ゆゆゆ
ゆゆゆ
1年以上前
戦争前は聞いても覚えられなかった地名。 すっかりわかるようになっていた。 キエフ、チェルノブイリ通り。 戦争がある日常が通常となってしまっている国。 読んでいて思い出したのは、その戦争が起こる前、コロナよりも前、まだスマートフォンもなかった頃。 原発跡地がある街に、ガイガーカウンターとともにバイクで出かけ、自然に帰ろうとする街を写真に撮っていた女性(たしか女性だった)のホームページがあった。 森に飲まれつつある、時が止まった美しい街だけど、これほど線量がある。ここから先は行けない。 など、写真とともに彼女は書いていた。 そのホームページに、街の手前、まだ放射線量が高い地域に、よそへ越さず、昔からの生活を続けている家族がいたとも書かれていた。 線量の高いものを食べる、それがなんだ、この土地から離れたくないのだと言っていた。 あの人たちは今どうしているんだろう。 さて、漫画に登場する人たちの行動に、どうしてそんな恐ろしいことを!と思ってしまう。 でも、そもそも知らないのだし、放射線も放射能も見えないからわからないのだし。 自分も言われなければ同じことをしているのだろうし。 未来人はやるせない気持ちにしかなれない。 読んでみて、第一話が鮮烈な印象を残してくれたのだけど、その中でも街の人がバタバタと亡くなっていく様子が淡々とした描写で、なんともそら恐ろしかった。 そして主人公の女性が少しでも幸せに今を生きるのはどの方法だったのか、考えてしまった。 口述史というのは非常にセンセーショナルなものだけど、この作品も類に漏れず、読んだ人に思うことを残す激しさがある。
兎来栄寿
兎来栄寿
1年以上前
今までの今日マチ子さんの作品の中でも、個人的に特に刺さった作品です。 『セキ☆ララ中学受験 経験者だから描けた、ホントの中学受験&中高一貫校ライフ!』から10年と思うと月日の流れの早さに戦慄しますが、自身も中学受験を経験して中高一貫校に入学したという今日マチ子さんが改めて物語として描く中学受験。 小学校高学年の頃、私は受験とは無縁で近くの公立中学にのほほんと進学する予定でしたが、周囲の半数以上の同学年の子たちは受験戦争に駆り立てられていました。私が小学校1年生の時から最も仲の良かった親友は、某有名幼稚舎に落ちて公立にきた社長の息子で、せめて中学からはそこへと連日猛勉強で特に高学年になってからは遊ぶことが少なくなってしまいました。 この『すずめの学校』で描かれるのは、私立小4年生のめだかと公立小4年生のすずめ。そして、そのふたりを取り巻く親類や友人知人たちが織りなす中学受験にまつわる群像劇です。とりわけ、厳しい教育ママであるめだかの母親の様子を見ていると、自分の小学生時代を思い出さずにはいられませんでした。 日々、習い事や塾で忙しくしていた親友が疲れ果てていた時、習い事をサボって我が家で一緒にマンガを読みゲームをした日がありました。それが親友の母親に発覚した時、きっとめだかの母と同じような表情で同じようなことを考えていたんだろうなと今考えて思います。家の経済状況も違いすぎ、私の親の職業も合わせて心の中では嘲笑されていたかもしれません。 子供の人生を良くするためというのはもちろん一定の割合であるはずですが、世間の熱心な教育ママの裡には世間体や自尊心が大きな理由になっている人もおり、そういった大人の機微、今で言うマウント合戦のようなものが行われている様を私は子供心に醜く忌避したいものだと感じていました。 マンガもゲームも友達と遊ぶことも禁じられ、勉強して、いい大学に入って、いい会社に入ったり公務員になったりする。そこにちゃんと幸せがあればいいのですが、残念ながら受験戦争に明け暮れた友人たちが大きくなってから発露した歪みのようなものも複数目にしてきており複雑です。 ただ、それぞれの母親たちにも幼い頃からの人生があり、それに基づいた考え方になっていることも本作では丁寧に描かれます。憧れとコンプレックスという表裏一体の感情や、自分がした苦労や辛い思いを子供にはさせたくないというプリミティブな思い。子供たちも大人たちも、いろいろなものが綯い交ぜになって形作られている。そんなリアルさが、かつての自分の記憶を喚起して胸を刺してきます。 ただ、あとがきで今日マチ子さんは「しんどかったけど友達もできて楽しかった」「自分がのびのびとしていられるのが塾でした」と書かれており、少し救われる思いがしました。 あの頃、死ぬほど我慢を強いられて勉強に明け暮れていた友人たちが今幸せに暮らしていたらいいなと思います。