影絵が趣味2018/02/03真実の愛恋ならもう知っているけれど、ほんとうの愛はいまだ知らないでいる。 愛とは何よりも過酷なものである。その愛の過酷さを描いて、このマンガの右に出るものは未だ存在しないのではないか。 作者は何故タイトルを『ディスコミュニケーション』にしたのか自分でもよく分かっていないらしいが、愛という事と相互不理解という事とは切っても切り離すことのできない二律背反の関係にあるのではないだろうか。 そのために戸川さんと松笛くんはどこまでもどこまでも真実を探しにゆく、その行く道のなんと瑞々しいこと......。ディスコミュニケーション植芝理一2わかる
影絵が趣味2018/01/27サイバラ式抒情詩主婦の日常を描いた『毎日かあさん』や、とことん身体を張った『まあじゃんほうろうき』など、体験記もので名を売っている西原理恵子だけれども、実は抒情詩の天才である。過度にデフォルメ化された雑な線画に抒情の溢れんばかりにトーンをはみ出せば不思議とそのコマのなかに詩的空間が生まれる。おそらくこれは誰にも真似のできない芸当だろう、西原は決して絵が下手なのではなく、誰にも真似のできない巧さを持っている、その真似のできなさを人は下手と言うのである。はれた日は学校をやすんで西原理恵子5わかる
影絵が趣味2017/09/09海のみえる風景前作『ちーちゃんはちょっと足りない』に続いて、舞台は海のみえる街、神戸のようです。というより、『ちーちゃん』の舞台が神戸だということを今作に連れられて読み返してみてはじめて知りました。それもそのはずで、『ちーちゃん』には海がそこにありながら描かれていない、真っ白い空白な画面があるばかりなのです。かろうじて海の存在がわかるのは、ナツとちーちゃんが丘の上から海を眺めるとき、ナツがささやか幸せを嚙みしめるシーンと、後半におなじく丘の上でナツがちーちゃんとの思い出をふりかえるシーンの二ヶ所のみ、そこでも海は淡路島のあることだけが示されてただ真っ白く画面にあるだけなのです。そのいっぽうで『ちーちゃん』には、うらぶられた地方都市の風景が丹念すぎるほどに描かれている。これはいったいどういうことか。おそらく『ちーちゃん』における風景は、ナツの目から見える神戸の街なのです。 そして今作『月曜日の友達』はどうかと言うと、海がしっかり描かれていて舞台が神戸だとすぐにわかる。そればかりではなく、潮風によって劣化した建物のほころびまでしっかり描かれている。それが『ちーちゃん』ではどうだったかというと、ただただ薄汚くてうら寂しい、どこにでもありそうな街の風景の一部にすぎませんでした。今作における風景は、水谷の目からみえる風景とみて、まず間違いないと思います。水谷は、この街の風景から、あるいは月野くんの目から、色んなことを感じ、尚且つそれらを美しいと思う。光に照らされれば当然のようにできる影にしても、水谷の目にはちょっと特別な美しいものに思われる。水しぶきが舞えば光が反射してキラキラするのがみえてしまう。そう、見えてしまう。水谷の目には色んな美しいものがみえる。同じ街でも、見る人が違えばこんなに違ったふうにみえるのです。 でも、実際には違うひとが見ているわけではないんですね。ナツにしても水谷にしても、やっぱり彼女たちは作者の分身であるわけです。同じひとがみていても、風景というものはこんなにも違ってみえる。ちなみに作者の阿部共実さんは神戸の出身らしいです。もしかすると、子供の頃はナツのようにつまらない街にしかみえなかった神戸が、大人になって美しい風景として見られるようになったのではないか、そんな想像をしてしまいます。月曜日の友達阿部共実2わかる
影絵が趣味2017/08/26鎌倉に住みたい……私事ながら、先日、夏の休暇に鎌倉へ遊びに行ってきました。一日じゅう海だ山だと方々歩きまわって、さいごは海岸の小さな橋に足をぶらんと投げ出して海と日没を拝みました。 帰ってきて翌日、そういえば、鎌倉といえば『海街diary』だったと思い立ち、本棚を漁って、およそ2年ぶりに頁をめくりました。連載のスピードがあまりに遅いのでしばらく放っておいたんですね。するとどうでしょう、鎌倉で目にした風景のあれやこれやが数頁に2,3度も描かれている。とりわけ、私がさいごに腰を落ち着けた海岸の小さな橋、これが何度も出てきてですね、しかも三姉妹それぞれの重要な逢瀬の場になっている。そのときは涙でぐしゃぐしゃになりながら読んでいたわけですが、後になって冷静に考えてみると、じぶんの無意識がおそろしいのか、すべては吉田秋生の手中にあるのか、それは分かりませんけども、とにかく場所の力というのは物凄いと感じました。この海岸の小さな橋以外にも、おなじ風景はたくさん描かれていて、しかも、違う人物がそこに居たりする。おそらく、それらの場所は、鎌倉において人がしぜんと足を止めてしまうところなのでしょう。 海街diaryを通して読んでいくと、とくに人の生死やお金にまつわる問題をめぐって、いかに人と人とが分かり合うことが困難か、というより、そもそも分かり合うことはできないけれどそれでも生きてゆく、というモチーフが繰り返し描かれているように思います。でも今回、鎌倉にじっさいに足を運んでみて、そんな人それぞれの胸の内の想いが、おなじ鎌倉の風景の下で人知れず交わっている、そんなことを考えると胸が熱くなってくるのです。海街diary吉田秋生3わかる
影絵が趣味2017/08/19マンガ的感動に涙するコージィ城倉がおそろしく優れた漫画家および漫画原作者であり、その両端の活動を、誰もがその早すぎる自死を惜しんでやまない天才漫画家の大名作を継ぐという史上もっとも美しい形で引き受けたことへの敬意をまず述べておきたいのですが、この際そんなことはどうでもよくて(ぜんぜんよくない! ほんとうにありがとう! コージィ城倉)、じつに38年の時を超えて、谷口が、丸井が、五十嵐が、ほかにも愛おしいすべてのキャラクターたちが、コマのなかでバットを振り、白球を投げる、もうそれだけで涙がはらはらと頬をつたって止まらないのです。 これが映画だったらどうか、小説だったらどうか、あるいは、大友克洋の出現以降おそろしいまでの発展を遂げた現代のマンガだったどうか。どれをとってもこの感動は生まれないと思うのです。白と黒の線とコマで描かれた「記号」の集積物としてのマンガ、このもっとも基本的であり、もっとも美しくもあるマンガ本来のスタイル、これだからこそ為しえた奇跡だと思うのです。手塚治虫いらい編み出され共有されてきたマンガ的記号、この幾ばくかの記号のうち、ちばあきおが好んで使用したものをコージィ城倉が受け借りてここに再現する、これをマンガ的感動と言わないで何と言えばいいのでしょうか。プレイボール2コージィ城倉 ちばあきお12わかる
影絵が趣味2017/08/12現実世界に揺さぶりをかけるたとえば、いまここに会議室があり、黒いスーツを着た男が6人、大きな四角いテーブルを囲んで、やれ何が正解だ、これが正解だ、いやそれは違う、と不毛な言い争いをしているとする。6人の意見はまるで嚙み合わず、それぞれの手元に置かれたコーヒーカップの中身もなくなろうとしている。 それはもしかすると、ありふれた光景なのかもしれない。 しかしウルトラヘヴンを読んでいると、そんなありふれた光景がなにか異様なものに思えてくる。いや、一周まわって、かえってありふれた光景にもどるというべきか。 6人の意見が嚙み合わないのは、それぞれが違ったものの見方をしているからとみて、たぶん間違いはないだろうと思う。そう、6人が6人とも違った見方で世界を捉えている。 さて、言い争いがヒートアップしてきたようである。ひとりの男が椅子から立ち上がり、テーブルを両の手のひらバンッと叩いた。向かいの男も立ち上がり、手振り身振りをまじえながら、喧しく声を荒立てる。隣の男が宥めにかかるが、それがかえって火に油を注いだようである。その手を乱暴に振り払った。その拍子、コーヒーカップが床に落ち、パリンッと音をたてて粉々に割れた。 手を振り払った瞬間、男にはコーヒーカップが見えていなかったと言わざるを得ない。コーヒーカップは確かにそこにあったのに……。なにもドラッグで視界がグニャグニャに歪まなくても、在るものが無かったり、無いもの在ったりするのは日常茶飯事のことなのだ。各々が(それは人間であっても動物であっても虫であっても地球外生命体であってもいいのだが)各々の目で、脳みそとかそれに準じた器官を通して、世界をみているにすぎないのだ。 いまここに会議室があり、黒いスーツを着た男が6人、大きな四角いテーブルを囲んで、やれ何が正解だ、これが正解だ、いやそれは違う、と不毛な言い争いをしているとする。6人の意見はまるで嚙み合わず、それぞれの手元に置かれたコーヒーカップの中身もなくなろうとしている。 はたしてそれは本当に目のまえに存在しているのだろうか。少なくとも人間である私たちにそれを確かめる手段はない。それは神のみぞ知るところである。ウルトラヘヴン小池桂一5わかる
影絵が趣味2017/08/05谷口ジローの文体小説を言い表すのに文体という言葉があるが、これは小説にかぎったことではなくて映画にも漫画にも文体はある。ここでいう文体というのは単に文章の持つ調子のようなものではない。作者がどのように世界を見ているか、という問題としての文体である。つまり、どういうふうに書かれるかというよりは、何が書かれるかということに直結してくる。 してみると映画の場合の文体は、カメラが何を映すかというになってくる。映画というのは製作者の役割が分業されていて、たとえば脚本と監督がちがう場合がほとんどである。それでいて、その映画は誰がつくったものなのかということになると、そこには監督の名前がくる。それは当然で、映画の文体を握っているのが監督だからである。監督は脚本通りに撮影を進めていくが、そこで何をカメラに映させるかのすべては監督にかかっている。 漫画の場合の文体は言わずもがな、何が描かれているかである。ようするに、谷口ジローの漫画を読む私たちは谷口ジローの目を通してそこに描かれる世界を見ることになる。ところで谷口ジローはいまや日本を飛び越えて世界に愛される作家であるが、世界は谷口ジローの何に魅せられているのか。漫画作家としては珍しく谷口ジローは原作をおくことが多い。つまり、世界の谷口ファンはストーリーに魅せられているのではない、谷口ジローの世界の捉え方、すなわち文体に魅せられているのだ。坊っちゃんの時代谷口ジロー 関川夏央1わかる
影絵が趣味2017/08/05吉祥寺という街この漫画のなにが素晴らしいって、作者のいしかわじゅんが実際に骨をうずめている吉祥寺という街が舞台であり、その街の模様が住んでいる者の目で丹念に描かれているからだと思う。 我々が人間が、やれ小説だ、やれ映画だ、やれ漫画だ、といくら物語をつくってみたところで、それは現実という名の途方もなく巨大な氷山の一角にすぎない。しかし、この吉祥寺キャットウォークという漫画を読んでいると、ふいに、なにかボロッと、物語の下にひっそりと佇む巨大な山脈の一端を覗いてしまったような気持ちになるのだ。それは物語と地続きでありながら話には描かれない吉祥寺という街の風景のなかで日々起こっている無数のストーリー。それは別に人間でなくて猫でもいいし、吉祥寺に生えている街路樹の四季の移り変わりでもいいのだ。吉祥寺キャットウォークいしかわじゅん2わかる
影絵が趣味2017/08/05詩と哲学魂の詩人こと坂口尚のおくるSF冒険活劇。 短編では漫画で詩を描くという前代未聞の試みを大成功させ一躍孤高の人になり、これがもうほんとうに凄まじい、色のない白と黒の漫画から色彩がほとばしり、部屋で読んでいながらそよ風がふわりとよせて、しかも草の匂いまでただよってくるという……。 そんな魂の詩人が長編を描いたらどうなったかといえば、哲学になった。詩と哲学はコインの裏表とよく言われるけれど、その言葉に反せず、白と黒のコマの連続がグイグイと真理に迫っていく。詩に書かれたものとは真理そのものであり、哲学とは真理に至る過程である。描かれた人物や風景はほとんどその意味を失って白と黒とに回帰していき、しかし、そのギリギリのところでかろうじて物語がすすんでゆく。VERSION坂口尚5わかる
影絵が趣味2017/07/15夏といえば山本直樹タイトルに関係なく山本直樹のマンガを読むと夏のことを思い出します。 墓参りのこと、終戦記念日のこと、飛行機が落ちた日のこと、甲子園のサイレンの音……。そう、山本直樹のマンガを読むと、真夏の炎天の途方に暮れる感じを思い出すのです。 思えば、彼の代表作にいっきにのし上がった『レッド』にしても、学生運動や内ゲバのむさ苦しい感じが坦々と描かれている。あさま山荘に至るクライマックスは冬ですが、それすらもいまから振り返ると、なにかこう、夏の途方もない雰囲気を帯びているように思われるのです。 夏といえば山本直樹。夏に読みたくなるマンガNo.1。夏の思い出山本直樹1わかる
影絵が趣味2017/06/17そして人生はつづく細い道、バラの垣根、四段の石段、平凡な木製ドア……。 子どもの頃、くりかえし夢に見た家をさがして、どこまでも、どこまでも。 彼(彼女)は、夢と現実の境界を越えるようにして、男性と女性の境界を越え、生と死の境界を越え、ときには天と地の境界までを曖昧にしてみせる。こうして境界を次々に越えて、どちらのものともつかなくなるそのたびに、彼(彼女)は自由になり次の幕があがる。そして人生はつづく、どこまでも、どこまでも。つるばら つるばら大島弓子1わかる
影絵が趣味2017/06/10バタアシ金魚の続編です。バタアシ金魚の続編です。 バタアシ金魚の頃から一貫して描かれているのは「追う・追われる」⇔「追われる・追う」の関係性。これは男女関係におさまらず人生のあらゆる局面に露呈する公式のようなものではないでしょうか。 何はともあれ、追いかけたり追われたりしているあいだは人生はつづくのです、あるいは人生を描く物語にしても同様でしょう、追いかけたり追われたりしているあいだは物語はつづくのです。たとえば、どこまでも逃げつづけるルパンと、どこまでも追いつづける銭形、この二人の関係はほんとうに美しいですね、ときに愛のようなもの感じることすらあります。この美しさは二人が"どこまでも"「追う・追われる」ことからくる美しさに他ならないでしょう。 ところで、バタアシ金魚は完結というにはあまりに中途半端な終り方をして、お茶の間にいたっては堂々と未完としています。これは「追う・追われる」⇔「追われる・追う」の関係性が崩れ去れば物語が停滞してしまうことを作者が直観していたからではないでしょうか。名誉ある未完、あるいは未完であること運命づけられた作品というのは時々出てくるものですが、そういった作品は後世に読み継がれることが多いように思います。お茶の間望月峯太郎
影絵が趣味2017/06/03ネタバレカレカノは光り輝く!県内随一の進学校で繰り広げられる彼氏と彼女のあれこれ。努力家の優等生である雪野と、本物の優等生である有馬、これが本当に残酷なんですね、努力なんかでは到底埋めることができない圧倒的な家柄と毛並み、なんせ有馬家はエリート一族として代々積み重ねてきたものの年月が違う。でも、そんなふたりを結びつけるのは、どうやら「光」と「闇」という属性の違いらしい、陰陽というものはやっぱり2つで1つなんですね。それにしても、こんなに残酷な少女マンガが他にあったでしょうか。残酷なだけでなく、どうしようもないまでに不条理でもある。なぜって超エリートの有馬は医大に進まず、高卒で警察官になってしまうのだから、そのいっぽうで妊娠して進学を諦めていた雪野は出産後に医大へ進むという……。こんなにも残酷で不条理で、でも、こんなにも愛おしく光り輝くマンガが他にあったでしょうか。彼氏彼女の事情津田雅美7わかる