴史に詳しくはありません。しかし、『シュトヘル』はそんなことは関係なく、それぞれの人間の感情に移入しながら楽しめますので、歴史物は今一つ苦手、という人も食わず嫌いせずにてに取ってみて欲しいです。 **文字を巡る物語** ユルールが文字に対して語る言葉に込める熱量は凄まじく、そして美しいものです。 > 文字は生き物みたいだ。
> 記した人の思い ねがいを伝えようとする。
> その人が死んでも文字は託された願いを抱きしめているようで… > 文字は、人を憶えておくために生まれた。遠くにあっても、時を越えても、人と人とが交わした心を伝え続ける……
だから心底美しい。
> おれはあこがれる―― > この文字でしかあらわせないものがあって、この文字でしかあらわせない心がある。おれはそれと生きている。 文字という物が如何に素晴らしい創出物であるか、それがどんなに人類にとって大事な可能性であるか……。幼くも透徹した眼差しを伴いながら、折に触れて語られて行きます。普通の歴史物や戦記物であれば、家族や恋人や友人や同胞、国や故郷を守る為に闘うのが王道です。しかし、ユルールはそうではありません。彼は文字を守る為に、もっと言えば未来に存在する人の持つ可能性の為に、兄や実の父をも敵に回して闘うのです。
他方、「今日を生きる者のためでなければ、死屍を越えては往けないのだ」と語る、ユルールの兄である勇猛な戦士ハラバルの気持ちも解ります。甘い考えは捨てて闘いに身を投じなければ、自らの一族を、女子供をも死の淵に立たせることになる。最も大切なものは今生きている人間であり、その為に自分は闘う。全くもって正論です。現実を受け止め、自らの責務を全うする彼も、主人公であっても良いほどに器が大きく、魅力的な人物です。
それでも、どちらにより憧れを抱くかと言われれば、私は圧倒的にユルールなのです。現実に向き合わない夢想と断じられたとしても、文字を通して生まれる奇跡のような感情の紡ぎ合いの暖かさ、ユルールが文字の力に感じる可能性は否定しようがありません。それは、『ガンダムUC』で「可能性の獣」と呼ばれた概念にも似ています。ある側面から見れば愚かしくすらありながらも、それでもより高貴なあるべき姿を追求しようとする人の心。私はそれは掛け値なしに美しいものだと思います。
西夏文字の総本山である、番大学院が焼き討ちに掛けられる時、その院長である吉祥山がハラバルとなす対話も秀逸です。 > 「殺し合いに明け暮れる者にはわからぬ。生涯をかけた仕事は命そのものになる。命をかけるべきものになる」 > 「命をかけるべきものがあるという言葉は病だ。この病が跋扈する度に大勢が死ぬ。この病の者は目の前の人間を見ない。人間をを道具とし恥じることもなく同胞・眷属を顧みない。…守るべき者を」 > 「――血や一族のみを守るならば人間は永遠に縄張りを奪い合うだけの獣ではないか」 このシーンはセリフだけでも痺れますが、それを語る表情、そしてその背後に映るものとモノローグによって示される、互いの想いの丈とそのルーツ、更にはその先で明かされる真実、全てが渾然となって心と魂に響いて来ます。それぞれにもっともだと思わせるものがある、確固たる信条のぶつかり合い、鬩ぎ合いは堪らなく面白いものです。
『シュトヘル』には、これ以外にも数え切れない程の名言や名シーンが溢れているので、苛烈な時代に生きる人々の熱き想いの数々を是非直に堪能して欲しいです。 **絵の魅力** 伊藤悠先生は、一枚絵も魅力的ですが、それ以上にアクションを描くことに秀でています。それは、全五巻以下の漫画で傑作を挙げるとすると往々にして名前の挙がる『皇国の守護者』でも証明して見せた通り。 静と動を巧みに使い分けて、これだけ動きを上手に表現できる女性作家は、とても稀有です。変形ゴマは少なく、長方形のコマが主なのですが、それでも動作が非常に栄えているのが特徴的。
ここまで全く名前を出してきませんでしたが、もう一人の主人公であるシュトヘルの獣のような動きの殺陣は、妖しくも美しいです。
そして、何よりも伊藤悠先生の絵で魅力的なのは、表情。 ゾクゾクするような相貌、射抜かれるような眼力が頻出します。もう、この魔的な表情の数々を眺めているだけで楽しめる位です。伊藤先生の漫画を読んでいると、表情の描き分けの大事さを思わせられます。その結果、シュトヘルになら噛み殺されても良いかも、と割と本気で思える程にキャラクターに魅力を感じていきます。あの荒川弘先生をして「投稿雑誌で伊藤先生のハガキだけオーラが違って当時からファンだった」と言わせるのも道理です。
  **『シュトヘル』という祝福** 13世紀のユーラシア大陸を舞台にしている作品というのは貴重で、そこで少年と美女と老人と大鷲が旅をするというシチュエーション一つとっても独特の魅力を持った作品です。又、喪われた文字を巡る物語、という題材だけでもロマンを掻き立てられる人もいることでしょう。 ユルールが本懐を遂げられず文字が完全に喪われていたとしても、どこかの誰かの未来のために闘った彼の覚悟と勇気が、時間や空間を越えて人の心を奮い立たせるでしょう。そして、あるいはその人が可能性として描いた理想の未来を作っていくのかもしれません。そうなれば、それこそ人に与えられた「祝福(ユルール)」ではないでしょうか。
兎来栄寿
兎来栄寿
2017/12/06
「親子の絆」という呪縛と祝福『おやこっこ』
これを読むと、今自分の周りにいる大事な人を、これから共に寄り添って行く大事な人たちを、今よりも大事にしたくなる。そんな世界と人間への慈愛に満ちたマンガです。それも、ただの綺麗事ではなく、醜さや負の側面をしっかり認めた上で成立させているが故に、強い普遍的な価値を持つヒューマンドラマです。 『GANTZ』や『いぬやしき』の奥浩哉先生の下でアシスタントとして働き、睾丸癌になった経験を実録マンガ化した『さよならタマちゃん』で華々しいデビューを飾った武田一義先生。その武田先生の二作目となるのが、今回紹介する『おやこっこ』です。当然、私も期待に胸を膨らませてイブニングを手に取りました。すると、一話目からありありと良いマンガであることが伝わる出色の出来ではありませんか! ただ、とても素晴らしいマンガであるにも関わらず、正直に言って圧倒的に「売れ感」がありません。『さよならタマちゃん』という話題になった前作がありながら、書店で見掛ける冊数は寂しいものでした。そして、世間でも思ったより話題になっていないように見受けられます。美少女も美女も美少年も美青年も出て来ず、バトルやバイオレンスやエロやグルメ要素もなくひたすら普通の人間の日常的な営みを描く、はっきり言ってしまえば地味なマンガ。しかし、それは裏を返せば老若男女を問わず誰でも読める長所を持つということ。とりわけ、マンガアプリの隆盛で短いページの中に強い刺激のある解りやすい作品が隆盛を極める時代の中で、淡々と人間を文学的に描いて行くこういった作品ももっと評価されるべきだと切実に思います。 連載時から120ページ以上の加筆修正がなされ上下巻として同時刊行された『おやこっこ』。誰が推さなくとも、私は強く推して参りましょう。   **親子という呪縛** 物語の始まりは、関わりを絶っていた実の父の危篤の報。酒乱の父の下と児童養護施設を行ったり来たりしながら育った主人公・孝志は複雑な想いを抱えながら、高校卒業以来十五年ぶりに故郷・北海道の倒れた父親がいる病院へと向かいます。意識を取り戻せるかどうかも定かでなく、無残な姿となった父を見た孝志は―― といった冒頭で始まる『おやこっこ』。「こっこ」とは北海道の方言で子供の意味ですが、単に「親子」と言うより「おやこっこ」と書くことで生じる温かみと柔らかさ。それは、武田一義先生の絵柄が生み出す雰囲気そのもののようです。見た目はかわいい絵柄の『おやこっこ』ですが、序盤からかなりヘヴィなものを投げ掛けて来ます。 どうしようもない生き様に憎しみすら抱き、長年離れて暮らしていた父親。孝志は、「このまま死んでくれれば良い、もう煩わしい想いをしたくないと願うのは間違っているのだろうか?」と妻の亜紀に問います。この重みのあるテーマをこの画風でやるギャップによって、より深い部分にまで浸透する味わいが出ていると言えるでしょう。折角、何とか仕事を安定させ、妻の亜紀と家庭を持つことができて、そのまま何事もなく幸せに暮らせたかもしれない孝志に訪れた問題。厄介な親族との関係性。現代社会でも、それに類する悩みを持つ人は多いでしょう。たった一人の肉親であるなら、仕事を休んだり辞めたり、人付き合いや楽しみを我慢して自分の人生を犠牲にしてでも尽くすべきなのか? たとえ、その人物に酷い仕打ちを受けて殺したいほど深く憎んでいたとしても? 私は、育ててくれたことへの感謝と、人の人生を台無しにする権利とはまた別問題だと思います。それでも、「どんな親でも親は親」という一般的な倫理との齟齬がそこに生まれない訳ではありません。『おやこっこ』でも、結局孝志は父親を放置はしません。しかし、その苦い想いは肯定してくれます。そう思ってしまうこと自体が罪ではないか、と苛まれている人の重石を、亜紀の答えは少しだけ軽くしてくれるでしょう。 私は近年稀なほど『おやこっこ』には感情移入しました。特に肉親との絆というのは、本当に難しいもので……。良い関係が築けているならば何も問題はありませんし、その絆が過酷な世界を渡り行く際に身を守る衣となってくれます。しかし、そうでない場合は半永久的に纏わり付く呪いの縛鎖と化し、心身を蝕み続けます。かつて、私は親への憎しみが有り余って、その血が流れる自分自身もが激しい嫌悪の対象でした。誰から生まれて来るかは選べない、と作中で孝志も言います。実親から生まれ、その遺伝子を宿しているという先天的で不変の事実が私は文字通り死ぬほど耐え難く、同じ世界に存在していることは勿論、生きていることそのものが重苦でした。孝志がそうしたように、物理的に距離を取り時間が流れるのを待つというのが唯一の対処法であったように思います。 因果であるのは、孝志の父親である久志もまた、かつて父親のようにはなるまいと志していたということ。しかし、結果的には自分も父親のように、かつて自分が厭い反面教師としようとした姿そのものになってしまっていたのです。これ、ありますよ。あるんですよ……。絶対にそうはなりたくない、と思っていたのに成長するにつれて気付けば似通ってしまっている。無意識下のしぐさや、考え方、行動がどうしようもなく如実に親子であることを明示してくることが。血の繋がりという逃れられない呪いの強さへの絶望感は、堪らなく悍ましいものがあります。   **親子という祝福** ただ、私と孝志の異なる点として、そして孝志の救いとして、幼い頃の父親との良き記憶があります。孝志は、故郷に近付く道すがら、あるいは故郷での風景やふとした瞬間の中に、過去の想い出が蘇るのを感じます。 > ありがとうって自然に言うのが
> かあっこいーオトナなんだぜ > そう
> 「ありがとう」
> だぞ それは、記憶の奥底に埋没していたかつての父親の言葉。知らず知らずの内に、父親である久志の教えは孝志の芯に宿っていました。疎ましく思っていた父親でしたが、確かにかつてその父親に「かあっこいー」と憧れを抱き、そうなりたいと願った自分がいました。そして、その父親のお陰で大事な時に「ありがとう」と言えるようになり、またその言葉が言えるからこそ妻に肯定して貰える自分となっていたことに気付きます。 > そうか――俺は十分過ぎるものを与えられていたんだな そう孝志は実感するに至ります。  きっと、人は今を生きている限り、皆十分過ぎるものを与えられているのです。   たとえ親と過ごした時間の記憶が無かったとしても、あるいはどんなに辛い思いをさせられて親を憎んでいるとしても、今自分が存在して生きていることそれ自体が全ての人にとって祝福なのだ、と。生物として最も脆弱な、生まれてから間もなく、物心のつく前の期間。一人では生きて行くことのできない時代を、誰かに守られ支えられ、助けられてきたからこそ今の自分があるのだから。きっと、人は親になって自分で子どもを育てる立場になることで、より強くそれを実感するのでしょう。子どもを生み、守り、育てることがどれだけ大変なことか。かつて自分を育てた人が、自分の為にどれほどの苦労をしてどれほどのものを捧げてどれほどのことをしてくれたのか、ということを。 そして、どれだけくたびれてしまっていても、我が子を胸に抱くその瞬間の喜びだけは何にも増して尊く掛け替えのないものなのだということ。その小さな手のひらを守るためなら、理屈抜きで何でもできてしまうのだろうということ。それは我が事を超えて人間存在全体への大いなる祝福となっているが故に、こんな私にも大きな感動を与えてくれました。私個人の未来にはこんな風に自分の子供を抱きかかえる瞬間は訪れないかもしれませんし、親を許せる日は来ないかもしれませんが、それでも世界にこういった喜びが満ちているならば、それはとても素敵なことだな、と。 人と人との繋がりの中でも、一際強い親子という間柄。その強さが時として仇となり、人を傷付けることがままあります。それでも、もしかしたら決して相容れないと思っていたとしても、少しだけ未来に分かり合える瞬間があるかもしれないということ。その微かな微かな融和が、一個の人間には大いなる救いとなって降り注ぐものなのかもしれません。 そして、やがて来る新しい季節を最後のページの孝志のような、あるいは上下巻の表紙でキャッチボールをし、それを見守る親子たちのような気持ちで迎えられる日が来たら、と祈らずにはいられません。本当に良い表紙で、良いマンガだなぁ、と心から思います。   余談ですが、奥浩哉先生とのエピソードを描いた小噺マンガ(http://www.moae.jp/comic/inuyashiki/2)も面白いので併せてどうぞ。
兎来栄寿
兎来栄寿
2017/08/17
自殺する前に読んで下さい。傷ついた魂に寄り添う『電波オデッセイ』
死にたい人、いますか? もしいるのであれば、聞いて下さい。 今あなたがどんな状況に置かれているのか、私は知りません。 先の見えない人生に絶望しているかもしれない。 いじめを受けて苦しい思いをしているかもしれない。 あるいは、死の直前であるかもしれない。 そんな、全部の人に、私は言います。 生きて下さい。そして、『電波オデッセイ』を、読んで下さい。 そこまで深刻でなくとも、生きる苦しさに喘いでいる全ての人に、あるいはそんな人が身近にいる人に、この優しい電波が届いて欲しいと願います。真に、人間は、世界は美しいと思えるマンガです。 **若者の自殺率が高い日本** 内閣府の共生社会政策の自殺対策白書によると、日本国内では平成9年まで増加の一途を辿り、平成21年まで年間3万人を超えていた自殺者。ただ、ここ数年は3万人を割り、減少傾向にあります。それ自体は素晴らしいことです。 しかし、これを年代別に見てみると別の側面が浮き彫りになってきます。少子高齢化社会の中で減っていく若者の自殺が増えているのです。何と、20~39歳の死因第1位は自殺。先進国の15~34歳の死亡原因第1位が自殺となっているのは日本だけであり、更に全体の死亡原因における自殺が占める割合についても突出して高いという深刻なデータがあります。若者が未来に希望を持てず自ら死を選ぶ社会。これは何としても是正していかねばならない所です。 自殺に至るのにも様々な原因があるでしょう。家庭や家族の問題、いじめ、人間関係、過酷な労働環境……生きていれば、死にたくなることも沢山あります。私自身、死にたいと思ったことは百回や二百回ではありません。人並みに複雑な環境の中で小学一年生の頃には不登校だった時期があり、小学三年生の頃には「人は何故生きているのか、生きねばならないのか」「死とは何か、絶対的な終わりは救いなのか」といったことを暗闇の中で延々と黙考し続けていました。 **とりあえず生きて下さい** 生きていると素晴らしいこともありますが、同時に絶望的な理不尽に晒されることもままあります。素晴らしいことに触れている内は世界の美しさを感じ賛美したくなりますが、この世の闇はそれをいとも容易く蝕んできます。自分を好きになることなど有り得ないないまま、存在するに足る意義を問い求め続けて薄氷を踏むように生きて来ました。 世界中の賢人たちの思惟思想に答を求め続けた私が最終的に出した結論は、エポケー(判断停止)でした。身も蓋もない言い方ですが、あらゆる意味や価値は人間が便宜的に付与しているだけで、幻想に過ぎません。それ故、生きるためにはそれを突き詰めることを止めねばならないと考え、脳天気になることにしました。思考が暗澹たる領域に踏み込みそうになったら強制的に考えるのを止めるように脳に条件反射を植え付けて、この世にある好きな物や、素敵なことを考えるようにしました。 更に、肩の力を抜いて辛い時は頑張り過ぎず、人に頼ることを自分に許しました。とりわけ日本では我慢や忍耐が美徳とされ、また自分の背負った苦労と同じ苦労を他人にも強いて、楽をすることを悪だとする風潮があります。それが自分を鍛えてくれるものならまだ良いのです。が、いたずらに疲弊し摩耗するだけのものならば話は別です。人生には「逃げちゃダメ」な時もありますが、闘っても不毛な理不尽な外圧からはむしろどんどん逃げるべきです。 「いじめられる方にも原因がある」「鬱は甘え」「どんな親でも親は親なので敬うべき」といった無思慮な言葉が、どれだけの人を苦しめて来たことか。人はそれぞれ千差万別の事情を抱えています。「俺は大丈夫だったからお前も大丈夫な筈だ」などという、たまたま運が良かった強者の論理に付き合う義理はありません。逃げても良い。少しくらい誰かに迷惑を掛けてもいい。だから、自分から命を断つという選択だけは、その選択肢ごとなくしておいて欲しいです。 そう言う私もまた、相対的に運が良かった人間だと思いますので、もう絶対に死んだ方がマシだ、という人を強く引き止める程の言葉は持ちあわせていません。それでも、人生というのは予想できないもので、今現在の自分が持っている物差しを遥かに超えたことが未来に容易く起こるものだとは伝えたいです。私は、生きていて良かったと思える瞬間を運良く幾度も持てて、今は楽しく生きています。 辛く苦しくて当然の人生。自分の幸不幸だけを天秤に載せては、死にたくなるのも当然です。なればこそ、その中で人は自分の力で誰かを笑顔にすること、楽しませること、快適に過ごせること、そういった自分でない誰かのために何かをするべきなのでしょう。それが結果的に充足感をもたらし、自分に還って来ます。それは難しいことではありません。特別な家族や友人や恋人のためでなくとも、普通に勉強をし、普通に仕事をし、普通に消費をして生きているだけでも、社会を通じて間接的に人のためになっているのです。だから、まずは生きて下さい。 こうした態度は、『電波オデッセイ』の主人公たちが至ったものと同じでした。 **世界で一番優しい電波** 元々、永野のりこ先生は破天荒な、それこそ「電波」と形容するのが相応しいギャグマンガを多くお描きになっている方です。しかし、その中にも明滅するシリアスな輝きを結晶化して、至高の純度で最高に美しく磨き上げた特異点とも呼べる作品がこの『電波オデッセイ』です。 主人公の中学二年生の女の子、原さんはネグレクトを受けており、この世での居場所を失っていました。学校にも行かず引き篭もる彼女の下に、オデッセイと名乗る男が現れます。そして、彼はこう言います。「君は地球への観光に来ている旅行者なんだよ」と。そして、「"ここ"への観光はとてもラッキーなことだから、帰る前に後悔のないよう"ここ"をよく観ておくといい」、と。更に、「地球への旅行者は物を持って帰ることはできないけれど、人の心1コ分に入るだけの"いいもの"、"素敵なもの"、つまりは楽しい思い出や幸せの記憶をおみやげとして持ち帰れるのだ」と。 そんなオデッセイの言葉によって吹っ切った原さんは、騒々しいほど元気に振る舞うようになり、学校にも"観光"として行くようになります。勿論完全に吹っ切れた訳ではなく、同級生には相変わらず腫れ物扱いをされますし、親がいない中で家賃も水道光熱費も払えず、毛布に包まってひもじい想いもします。うずくまり動けなくなる時とてあるのですが、それでも人前で気丈に空元気を出して生きて行くこの中学生の女の子の姿は、多くの人を大変勇気付けてくれるものです。 自己を一回彼方から俯瞰してみる、というのはとても意義深いことです。ブッダも言っているように、悩みや苦しさには外的な要因でどうしようもないものもありますが、一方で多くは自分の心の持ちよう一つで解消していけるのです。自分が宇宙からの観光者であると仮定することによって多少なりとも心が楽になるのであれば、命が救われるのであれば、それをしない手はありません。逆に、まともなコミニュケーションが到底取れない相手を「宇宙人なのだから仕方ない」と考えて諦める、というのも私が実践した思考法です。筋だけ聞くと滑稽かもしれませんが、永野先生の筆致によって宿る言葉では言い表せない機微があり、読めば沁みる内容となっています。 宇宙的な観点からみたり、長い人類史的な観点に立ったり、「爆弾が落ちてこないだけでもラッキー」と超絶なポジティブさを発揮して、必死に生きて行く原さん。なかなか完全に彼女のように立ち振る舞うのは難しいですが、きっと思う所、励まされる部分があるでしょう。 ちなみに、今作では上記のシーンのように、聖書、夜と霧、ブレードランナー、バッタと鈴虫、宮沢賢治、ディボネゴロ、コルチャックなど、古今の様々な名作や人名、名言が至る所にちりばめられています。破天荒な言動に巧妙に紛れて子供の頃に読んでも解らなかったものが、改めて読み返すとそのシーンの心情と重なって伝わって来て、更に心に沁みる……そんな再読する度に発見のある作品でもあります。そして、読む度に生きるための魂の栄養を貰えます。 **少年少女の傷と再生** 今作では、主人公以外も皆それぞれに心の傷を抱え、上手く生きることができないでいます。 体が弱く、幼い頃に死に瀕したこともある野川さんは、一年留年してしまっていることを内緒にしながら学校に通う中、ある日起きたできごとに深く傷付きます。また、友人たちや先生に心配される、その心配がまた心の負担となっていきます。 トモ子は、太っていることをからかわれ「トン子」と仇名されて拒食症になり、太っている親にも憎しみを覚え、学校に行けなくなってしまいます。すれ違った人の一言一句すらも自分を攻撃しているのではないかと過敏に反応してしまい、消えてなくなりたいと願います。 皆それぞれ持つ痛み。その痛みが、原さんを始めとする周囲の人と人との交流の中で和らぎ、癒されていく様が丁寧に丁寧に、繊細なモノローグを伴って描かれていきます。持ち前のハイテンションさも伴った中で、それらのシーンは非常に感動的に描かれ、心を強く強く打ちます。 この作品の中には幾つも名言や名シーンがあるのですが、その中から一節を引用します。 たすけは人からくるんです 人の仕打ちに打ちひしがれて うずくまる人をたすけるのもまた 人なんです 「アホか」と思っても ダメもとでも 「体育すわりでうずくまってる人」は 言ってみるといいかもしれませんね 「ボクはココにイルよ」って 人は人のためにつくられていて 人と出会うために生まれてくるんですから 誰かがあなたのために あなたに会うために生まれているんです この世界に だから 「こんな世界どーなったってシラネーわ  ってかとっととコイや黙示録  ものっそいづれーわこのクソ世界」 って思う日がたとえあっても 今がそうでも 世界にユウヨをあげてください 「出会う」その日まで 彼ら彼女らが、痛みやその根本と向き合い、決別し、前に進んでいく姿は掛け値なく美しいものです。そして、それを可能にする人と人との営みも、また素晴らしいものです。その神聖なる瞬間に立ち会った時、自然と涙すら零れます。 若山牧水が「白鳥は かなしからずや 空のあお 海のあおにも 染まずただよう」と詠ったその鳥は、その後その海の上で何を想ったのか? それについて原さんが持ち前の自由な想像力で解釈するシーン、そして激動の最終巻のラストシーンなどは、私の心の中で永遠に褪せずに刻まれ続ける名シーンです。 あなたが持っているここにいるためのチケットは、あなたが自ら手放さない限り誰にも奪われることのない。 あなたは既に一度祝福されたからこそ今ここに在る。 『電波オデッセイ』は優しく教えてくれます。 願わくば、この作品を読んだあなたがどうか良い旅(オデッセイ)を送り、何か一つでも素敵な「おみやげ」を持って行けますように。
兎来栄寿
兎来栄寿
2017/08/10
現代社会への絶望の最果て。あなたの最大の後悔は何ですか?『空也上人がいた』
何たることでしょうか。
新井英樹先生が絶望しておられる……! 新井英樹という作家は、「漫画で、俺のペン一つで、世の中を変えてやる!」という気概が紙面から迸っている、極めて稀少な描き手です。その卓抜した筆勢は、『キーチ!!』やその続編『キーチVS』、『ザ・ワールド・イズ・マイン』、『SCATTER』などを是非読んで頂きたい所です。 いずれも圧倒的な作品であり、今世紀で好きなマンガを十作品選ぶなら、『ザ・ワールド・イズ・マイン』と『キーチVS』の二つ新井英樹先生の作品は入ります。必然的に私の中で新井英樹先生は現代でも最も注目度の高い作家となっています。 その新井英樹先生の最新作が、山田太一先生の小説を原作とするこの『空也上人がいた』です。この単行本を手にとって、私は大きな驚愕に包まれました。
最初のページを捲ると、何と上記の作品群を引用しながら9・11や3・11を経た世界への絶望に暮れる新井英樹先生自身がプロローグとして描かれているではありませんか! > 狂気が世の中への「反撃(カウンター)」として存在できたのはまだ世の中が少しは正常と思えたからで、今の狂気の世の中に喰らわす「反撃」を捜すと倫理、道> 徳ぐらいしかない!!
> そう…思ってたんですけどねえ。本気で。あったまわるいから。
> 「世のため」なんて旗ふったつもりで、期待しすぎてこのザマですよ。
> 絶望っ だね 絶望…
> 別に使命感とかじゃなくなんか嫌で嫌で…
> オレなんかよりずっと売れて影響力ある人が描いてくれてりゃって思ってたんだけどね
> 「ファンタジーなんて描いてる場合じゃない」ってアニメの巨匠だって言ってるじゃん
> グローバリズム コーポラティズム カネカネカネ
> 世界は金持ったキ●ガイと飼われたいブタだけ
> そうだよオレあれもこれも全部嫌いだよ
> 世界なんか滅べ!! もう知るか!! あんなに政治家の汚職を、検察の腐敗を、大企業の卑劣を、米国への従属を、クロスオーナーシップを、新聞特殊指定を、ありとあらゆるタブーを恐れず踏み込んで批判して来た新井英樹先生が! 文字通り、大切な「云」うべく敢えて「鬼」と化して絶大な魂を紙面に落とし込んで来た新井英樹先生が! 怒ることを忘れた日本人に喝を入れ、怒りを思い出させようとして来た新井英樹先生が! こともあろうに、あまりにも深い諦観に駆られている……!  現代社会における良心、希望の篝火のような存在が、遂にこの世の巨悪と狂気、弱さと同調圧力の奔流に屈してしまう時が訪れてしまったのか……そんな悲しいことはありませんでした。
大多数の人が見て見ぬ振りをしてやり過ごすことを処世術とする中で、自らへの不利益を省みなずに声を上げる勇猛さ。真っ当であれ、という極めて純度の高いメッセージ。それらが全て敗北してしまったとなると、私自身も絶望の深淵に沈まざるを得ません。 しかし、そんな魂を賭した長きに亘る闘いの果てに至った絶望、その先に描かれた本書もまた圧倒的に素晴らしかったのです。 **介護に携わる若者、キレる** 今作は、タイトルだけ聞くと歴史物のような印象を受けるかもしれませんが、現代社会の問題を描いた一冊完結の現代モノです。 特別養護老人ホームで働いていた27歳のヘルパー青年・草介は、毎晩叫び狂う老婆に対しある日キレて車椅子から突き落としてしまいます。そして、その6日後にその老婆は死亡。自責の念に駆られ職場を辞めた草介は、同僚の46歳ケアマネージャーから紹介された81歳の独居老人の在宅介護を始める、というのが今作冒頭の筋書きです。スーパーのレジ打ち並の収入で280円の牛丼を食べながら、人の命を預かる過酷な仕事、金持ちの老人の世話を行う若者像というのは、現代社会の様々な物の象徴です。 2014年現在、介護職員は150万人。少子高齢化社会の日本では、2025年までには職員数が250万人必要、つまり100万人の介護職員を増やさねばならない、という試算もあります。しかし、激務であり責任も重大な仕事内容でありながらも、その待遇は恵まれているとは言い難い状況です。一刻も早くこの現状を打破せねばならない、。現場で働く末端の介護職員の給与を増やし、負担を減じる方向に持って行かねばならない、ということは多くの人が痛感しながらも、決定的な方策を打つことができていない状況です。一方で、お金を持った老人相手のビジネスとして介護を認識し、食い物にして巨利を得る悪質な輩も跋扈しており、闇は深いです。 介護の大変さは、私も多少解ります。私自身、祖父の介護を数年にわたって行っていました。祖父は、私がこの世で一番尊敬する人物でした。聡明で、物腰が柔らかく何があっても決して怒らず、優しく諭してくれる人でした。70歳を超えても毎日二時間の散歩と運動を欠かさず、自炊によりバランスの取れた食事で健康を保ち、そしてあらゆる物事への好奇心が旺盛でした。触ったこともないTVゲームにも付き合ってくれて「何事も経験。何でも積極的にやってみること」と幾度となく教えられたことも、私の中で血肉となっています。 しかし、そんな祖父も認知症を患ってしまうと、深遠な知識も高潔な人格も、全てを失って行きました。下の世話などはまだ全然良いのです。それより何よりも、話をしても何をしても意思を通わせることができない虚無感・絶望感というのは凄まじいものです。その中で生じる負の感情に、介護をしている自分の不寛容さを曝け出され突き付けられることも伴って、自分自身も精神を苛まれ、蝕まれ、病んで行きます。悪意が無いと解ってはいても、繰り返される様々な蛮行に、苛立ちや憎しみすら抱く瞬間が全く無かったと言い切るのは難しい程です。生涯で最も尊敬する人物をしてこんな感情を抱いてしまうのですから、赤の他人である老人の介護をしている方々の心的ストレスはいかばかりかと思ってしまいます。 作中で、女性ケアマネージャーが > 介護やってれば気持じゃ何百遍もほうり出してるよ。 と語る通りでしょう。 日々、心身を傷付け抉られながら、一方で命を預かっているという緊張感。その状態が何年、何十年と続くのか全く先の見えない状態。その抑圧を、原作者の山田太一先生は「キレないはずがないというのもちょっとひどい言い方だけれども、キレても不思議はない」と実際の取材で感じた体験を元に、この作品を著したそうです。今後の社会で重要なテーマであるにも関わらず、こういったことを描いてくれている作品は寡少なので、私はよくぞ描いてくれたものだと思います。 「後悔」と「他者の眼差し」 今作はノンフィクションの介護小説としてでなく、老人が後悔に苛まれる傷付いた青年を救う物語として描かれたことで、介護というテーマは勿論ですが、それに留まらない普遍性を獲得しています。その軸となっているのは、「後悔」。きっと、誰しも人生の中での最大の後悔というものがあるはずです。その後悔と、人はどう付き合い、どう向き合っていけば良いのか……。 主人公の27歳の草介は、おばあさんを一時の激情に駆られ、それが原因かどうかははっきりとは判らないものの、人を死に至らしめてしまったという罪悪感に囚われます。一方で、彼が出会う81歳の老人もまた、長い人生の中にある一つの大きなわだかまりを抱いています。 そこで、一つの象徴として登場するのが、タイトルとなっている空也上人です。踊り念仏や六斎念仏の始祖であり、疫病で多くの死体がその辺りに転がっている時代の中で、様々な公共事業に勤しんだ聖人。その空也上人の立像というのは、他の多くの彫刻や仏像と違い、顎を上げかすかな声で「南無阿弥陀仏」を唱えながら、前を見て歩いている。それは、罪を許してくれるのではなく、同じようにへこたれて共に歩んでくれるものなのだ、と。 そのようにして、自身が大きな感銘を受けた空也上人立像を、老人は青年に見せようとします。そして、六波羅蜜寺で青年が空也上人立像と対面した時の描写は、小説版でも漫画版でも一つのクライマックスとなっており、必見です。その眼差しは、草介を通して読者をも刺し貫いてきます。 思うに、この世界で生きる際に「他者からの眼差しに晒されている」という意識があるのとないのとでは全く違う次元に存在するようなものです。それは、世界の多くの国々では宗教と呼ばれるものでもあります。日本人は宗教性は薄い民族ではありますが、「お天道様が見ている」とか、「壁に耳あり障子に目あり」といった言葉にそういった精神性は散見されます。 誰も見ていないからといって、不善をなす。多くの人は経験していることでしょう。しかし、その犯した罪は消えることはありません。何らかの他者性を内在させることでその罪の芽をあらかじめ摘み取ることができるなら、それは現実的に推奨されるアティテュードなのではないでしょうか。眼差しを投げかけ、共に歩んでくれる、あなたの「空也上人」を。 そうして生きて行った先には、予想もしなかった新しい展開が開け、そこは想像もできない心地良い場所になっているのかもしれません。そんなことを思わせてくれる物語です。ラストは、表紙を一見した時のような何とも言えない優しさに彩られています。 ある意味で、これはドストエフスキー『罪と罰』の現代日本版であり、一つの返歌と言える作品かもしれません。 **結び** モンやキーチのような圧倒的カリスマは、この物語には出て来ません。ここには普通の人の、普通の現代社会の生活の中での有り触れた想いがあるのみです。しかし、それが静かに深く胸の奥底を叩き、貫いて行きます。それは言うなれば高級料亭で食べるシメの雑炊のように。見た目は地味でありながらも、それまでのあらゆる豊潤な食材のエキスを吸収して生み出される余りにも豊かな旨味に溢れていたのです。山田太一先生の原作に忠実でありながらも、確かに新井英樹作品としての生命の鼓動を感じます。私の中では今年の作品の中でも確実にベスト10に入ります。 今作の巻末に収録された、原作者山田太一先生と新井英樹先生の一万字対談には、こんな注釈もありました。 
> 『キーチVS』については、漫画に主義や思想はいらないというご批判を多々受けました。そんなこと言ってるから、漫画は3・11や原発で、映画や小説の後塵を拝したじゃないか。 この一文に込められた気概に、私は喝采を送りたいです。
今作を描くに至った新井先生が、現在とんでもないことになっている『SCATTER』をどう着地させるのか。そして、その次は一体どんな作品を生み出すのか。今後も新井英樹先生の漫画表現による社会・世界との鬩ぎ合いを、心から応援していきます。
兎来栄寿
兎来栄寿
2017/07/28
世界の変革が抉りだす人間の本質『預言者ピッピ』
一体、これは何なのか。 ページを捲り、フキダシの中の台詞を追う度に、脳髄を殴られるような衝撃。
初めて『預言者ピッピ』を読んだ時、あまりにも面白過ぎて目眩がしました。 私はマンガソムリエ活動の一環として、日々漫画のレビューを行っています。
その中で100点満点で80点を超える作品は稀で、90点台ともなると年に1冊出るか出ないかという位です。
しかし、この『預言者ピッピ』には1巻90点、2巻95点という最高の評価をしています。 今世紀刊行された漫画の中でも個人的ベスト1候補の、最高に物凄い作品です。  『預言者ピッピ』が掲載されていたCOMIC CUEという雑誌を知っている方は、かなりの漫画好きでしょう。
マイナーではありますが、大友克洋先生、松本大洋先生から安野モヨコ先生、羽海野チカ先生まで実に幅広く錚々たる大家が寄稿していた、特濃の漫画雑誌です。  1999年に出たその6号目。
『火の鳥』のロビタを表紙に据えた、「手塚治虫リミックス」という特集号から『預言者ピッピ』はスタートしました。 実際、初めて単行本で読んだ時に「手塚治虫作品クラスの圧倒的な領域に達している」と感じたので、この表紙を見た時は感慨深いものがありました。
そう、今作は『火の鳥』で描かれているような、人間や生命、社会や世界に対する深い洞察に満ち満ちているのです。 それまでギャグ漫画をメインに描いてきた地下沢中也先生が、こんなにもシリアスで重厚なSFを描くのか! と非常に驚愕しました。
手塚治虫先生の諸作品も、何かが取り憑いて描かせたのではないかと思うような超越性を半ば感じますが、それに似た印象をこの『預言者ピッピ』からも受けるのです。 同じ99年開始の『愛人[AI-REN]』以上の曰くつき作品でもあります。
CUEに五話目が掲載されたのが、2001年。
そして、そこまでを収録した単行本第一巻が出たのは、2007年。
何と、実に六年の歳月を要しました。 その段階で未掲載分が二話分ありながらも、連載が止まってから四年も経っていては続刊は絶望的かと思われていました…… が、2011年10月に奇跡の2巻が刊行! しかも、84ページの描き下ろしを伴って!
これには私を含むファンが熱狂的な喜びを以って迎え入れました。 そして、4年ぶりの新刊、実に8年ぶりとなる続きが、また想像を超えてくる出来でした。 息もつかせぬ、とは正に『預言者ピッピ』の為にあるような言葉。 途方も無い領域まで話は突き進んで行き、ただただ圧倒されます。 アイザック・アシモフが50年前に想像した2014年の様子が現在に照らしてみると驚くほど的中しているように、この作品で呈示されているものも本当に実現するのではないか、と思わされます。 今、世界で一番続きが読みたくて狂おしい漫画です。 それにしても、岩手県出身である地下沢中也先生が、2011年にこの物語の続きを刊行したことは、大変に意義深いことです。 3.11から今日で丸三年。 あの災禍、そして断続する余震や原発事故。 私も、親しい人を喪いました。 世界の関節が外れ、当たり前が当たり前でなくなり、それまでとは理が一変してしまったように感じました。 ともかくもう二度と、こんな悲劇が起こらないで欲しい…… そんな願いがある種実現されているのが、現代を舞台にした『預言者ピッピ』で描かれる世界です。 ピッピは地震予知の為に開発された予言ロボット。 彼のお陰で3ヶ月前に大地震が起こると予知された地域の住民は避難し、死傷者ゼロという快挙を成し遂げます。 しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるように、予知できるようになった災害はやがて世界的な見せ物へと変貌して行きます。  人口350万人都市ロサンゼルスが一瞬にして滅び行く中継映像を狂騒的に見つめる者達と、故郷が瓦礫の山へと変わって行く姿を涙を流して悲しむ者達の対比は、非常にそら恐ろしいものです。 「忘却も能力」と作中の科学者が言いますが、辛い記憶と共に大切なことすらも忘れてしまう愚かさ。 どんなに科学技術が進歩しても、変わらず自分の信じたいものだけを信じる愚かさ。 自らのポジションに利することにしか興味のない政治家やマスコミの愚かさ。 作中では、様々な人間の愚かさが抉り出されて行きます。  そして、地震予知のみに制限されていた能力を、そんな人の愚かさ故に解除されたピッピは、やがて人間や世界の全ての未来を演算してしまいます。 そこに使える技術があるのに使わない、救える命があるのに救わない、人間にはそんな選択はできません。 その結果として全ての運命が予め判明してしまった世界で、人はどう生きるのか、生きるべきなのか…… 先の見えない未来こそが、逆説的に人の希望その物なのだということも、本を置いた時に実感として噛み締められます。 一つ一つの会話も哲学的で味わい深く、読むことで自らの深淵と向き合うことをも可能にする稀有な書です。 かといって難解になり過ぎることもなく、可愛い絵柄とのバランスが絶妙と言えます。 こういう作品がある限り、私はこれからも漫画を読み続けるでしょう。 「第3巻は、そこまでお待たせしない予定です」
という担当編集者の言葉に期待を高まらせつつ、今年で3年目を迎えますが…… 是非とも読んで、そして「早く3巻を」という声を一緒に発して欲しいです そして、地下沢中也先生になるべく早く続きを描いて頂きましょう。 この作品は間違いなく現代漫画界の掛け替えの無い財産です。 3月11日ということで、『預言者ピッピ』とは関係無いですが、以下の作品も推薦します。 売上の一部が義援金に回されるので、募金と思って購入するのも良いのではないでしょうか。
兎来栄寿
兎来栄寿
2017/04/27
「朗読」で迫る表現の極致『花もて語れ』
老若男女を問わず、普段漫画を読まないような方にも強くお薦めしたい漫画が、この『花もて語れ』です。 この作品には ・「表現」についての理解が深まりスキルアップする ・様々な名作文学に詳しくなる ・今後のあらゆる物語体験がより豊かになる といった効能があります。 そして、何より純粋に物語として素晴らしいのです! **朗読の世界** 『花もて語れ』の題材は、漫画初の「朗読」。 普通の人であれば、朗読といっても国語の授業位のイメージでしょうか。 しかし、この作品を読めばそのイメージも変貌します。 朗読とは、物語を最高度に楽しむ読み方であり、文章に最も真摯に向き合う姿勢、感受性を極限まで研ぎ澄ます所作なのです。 六種の「文章のカメラワーク」を意識した一文一文の読解。 作者の思想、その話が書かれた環境・背景まで酌んでの作品理解。 作品を他人事ではなく、我が事とするのが朗読という読み方。 それは、役者の役作りに通ずる部分があります。 私も経験がありますが、何かを演じる為に台本を精読して作品と対峙し続けたり、物語の舞台となった地に実際に立ってみたりすることで、極めてリアルな想像力が働くようになります。 すると、一見何気ないセリフでもその裏にある重みが見えて来ます。 そうした掘り下げにより、普通に読んでいては気付かない事柄が読み解かれます。 宮澤賢治の『注文の多い料理店』に出てくる二人の兵隊の性格にこんな違いが! と驚かされました。 今作では太宰や芥川から金子みすゞまで、様々な作品が取り扱われます。 総じて「この作品はこんな読み方が可能なのか!」と目から鱗がぼろぼろ落ちて行きます。 解釈自体への感動。 それに加え、その鮮烈な解釈によって訴えられる熱き「真意」に感銘を受けます。 こうして読み解いた奥深き世界を、朗読はどう人に伝えるのか。 音楽、絵画、彫刻、漫画…… 表現の方法は数多くある中で、朗読という手段が可能にする領域が開示されます。 **今にも飛び出してきそうな作画の前で** 多くの漫画は、原稿1枚で1ページです。 当たり前だ、と思うでしょうか。 しかし、この『花もて語れ』は80枚の原稿で38ページ、といった非常に特殊な形態を取っています。 1ページを構成するのに、複数枚の原稿が用いられているのです。 それは、「漫画という表現」で「朗読という表現」を表現しようとして生まれた挑戦。 普通の漫画賞の応募規定などでは禁止されていることも多い薄墨を用い、それを通常の作画と組み合わせて、珠玉の朗読シーンが作られているのです。 その結果、優れた音楽漫画から音が聞こえて来るように『花もて語れ』からは声が聞こえて来ます。 様々な意味で、漫画表現の極点に挑んでいる作品と言えます。 **『花もて語れ』のすばらしさは人間のすばらしさ!** 主人公は、両親を亡くし田舎に引き取られた何の取り柄もない女の子・佐倉ハナ。 彼女が、教育実習でやって来た青年に朗読を教わる所から始まります。 極度の引っ込み思案で友達も皆無。 OLになってからも、まともに仕事ができずミス連発。 自分は何をやっても駄目だ、と思い悩むハナ。 しかしそんな彼女は、朗読をすると驚くべき才能を発揮します。 普段はみそっかすの女の子が、圧倒的センスで大衆を前に凄まじいパフォーマンスを披露する爽快感は、さながら『ガラスの仮面』。 構造が似ているだけではなく、作品が持つ熱量、面白さも同等以上です。 『花もて語れ』の主要人物の多くは、ハナ以外もすんなりとは生きていません。 たとえばハナにとって無二の存在となる満里子は、妹の死によって家族と断絶し五年間引き篭もった女性。 ハナの師となる折口も、様々なものを抱えて生きています。 彼らは皆、強い人間ではありません。 弱いけれど、強くあろうとする者たちなのです。 圧倒的に弱き者が自らの弱きを自覚し、絶望する。 しかし、そこから目を背けず受け止め、その上で強くなろうとする。 たった一つの武器だけを手に、勇気を振り絞って世界と対峙して行く。 その姿は理屈を超えて美しく貴いもので、普遍的に心を打ちます。 そんな人物たちの朗読によって、「失った居場所の取り戻し方」「真の友情」「想いを伝えること」「悩むことの意味」「かつて傾けたが実らなかった情熱の意味」など様々なテーマが謳われる物語。 私は近巻を読む度、想いの質量や熱に涙を流してしまいます。 それらは全て生の肯定。 この物語は、魂の込もった人間賛歌でもあるのです。 **終曲も劇的に奏でられる** 現在10巻まで刊行され、あと3巻で完結というクライマックス。 まだ間に合います。 奮えること必至の感動のラストを、共に見届けましょう。 個人的な願いとしては、全国の学校の教室や図書室に是非この漫画を置いて欲しいです。 今作を読めば、国語や朗読が更に楽しくなることは間違いないですから。 子供の国語の成績を良くしたいという親御さんにも、強く推薦します。 ちなみに片山ユキヲ先生の前作『空色動画』(全3巻)も、漫画で動画であるアニメーションの創作を描いた意欲的で面白い作品ですので、併せてお薦めです。 https://manba.co.jp/boards/58937
兎来栄寿
兎来栄寿
2016/12/19
2人の魔女に花束を。19世紀ロンドンの骨董品店を舞台に繰り広げられる猟奇でやさしいゴシックファンタジー―黒釜ナオ『魔女のやさしい葬列』
『解剖医ハンター』というマンガをご存じだろうか? 18世紀イギリスはロンドンに実在した近代外科医学の父にして死体泥棒(!)ジョン・ハンターの冒険を描いた名作である。ジョン・ハンターは、あの『ドリトル先生』と『ジキル博士とハイド氏』のモデルになったとも言われる奇人。作中でも、「食屍鬼(グール)」、「切り裂き屋(ナイフマン)」、「悪徳紳士(ミスター・ハイド)」、「ドクター・ドリトル(ヤブ医者)」と、とにかくひどい言われようだが、革命的知性と反骨精神を武器に、旧世代の悪習や打算ずくな権威を向こうに回し、己が道を切り拓く姿が痛快である。マンガ的なケレン味がよく効いていて、若き日の大航海者ジェームズ・クックに「おれは人類で初めて人体の地図を作る/いや この地球に生きとし生けるものすべての/生命の世界地図を作る」(第1巻、P124)などというセリフは思わず胸がすく。ハンターと同じく進歩を信じつつも、己の利権を守るため、民衆を愚昧にとどめようとする敵役に月光協会(ルナ・ソサエティ)のエラズマス・ダーウィンを配している辺りもにくい。あの進化論のチャールズ・ダーウィンの祖父である。作画を担当したのは黒釜ナオ。この作品が初の単行本だった。  『解剖医ハンター』から3年、黒釜ナオがこの6月、満を持して新刊を世に送り出した。その名も『魔女のやさしい葬列』。帯には、「構想2年」の「ゴシックファンタジー超大作!!!」とある。  魔女のやさしい葬列 1 (リュウコミックス) 作者:黒釜ナオ  物語の舞台はまたしてもロンドン。ただし、時代は下って19世紀ヴィクトリア朝期。16才の花売りの少女ナンシー・ドリットは、ブレイロック骨董店に毎日花を送り届けている。それはまだ年若い店主ブレイロックから、店番の少女リラへの贈り物。だが、密かにブレイロックに思いを寄せるナンシーは、2人の関係を勘ぐり、彼の不興を買ってしまう。リラが売春をさせられているにちがいないと思い込んだナンシーは、見知らぬ男と連れだって歩くリラの後を追う。路地裏で彼女を待ち受けていたのは、思いもよらぬ光景だった――。 物語の視点人物は花売りのナンシー。ろくでもない父親と年端もいかぬ弟妹を養う彼女は、春をひさぐことまではしないにしても、いつかこの悪徳の巷を抜け出してやろうと、銭勘定に余念がない。ついたあだ名は「銭(コイン)の魔女」。  『魔女のやさしい葬列』P33 一方、ナンシーが花を届けるリラは、天真爛漫な少女。だが、彼女は、そのあどけない少女の外見の内側に「人類最初の魔女」リリスを宿している。彼女はどこからともなくブレイロックに連れられ、さびれた骨董店に落ち着いた。ブレイロックが何者で、リラ/リリスを使って何を企んでいるのか、その全貌はまだ第1巻では明らかにされてはいない。  『魔女のやさしい葬列』P47 これは、ブレイロック骨董店に隠された「人類最初の魔女」リリスの謎をめぐる物語。だが、同時に、もう1人の「銭(コイン)の魔女」ナンシーをめぐる物語でもあるのだろう。ロンドンの片隅で小銭かすめて生にしがみつく生身の魔女が、太古から生きながらえ、死の災いをもたらす本物の魔女と出会ったときに何が起きるのか――。 
当時のロンドンであれば、こんな2人が出会ったところで不思議はない。大英帝国の繁栄を背景に金持ちがわが世の春を謳歌する一方、貧困と犯罪が猖獗を極め、都市と路地裏、金持ちと貧乏人、花売りと娼婦、昼と夜、現実と夢など、さまざまな矛盾を内包した町。こんな町であれば、オカルトめいた猟奇殺人ですら起きかねない。作者はこの町にひっそりと存在するブレイロック骨董店の独特の雰囲気をたくみに描いてみせる。古今東西のガラクタがゴミの山のように積み重なり、独特の描き文字までがまるでオブジェのように違和感なくたたずむ、懐かしくも心地よい空間。だが、そのゴミ山が作り出す影には不穏な空気が漂う。それは光も闇も飲み込んで肥大した両義的な空間。ナンシーによれば、「ほぼ墓場」(P17)。実際、その後、ブレイロック骨董店は、その扉を叩く者にとって、「命にかかわ」(P149)る場所となる。
  『魔女のやさしい葬列』P7 英語で書かれたこの作品の副題を見ると、Last flowers for Lilithとある。そう、これは花をめぐる物語でもある。視点人物のナンシーは花売りで、リラも大の花好き。ナンシーがカゴいっぱいに花を詰めて持ってくると、リラが飛びかかり、彼女のおでこに口づけをする。宙に浮いた薔薇の花を見て、ふと気づかされる。花は唇に似ているのだと。  『魔女のやさしい葬列』P8-9 唇/口の機能はもちろん口づけをすることだけではない。花=唇/口という連想は、その後、物語が進むにつれ、一転、陰惨極まりない様相を呈していく。 だが、酸鼻な事件とまがまがしい死を語ることがこの物語の目的ではないようだ。葬列は葬列でも、これは「やさしい葬列」なのだ。1つ1つの花は唇や口に似ている一方で、広げられた両手にも似ている。そして、花々を集めた花束は、差し出された両腕に。  『魔女のやさしい葬列』P196 こうして花は、両義性をはらみつつ、幾重にも変奏されながら、ナンシーとリラ/リリスという2人の魔女の物語を彩っていく。 まだ始まったばかりのこの物語が、いったいどこに向かおうとしているのかはわからない。心やさしい2人の魔女に用意されているのは、幸福な結末なのだろうか? 花には花言葉というものがある。「銭(コイン)の魔女」のナンシーにとっては、バラもユリもスミレも、「その花言葉はひとつだけ/「銭」ッ」(P3-5)である。リラとブレイロックとの出会いを経ることで、その花言葉の意味は変わるのだろうか? そして、このLast flowers for Lilithという花束は、どんな花言葉を持つことになるのだろうか? 今後の展開が楽しみである。
兎来栄寿
兎来栄寿
2016/06/06
糖尿病性ケトアシドーシス、肺炎、敗血症、急性腎不全、脳浮腫、白質脳症etc… 壊れた脳が視せる異世界と、奇跡の再生。過労死する前に読みたい『死んで生き返りましたれぽ』
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 「仕事・人間関係で毎日疲れているんですが、その疲れを癒してくれるようなマンガはないですか?」 マンガソムリエ活動を行っている時に、特に多いのはこんなオーダーです。ある意味で、そういった方に最もお薦めしたいのが今回紹介する『死んで生き返りましたレポ』。但し、それは癒やしなどという生易しいものではなく、痛みを伴った「救済」とでも言うべきものですが……。 英語でもドイツ語でもフランス語でもスペイン語でもポルトガル語でも、「過労死」は「karoshi」で通じてしまう現代日本の労働環境。特に今は師走に入り、「こんな忙しい時にマンガなんて読んでる暇あるか!」という方も多いかと思います。かく言う無類のマンガ好きである私自身も、先月の労働時間は400時間を超えマンガを読む時間を確保するのが至難でした。しかし、そんな忙殺(これも凄い熟語ですよね)されている人にこそ、あえて一時息を入れて手に取って頂きたいと強く願います。仕事について、人生について、周りの人との関わり合い方について、今一度見つめ直す機会を与えてくれる極めて上質な実録エッセイマンガです。 **2014年最大級の衝撃作** 何たる異端。 何たる奇跡。 何たる衝撃。 pixivに掲載されていたこのマンガを初めて読んだのは、全16話の内の丁度半分までが公開された時期でした。子供の落書きや「エヴァ」の心象スケッチを想起させる描線が生々しい迫力で襲い掛かって来て、その重い内容と共に「ちょっと、これは凄すぎる……」と唸ってしまいました。私が触れたWebマンガの中では2014年中で比肩する物はなく、あらゆるマンガを含めてすら傑出しています。 今作は、オーバーワークと不節制により糖尿病、糖尿病性ケトアシドーシス、肺炎、敗血症、横紋筋融解症、急性腎不全、脳浮腫、高アンモニア血症、鉄欠乏性貧血、可逆性白質脳症などなど重篤という言葉でも到底足りないほどの、致命的な合併症を起こしてしまった筆者の実体験をマンガ化したものです。一時は心肺停止にまで陥ってしまったものの、このマンガを描いているという事実からも察せられる通り、今では見事に回復されたそうです。担当医の方々からは「奇跡の人」と呼ばれているとか。助かったのが不思議な位の症状や精神状態を克明に描いた闘病記録は、壮絶極まりないものです。 盲目化、幼児退行、精神崩壊などを起こした時の「れぽ」。何を尋ねられても同じ単語でしか返せない。人間の顔に線が入って見える。顔のパーツが逃げる。自分の腹の上に無数の足がある。色や形が判別できず四角い物体がどれも同じに感じられる。『火の鳥 復活編』を思い出させるような、脳の変化により生じた認識の変化がリアルに視覚的に描写されます。 書物や物語の意義として、自身の一回だけの人生では味わえない様々な事柄を疑似体験するというものがあります。それによって、私たちは思い描くのが難しい他の世界への想像力を獲得し、涵養されて行きます。その意味では、この体験レポートマンガというのは大変貴重な存在です。こういった経験談を言葉で伝え聞く機会は幾度となくありましたが、患者目線で視覚的にダイレクトに伝わるこのような形で見事に表現してみせた例はほとんど見たことがありませんでした。たまたま絵を描くことが好きで、それを生業にしていた筆者だったからこそ描き表すことができた奇跡の作品と言っても過言ではないでしょう。 **歪んだ夢と、生きる許しと、支えてくれる人と** 『死んで生き返りましたれぽ』では、筆者が倒れるに至る過程を描く部分にこんなモノローグが登場します。 > 自分が望んだ生活なのに苦しいのはなぜだろう > 仕事をするのがつらく、しかし、自分でやりたくてやってることなのであきらめたくはありませんでした。 > 仕事にしがみついていたわたしがこれ以上なにも描けないと自分から言うのは恐怖でした。 最初は自分が望んで選び取った道だったはずなのに、いざ歩んでみると途轍もなく苦しい。それでも、もしもそれを捨ててしまったなら他に自分には何もない。だから捨てられず、もがき苦しみながらもしがみつく……。それによって遂には体や心を壊してしまう、というのは非常に悲しいことです。 絵を描くスキルを唯一の武器としてこの世界で生きて来た筆者が、アンパンマンの顔すらもまともに描けなくなってしまっていた時。それは、翼を奪われた鳥のように、脚を奪われたサッカー選手のように、「命以外のすべてを失う」と表現された絶望感。そして、そんな絶望感すらも絶望として認識できない絶望的状況。 しかしながら、本当は世界は広く限りなく、道も無限にあるはずなんです。どこかで少し戻っても、止まっても、脇道に逸れても、全然構わないはずなんです。それまで費やして来たものが全て喪われたとしても、人はまたゼロから築き上げていくこともできる生き物です。でも、渦中にあっては、そんなことを気付く余裕がまずないですし、解らないのですよね。だからもし、死を意識するような時間を多く持たざるを得ない道を歩んでいるなら、無様でも良いし誰かを頼っても良いので、まず生命を存続させる道へ舵を切るべきです。生きている限り、いえ、一度死の淵に至ってもなお、人にはあらゆる可能性がある。そして、死に掛けた自分を助けようと真剣に動いてくれたり心配してくれる人は自分が思っている以上に世の中にいるのだと、生きていて良いのだと、その許しは些細で身近な所にあるのだと、そんなことをこの作品は切々と説いてくれます。 私が今作で特に感動したシーンの一つが、まともに喋ることすらできなかった筆者が奇跡的な回復を見せて行き、遂にはリハビリで立てるようになったシーンの母親の反応でした。仮に自分が立ち上がることができない状態に陥った時、立ち上がれるようになっただけで涙を流して喜んでくれるような人は身の回りにいるでしょうか。もしいるとするならば、絶対にその人のことは大切にせねばならないでしょう。母親だけでなく、友人や病院の人々の言動がそのまま生きる力に繋がっていく姿は、心を熱く穿たれます。 巻末に書き下ろされた竹尾さん自身の後書きの言葉がまた素晴らしいもので、強く印象に残っています。 > 生きることがつらいときや、自分の意思とは関係なく立ち止まってしまったときに、自分の心を前に向けるには、善い言葉を使い、人に感謝をする、それだけでいいのかもしれません 善い言葉と感謝。自分を想ってくれる、気遣ってくれる人のことを、自分も想うこと。私も常に心掛けている所ですが、忘れそうになった時はこの本を再読したいです。そんなことを考えさせてくれるこの本は、誰かへの贈り物とするにもとても良い選択となる一冊だと思います。 **「脳漫画」とWebマンガ** 「くも膜下出血マンガ」『くも漫。』トキワ荘プロジェクトの菊地さんは「今年は脳漫画の年だ」という表現をしました。確かにその通りなのです。『くも漫。』は、くも膜下出血になった筆者の経験を漫画にした作品です。この作品でも、脳にダメージを負ってしまったが故に体験した普通では味わえない感覚を鮮烈に描いています。 又、同じくトーチ掲載の『みちくさ日記』も、精神病院に入院した筆者の体験を赤裸々に描いた作品です。通常とは違った感性によってなされるその表現の数々は一読の価値があります。 これらの作品は全てWeb発。絵のクオリティ的や一回当たりのページ数という面では、メジャーな商業誌の作品と比べると大きく乖離しています。しかし、だからこそこれらの作品は素晴らしいとも言えます。誰もが枷も何もなく、パーソナルな体験をそのまま綴って世の中に送り出すことのできる時代が可能にした作品群。今までは表に出て来ることが難しかったタイプの作品が、今後はこのような形で更にどんどん出て来るようになるでしょう。 これらの作品が普通に生きていては知り得なかった世界を知る契機となり、今までよりも少しだけ人が人に優しくできる世界が生まれたなら、それはとても素敵なことです。 **pixiv版と書籍版** ちなみに、『死んで生き返りましたれぽ』は現在でもpixivにて全話閲覧可能です。 http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=40218865
兎来栄寿
兎来栄寿
2016/01/31
世界は終わる。未来はない。そこで人が持ちうる希望とは?『なぎさにて』
**新井英樹作品の文脈** 『なぎさにて』を語る前にまずはこれまでの新井英樹作品を振り返らねばなりません。 最初期の作品を別にすると、『愛しのアイリーン』、『宮本から君へ』、『ザ・ワールド・イズ・マイン』、『キーチ!!』、『SCATTER』などには共通した感情が見て取れます。長きにわたって現代社会の歪みに徹底抗戦し、鉄槌を下し続けて来た新井英樹先生。その筆致たるや、血も汗も涙も涎も精液も身体中のありとあらゆる体液を迸らせながら、言語にならない魂の咆哮と共に殴りつけて来るような凄まじさでした。近年までの新井英樹作品の基底は人間や社会への悲哀と憤怒と、絶望でした。 しかし、『空也上人がいた』でふっと次元が変わった感がありました。そのことは、『空也上人がいた』の単行本冒頭にてご本人がマンガで綴っています。それが更に加速したのは、「みらい!!-岡啓輔の200年-」でした。絵柄も刷新され、女の子が驚くほど可愛くなりました(それが新井英樹先生ご自身として描かれるのも最高)。『空也上人がいた』以降では、これまでと変わって人間への慈愛が満ちているかのように感じられます。未来への希望に溢れた、明るく暖かい人間賛歌となっていました。 『空也上人がいた』マンガHONZ超新作大賞2014 受賞記念対談 http://honz.jp/articles/-/41243 こちらの記事でも、「みらい!!」や『なぎさにて』を描くに至る心境の変化が克明に綴られています。この記事があったからこそ、新生・新井英樹先生の新作がより一層楽しみだったというのもあります。 これは、ただ単純に希望を語るだけとは訳が違います。『アイリーン』を、『TWIM』を、『キーチ』を描いてきた新井英樹先生が描くからこその、とてつもなく眩い光。とうとうこんな境地にまで達してしまったのか、と思わずにはいられませんでした。 悪いことは言わないので、スペリオール2015年2月13日号はどこかで見掛けたら手元に置いておくべきです。『なぎさにて』にも収録されなかった以上、「みらい」はいつ単行本化されるか分かりませんから。 その「みらい」を経ての、『なぎさにて』。これは、言うなれば『アイリーン』から『SCATTER』までの深淵の暗黒と、『空也上人がいた』や「みらい」の極限の光が同居した、まごうことなき最新最高の新井英樹作品です。風が語りかける……すごい、すごすぎる! **『渚にて』と『なぎさにて』** > 「世界の終わりというわけじゃありません。ただ<人類の終わり>というだけで。世界はこのまま残っていくでしょう、そこにわれわれがいなくなってもね。人間など抜きにして、この世界は永久につづいていくんです」 これは、ネビル・シュート著『渚にて』の一節です。 半世紀以上前に書かれた、終末の世界で日常を生きる人々を描く小説。2000年には舞台となったオーストラリアでドラマ化され、2009年には日本でも新訳版が出るなど、不朽の名作として世に残り受け入れられ続けている作品です。その新訳版の後書きでは、こんなことが書かれています。「この物語のテーマは破滅以外の側面。破滅に直面したとき我々はどうするか。乱暴狼藉、無秩序状態を描くことになるだろう。が、『渚にて』ではそのような光景はほぼ描かれない。人はいかに死を迎えるか、いかに生きるか。ネビル・シュートが語りたかったのは、破滅に直面してなお人には守るべきものがあるということ。人は気高い存在であるべきなのだ」と。 『なぎさにて』は、明らかに『渚にて』を意識して、オマージュとして描かれている部分があります。それはタイトルだけでなく、映画版の主題歌である「THE END OF THE WORLD」が第一話で歌われていることからも解ります(ちなみに、村上春樹著『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にもこの歌詞は引用されています)。何よりも、人類が緩やかな終末に瀕していながらも、それぞれの想いの下でこれまでと同じ日常を送ろうとするその人間としての在り方を問う姿が、正にそのものであると言えます。 余談ですが、個人的に渚という名前はどうしても「渚カヲル」を思い出させます。渚はシ者であり、「カヲル」という名は「オワリ」の一文字ずつ先にある文字。それを含めて、渚という言葉は強く終わりを連想させます。 **終わり行く世界での人間の在り方を描いた物語** 2011年の6月にケープタウンに生えた「ニョロニョロ」。日本では「豆の木」とも通称されるそれは、世界に災厄を齎すものでした。アフリカで発祥したホモ・サピエンスと同じように、ユーラシア大陸、日本、アメリカ大陸、北極、南極と世界中に次々と生えていった豆の木。 ケープタウンに生えた豆の木は、ある時膨らみ破裂して、甚大な被害をもたらしました。半径二十kmで樹液を浴びた者は即死。即死を免れた者も、その撒き散らされた毒による影響で病死。累計五十万人が死亡。そんな、いつ破裂するとも判らない死の豆の木が、日本だけでも千本以上生えてしまった世界。しかし、最初のケープタウンが破裂して以降、世界中で破裂した豆の木はなく、四年が経過。「世界は終わるんだから」と今までとは違った生き方を選ぶ人々もいる一方、辛うじて秩序が保たれている社会。 その中で、日本で初めての豆の木が生える瞬間を目撃してしまった杉浦一家を中心に、『なぎさにて』の物語は綴られていきます。 ヒロインの女子高校生・杉浦渚は、四年前に突然閉ざされてしまった未来を前に自分がしたいことを探し求めて生きる少女。多くの人々と同じように、世界の終わりに直面したことでこれまでの自分とは違う自分として生きようとし、毎日を悔いなく過ごそうと渚は試みます(それにしても、新井英樹作品とは思えないほどかわいい)。こんなに動くヒロインはなかなかいない、と思わせられる、動的さが印象的です。 一方で、キーパーソンとなっているのが渚の父親・宙哉。彼は、ギリギリの所で世界が終わるということを受け入れず、その絶望に抗おうとします。改めて、毎朝7時に家族全員で朝食を取ることを決まりとしたり、子供たちとジョギングをしたり、これまで通りの日常をより大切にしようとします。「日常から未来と希望が見えなくなったのなら日常で絶望を消すこともできるはずだ」と。それも、確固たる意思ではなく、世界や家族の状況を見て惑いつつ、娘に訝しげに思われつつも、人間らしく悩みながら希望に向かおうとする姿に、好感と共感を覚えます。 度々電波障害(パショー)が起こるようになった世界でも、インターネット上で「滅坊」「終息厨」といったカテゴライズをして煽り合いを続ける、どうしようもなく愚かしい人間の描写を欠かさないのも、新井英樹先生らしい所です。 **全てが無に帰す世界の果てで** 私たちも現実に四年前、3.11と原発事故を経験をしています。今まで築き上げてきた常識が覆され、理が一瞬にして全て粉々にされてしまったような、世界の関節が外れたようなあの感覚。それが、この『なぎさにて』では豆の木という形でありありと再現されています。恐ろしいのは、作中では豆の木の惨劇によって3.11が些事として描かれていること。あれほどの事件であっても、時の経過や他の事件の上書きによって人々の中からは驚く程に影が薄くなってしまうというリアリティ。背筋が震えました。 我が子に「他人も自分も思いやれる子になって欲しい」と願い、一所懸命に働いてきた宙哉。そもそも、人の歴史、現在の社会で幸福に暮らせるありとあらゆるシステムは、次代に何かを残そうと粉骨砕身してきた人々の功績。両親や祖先が受け継いで来た賜物。しかし、そんな想いや未来が一瞬で無に帰されてしまう瞬間。圧倒的な虚無と絶望が襲い掛かります。それは、SFでもファンタジーでもなく、現実に真っ当に起こりうる、あるいは違う形で現に起きていることです。 私たちが生きるために教えられてきたことのほとんどは、この人類社会の末永い繁栄のため、人類社会に与するために必要なことです。その未来が全否定された時、社会の機構の一部ではなく完全なる一個人に回帰せざるを得なくなった時、私たちは何をするべきでしょうか。あるいは何をしたいと思うでしょうか。明日か数年後か解らないけれど、人間が絶滅する。そんな状況に置かれた時の自分の行動を想像せずにはいられません。圧倒的な問い掛けを突き付けてくる物語です。 豆の木や大災害などなくとも、今を生きる人々の多くは明るい未来が見出だせないで生きています。未曾有の少子高齢化社会で、衰退を免れないことは明白な日本。安い給料で、一生を添い遂げるパートナーもおらず、年金を貰える宛もなく、老後など想像もできず、その前に野垂れ死ぬか自殺している姿の方が余程リアルに思い描ける。いっそ世界なんて滅びてくれ……そんな風に考える人も決して少なくないであろう今の時代。そんな、世界に息衝く人間が必死に押し殺しながらも抑え切れない絶望感。閉塞感。そういった物を、『なぎさにて』の世界からは感じずにはいられません。終わる世界に生きるが如く未来を見据えて生きることができない人にとっては、全くもって、他人事ではない物語なのです。 しかし、この物語は、上述のインタビューでも描かれている通り、圧倒的な絶望を前にした人間の希望を描いた物語であるはずです。第一巻の最後では、正に圧倒的な絶望が人類に襲い掛かります。『火の鳥』未来編のあるシーンを髣髴とさせるようでした。それでも、驚くほどにビビッドな色使いで、あたかもまっすぐな青春物語であるかのように描かれた単行本の表紙に象徴されるように、渚たちはきっと絶望の中で希望を提示してくれるはずです。 倫理も、道徳も、規範も、あらゆるものが無価値になったとしても、それでも信じられる何かしらを『なぎさにて』は見せてくれる。そう確信しています。もしかしたら、それは愛と呼ばれるものかもしれません。『渚にて』では高潔な愛が一つ大きな希望でしたが、『なぎさにて』ではそうではないかもしれません。確かなことは、極限の世界で必死に生きる人々の姿は私たちに人間にとって本当に大切なことを切に伝えようとしている、ということです。 『なぎさにて』の、新井英樹先生の出す答を、襟を正して見守りましょう。