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影絵が趣味
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2019/12/14
いま、ここで何かが動く ~流動する田島列島~
寡作故に何年も前から要注目の新人であり続ける田島列島選手もとうとう単行本が3タイトルになりました。そろそろ傾向といいますか、作家性がみえてきそうな気がします。 まあ、とにかく、留まることが嫌いなひとなんでしょう。生まれついて付与された性別からして変えてしまうひとが毎度登場するのも、毎度のこと親が突然家から出ていってしまうのも、まずテコでも動かなそうなものから率先して動かしてやろうとする気概がみられます。 今作も、まあ、いきなり不倫からの幕開けで、しかも、不倫された奥さんが不倫相手のアパートを訪ねに行く。さらに本妻が訪ねて来るというので同居人の姉さん(不倫相手)が家から出ていってしまうのが主人公の妹の境遇なわけです。もう初っ端から動きまくり。そして、はじめはこの事態を「昼ドラ」と形容して、一歩引いた目線で傍観していた妹がこんどは、くりかえし訪ねてくる本妻に心を動かされて、自らアクションを起こす。ただ受け身でいるのが嫌だといって自分のほうから積極的に奥さんに働きかけるんです。この「ただ受け身でいるのが嫌で自分のほうから積極的に働きかけようとする瞬間」こそが田島列島マンガにおける決定的な動きなのではないかと睨んでいます。 ひとというのはどう足掻いても外的作用からは逃れられない受動的な生き物ですから、積極性を発揮するといっても、けっきょくは何かを受けての積極なわけです。せいぜい外的作用の決壊を防ぐために土嚢を積むことしかできないといいますか、攻撃のない野球みたいなものですね。ピッチャーがどんなに踏ん張って最高のパフォーマンスをみせても、せいぜいゼロか失点によるマイナスしかないわけで、これでは試合は動きません。田島列島には、このテコでも動かない受動的な状況をどうにかしてでも覆してやりたいとする気概がみられるんです。 ただし、この転覆は極めて難しい。だからこそ、せめて、そのほかのものだけは自由に動けるようにしようとする。これはインタビューで言っていましたけど「キャラが勝手に動く」という言い方をされている。たしかに自分でキャラの動きを先に規定してしまえば、作者本人からしてみればキャラがそこでは自由に動きまわれない不自由が生じることになる。だから、しばらくのあいだ、キャラが自分から自由に動いてくれるのを待つ。それ故の寡作なのかもしれません。そうして待つことで、いま、ここで何か動くのを最前線で捉えようとしているんです。 あとは台詞、というか言葉についてもかなり辛辣な姿勢がみられます。田島列島マンガのキャラたちは互いに言葉を介そうとはしないんです。だからいつだってセリフは間の抜けたギャグのようになり、発した言葉は相手に届かず、会話は常に両者のあいだの宙を空転している。これも留まることが嫌いな田島列島ならではの仕様といいますか、感情というのは常に複雑に流動しているものなのに対して、言葉を発するというのは、そのとりとめのないものを無理やり型にはめるような作業なので、田島列島マンガのキャラは誰も言葉なんか信じてはいない。ただ、それでも、それでも、言葉を伝えなければならない瞬間というのはどうしてもある。『子供はわかってあげない』がそうだったように。ただ、好き、と言っても、それは胸の苦しくなるようなバカでかい感情を小さな型に無理やりはめただけでそれでは嘘になってしまう。ナンセンスなんです。それは朔田さんも重々承知なんです。だからこそ、その一言がなかなか口をついて出ない。でも、それでも、せいぜいゼロかマイナスしかなくても伝えなければならない瞬間があるんです。まさにそのとき、田島列島マンガで何かが動いている。テコでも動かないような何かが動いているんです。
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2019/12/14
あまりにも強靭な物語は物語を止めて自然に還る
物語をひとつの凝固した結晶のようなものに例えるならば、物語ならざるものは水とか空気とか流動的で不定形なものに例えられるでしょう。 『はなしっぱなし』での商業誌デビュー以来、『そらトびタマシイ』、『リトル・フォレスト』、『カボチャの冒険』など、五十嵐大介はいちおうマンガ家という身分でありながら、物語の外へ外へと行こうとする傾向、物語ならざるものを描こうとする傾向があったように思います。それはペンタッチにも如実に顕れていて、一級の物語を量産した手塚治虫のガチッとしたペンタッチとは正反対に、絵がどこかへ漂いでてゆくかのような不定形なペンタッチをしています。まるで霧みたいな絵ですよね。 そんな五十嵐大介がはじめて物語と向き合ったのが『SARU』なんだと思います。猿、すなわち『西遊記』の孫悟空。いまも形を変えながら広く世界中で読まれ続けている中国四大奇書の『西遊記』は、三蔵法師が天竺を目指して旅をする明時代に成立した長編小説ですが、いまひとつ著作者がわかっていない。つまり匿名の物語なんです。物語の匿名性については狩撫麻礼の『オールド・ボーイ』にも詳しく書いたのですが、匿名の『西遊記』はしかし、実在したといわれる唐時代の僧、玄奘三蔵が記した地誌『大唐西域記』を基にしている。『西遊記』は『大唐西域記』の史実に則りながら、玄奘三蔵が旅した各地に伝えられた三蔵や猿にまつわる逸話を無数に盛り込んで、虚実入り乱れる一大伝奇小説に発展していったものなのです。 おそらく五十嵐大介はある時に気がついた、物語の外へ外へ行こうとするばかりではダメだということに。そこで物語の内部に入り込んでみた。すると物語はマトリョーシカのような入れ子構造になっていた。『西遊記』の基に『大唐西域記』があり、『大唐西域記』の実際の旅の行程が各地に伝説を残し、その残された伝説を吸収して『西遊記』が膨れ上がるといったように。 入れ子をひとつずつ外して内部に侵入するたびに匿名性が膨れ上がる。そして、ついに究極の匿名性に至ったとき、物語は作為的に凝固するのを止め、水や空気のような流動的で不定形な自然に還る。この自然を五十嵐大介は『SARU』で実現してみたかったのではないでしょうか。さらに『SARU』での試みは『海獣の子供』にも伝承という形で受け継がれていると思います。
影絵が趣味
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2019/12/07
関くんの営みは仏の悟りに近づきつつある
ブッタの教えに「自分自身より、あなたの愛情を受けるに値する人は、この宇宙どこを探してもいないのだ。あなたこそ、あなたの愛情に値する人間なのだ」という言葉があります。つまり、他人から愛されるより、まず自分で自分を愛そうということなのですが、まあ、ブッタが教えを説くからには、これはなかなか簡単なことではないのでしょう。 実際、ひとという生き物は能動的であるより受動的であることを選びがちな気がします。とはいっても、ひとはありとあらゆる外的影響を受けながら生きているのですから、真の能動というのはあり得ず、能動的になろうと努めることしかできないのかもしれません。つまり、気合いといいますか、それは心意気の話になってくるかと思われます。 話を戻せば、他人に愛されるより、自分で自分を愛すという能動的な行為はやっぱり難しい。自分で自分を認めてあげるというのは本当に難しいことだと思います。どんなに自信に満ち溢れているひとでも、案外、他人から認められた経験から、それを自らの自信と勘違いしているひとも多いでしょうし、何なら他人からわかり易く認められるために日々の行為を選択していることも多々でしょう。しかし、それは能動的に行為を選択しているのではなく、じっさいにはそういった行為を選択させられているんです。 さて、それにつき、関くんの営みは、どう考えても誰かに認められるための行為ではありません。なんなら誰からも見られないように、こっそりと隠れて行われる。彼のこの隠れた能動性こそが、まさしく自分で自分を愛することなのではないでしょうか。さらにさらには類は友を呼ぶというのか、横井さんもやっぱり能動的な存在なんです。関くんが一人遊びに命を賭けているのなら、横井さんもまたそれを見るのに命を賭けている。見るという行為、これは実はとても大変な行為なんですね。目をひらけばものはみえてしまうわけですから、見るという行為は基本的には受動的な行為なんです。これを能動に転じさせるにはやはり飽くなき鍛練が求められることでしょう。横井さんも気合いといいますか、心意気といいますか、強いハートをもっている。ちらちらと目に入ってきてしまう関くんの営みを、あくまでも見させられるのはなく、自らの目で能動的に見てやろうといつも果敢に挑んでいる。だからこそ彼女は関くんの一番の天敵でありながら、関くんの一番の理解者ともなり得るわけです。
影絵が趣味
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2019/11/30
二次元でも三次元でもなく、ど次元!!
漫画というのは二次元+一次元(コマの挿入による時間の推移)で出来ています。しかし、私たちの日常生活は四次元として展開されていますから、漫画もそれに即していかなければ、リアリティのある物語を描くことができません。そこで漫画の本来の領分であるところの二次元に補助として光学を採用する、すなわちデッサンです。これにより漫画は、平面上にかりそめながら立体を再現することが出来たということになります。 はい、何を当たり前のことを言っているんだろう、という感じですが、諸星大二郎に限っては、この当たり前が当たり前ではなくなってしまう。何しろ、タクシーのなかでさえデッサンが寸分も狂わなかったと言われる手塚治虫、大友克洋が出てきたとき「あんな絵は僕にも描けるんです」と豪語した手塚治虫が「諸星くんの絵だけは真似できない」と言っているのですから。 つまり、諸星大二郎は他の漫画家のように二次元+光学の補助という絵の描き方をしていないんですね。『栞と紙魚子シリーズ』はそれがもっとも顕著なんですけども、彼女たちの暮らす胃の頭町(いのあたまちょう)はなんかよくわからないけど異界に通じているらしい。その異界の異界ぶりをもっともよく表しているのがクトル―ちゃんのお母さんですよね。あの顔の目茶苦茶でかいお母さん、あれはどう考えてもデッサンでは描けない。あの顔で、いったいどうやって段先生のボロ屋に収まっているのやら。もしあれをデッサンで描こうものなら、それこそ二次元でも三次元でもない空間の捻じ曲がった異界が爆誕してしまう。というか、この爆誕してしまった異界こそが諸星大二郎の絵なんです。 とくに栞と紙魚子が姿のみえない首輪だけのペットを散歩させる回は秀逸でした。ペットに引っ張られて段々と異界に迷い込んでゆくわけですけど、その行く先のエステサロンにクトル―ちゃんのお母さんがいる。お母さんは「あら~、こんなところでお目にかかるなんて珍しいですわね」とか何とか言って、エステのマシーンから引き伸ばされたうどんみたいな姿で出てくるんです。もう、何がなんだかわからないでしょう。でも、これを大真面目に描いてしまうのが諸星大二郎なんです。
影絵が趣味
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2019/11/23
手塚治虫の迷宮
手塚治虫、本当に恐ろしいひとです。いちど迷い込んだがさいご、たぶん死ぬまでこの迷宮とお付き合いしなければならない。そもそも、手塚のライフワークだった『火の鳥』ひとつだけにしても壮大な迷宮なのに、周辺作品から辺境作品まで、なにしろ数が膨大すぎる。 私は『ブラック・ジャック』以降(劇画ブームに押されて人気を失っていた手塚がブラック・ジャックをきっかけに再評価される)の作品から手塚に入門したクチですけども、だいたい再評価とかそういうのは普通は本人が死んでから成されるものだと思いますが、手塚は稀有なことに生きているうちから古いものと見なされ、またしばらくして手塚はやっぱり凄かったと言われるわけです。その仕事ぶりから超人のように言われること数多ですが、じっさいに常人ではまず不可能なことに人生を二回転もしてしまっている。 私も後期の手塚からふらふらと迷宮に迷い込み、あるとき、ひょんな抜け穴から彼の初期作に触れたんですけども、まあ、腰を抜かすほど驚いた。それこそ人生を二回転して生まれ変わったような衝撃を受けたんです。まず『メトロポリス』もそうですけど、絵が驚くほど巧い。どのコマも一枚画として額に入れて飾りたくなるぐらい構図が精巧としていて、細部の曲線はペンの抜き差しひとつびとつに色気を感じるほどの。後期の手塚が物語の経済性と重層性を重視するためにやむなく捨てたものがここには宝石のように遺っていたんです。しかも、ただ巧いというだけではない。そこには苦渋の跡、困難の跡、混沌として不都合な現状をより良くして行こうとする軌跡がみられるんです。後期の手塚は自身の形作ったマンガの記号体系を経済的に活用して重層的な物語を量産していきましたが、初期の作品には新しい制度をイチから築いていこうとする、いままさに未知の何かが生まれようとするスリリングさがあります。それこそツルハシで洞窟を掘って探検していくかのような過酷さと冒険者的なロマンがある。 手塚治虫の迷宮に迷い込むことをオススメします。過酷で、それ故にやり甲斐があり、何よりめちゃくちゃ面白いのですから。
影絵が趣味
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2019/11/23
マンガを読んでいる時間にしかマンガは存在しない
『神童』とそれに続く『マエストロ』で、文字通り音楽漫画のマエストロになったさそうあきらですが、長年に渡り疑問に思っていたことがあります。さそうあきらを筆頭に『のだめカンタービレ』の二ノ宮知子や『BECK』のハロルド作石らの描く音楽漫画はどうしてここまでひとの心を打つのか、ということについてです、肝心の音楽は実際には耳に聴こえないのにもかかわらず。 この謎をひとつ解き明かしてみようではないか、ということで、数年ぶりに『マエストロ』を読み返してはみたものの、まあ、最後のコンサートではボロボロに泣いてしまったんですけど、謎は謎のまま残ってしまいました。 ただ、ちょっとヒントになりそうな台詞が作中にありました。 「音楽って切ないね」 「今確かに美しいものがあったって思っても、次の瞬間には消えてしまうんだ」 「川の、流れのように―――」 「だからこそ、愛おしい―――」 「大切に思うんだ」 つまり、音楽は音楽を聴いている時間にしか存在しないけれども、マンガもマンガを読んでいる時間にしか存在しないということ。この不可逆性、このマンガというコマのうねりと連なりをひとつびとつ読んでゆくことの幸せを今日も逃すことなく噛み締めようと思う次第なのでありました。
影絵が趣味
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2019/11/16
顔面の圧で押し切る!
山田芳裕の作家性ついては、幻にして伝説の未完作品『度胸星』のたったひとつだけで信用に足る漫画家だということが分かります。およそ漫画にかかわらず、ありとあらゆる作品と呼ばれうるもので、いくつもの世代を超えて読まれ続けているものには不思議と未完作品が多い。なぜ未完なのか、ということについては、作者の死と、それ以外の理由とにわけることができると思いますが、どちらにしても、あまりにも無謀で途方もない挑戦をしたがために完成が無限に遠ざかっていったということが言えると思います。その意味で『度胸星』は、ほんの一瞬でもその途方のない遥か遠方を垣間見させてくれたというだけで素晴らしい作品であることはまちがいない。しかも、山田芳裕はその果敢な挑戦を気合ひとつでやってのけたのです。 そう、山田芳裕のマンガはとにかく気合の入り方がちがう。問題の有無や大小にかかわらず、とにかく気合が入っている。なんだ気合か、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これが実はなかなか容易ではない。どうしても、ひとというのは、何らかの効果を狙った手段を投じることで、問題を問題解決に導こうとする習性があるように思われます。つまり、どうしても語りが二義的で説明的になってしまう。それにつき山田芳裕のマンガにはまず気合の入った顔面がある。「目は口ほどにものを言う」という言葉がありますが、何よりもあの顔面がすべてを物語ってしまっているんですね。何かの効果のある手段といった副次的な語りを追い越して何よりもまず、あの顔面が最前線ですべてを物語っている。 『へうげもの』に話をうつせば、私たちは安土桃山時代の数寄者ではないのですから茶のことはよくわからない。それでもとにかく古田織部の毎度のこと驚愕する顔面をみれば、何かヤバイことが起きているとすぐに察知することができるのです。そして何より、稀代の怪人、千利休を顔面として描き切ったことの素晴らしさよ。けっきょくのところ、何を考え、何を為したひとなのかがよくわからない千利休、何なら楳図かずおの『イアラ』のように何千年も生き続けていると言われたほうがしっくりくるあの千利休をありのままの顔面として描き切ったことは『度胸星』の挑戦にも並ぶチャレンジだったのではないでしょうか。
影絵が趣味
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2019/11/09
-(マイナス)×-(マイナス)=+(プラス)
よく「動物を擬人化させたマンガを描くひとは捻くれ者だ」と言われることがありますけど、なかなか本質を突いた言葉だなぁと思います。動物ではないですけど、実はアンパンマンなんかはかなりグロテスクですよね。それを戦中餓死しかけたこともあるというやなせたかしさんが描いたとなればこと尚更。まあ、おそらく、そういうひとたちは人間の目線では物事をみていない。というのは人間に絶望しているのか、人間が嫌いなのか、それはわかりませんけども、とにかく人間の外側からの目線を獲得したいという強烈な意志を感じます。 いがらしみきおも擬人化動物マンガを描いたひとりですけども、『ぼのぼの』は凄まじいです。第一話目からいきなり、ぼのぼのがただ川を流されてゆくコマが四つ続くという過激さ。起承転結という四コマ漫画の定石をまるで無視して四コマとも何も起こらない。ただ、ぼのぼのが川を流されているという事実だけが浮き彫りになる。この何も起こらなさを過激と捉えてしまうのは人間の目線でものをみているからなんでしょうけど、ぼのぼの以前のいがらしみきおは全人類を燃やし尽くすかのような過激でブラックなギャグをやっていたひとですから、やっぱり衝撃なわけです。 しばらくの休載期間を経てはじまった『ぼのぼの』ですが、休載期間に何か転機があったのか、おそらく、否定に否定をどこまでも重ね尽くしたひとにしか到達できないある種の肯定に辿り着いたのだと思います。まあ、菩提樹の下で悟りを開いたブッタのようなものです。 そして『ぼのぼの』で悟りを開いて、しばらく山籠りしていた仙人が俗世に下りてきたのが『Sink』や『I』になるかと思います。だから『ぼのぼの』の過激さがもっと分かりやすく描かれている。動物ではなく人間ですからね。といっても『I』ではほとんど動物めいた人間がおぞましく描かれている。そういう意味ではジョージ秋山の『アシュラ』に近い作品なのかもしれません。『アシュラ』も『I』も醜さや穢らわしさが一周まわって何か神聖めいた肯定的なものにみえてくる。この「一周まわって」というのがとても重要なことのような気がします。
影絵が趣味
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2019/11/09
律儀で骨太な演出
何を隠そう、影絵が趣味さんは、この宗像教授シリーズが大好きで大好きで仕方ありません。「なんでそんなに好きなのか」という問には、とにかく面白いからとしか応えようがないんですが、同じく手塚賞でデビューしていらい盟友として、あるいは切磋琢磨するライバルとして星野之宣と並べられることの多い諸星大二郎、彼のマンガも大好きなんですが、同じ民族学を題材にするマンガ家同士といっても好きの種類がどうも違うような気がするんです。 諸星大二郎はすっとこどっこいといいますか、あの無茶な演出がバカバカしくて好きなんですけど、星野之宣はというと、ひたすら律儀で骨太な演出を淡々と積み重ねてゆく。たぶんそこが好きなんですね。宗像教授シリーズは短編連作としてかなりの巻数を重ねていますが、毎回〃〃もの凄く面白いものを読んだなぁと深い後読感が残るんですけども、何を読んだのかと言われるとアレ? となってしまう。というのは内容が伝綺とか伝説だからなんでしょうけど、読んでいるあいだは律儀で骨太な演出に引き込まれて興奮しながらページを捲ってしまうんですね。これがもの凄い。 諸星大二郎については語ろうと思えばいくらでも語ることができると思うんですが、星野之宣はというとこんなに面白いのに何故か口吃ってしまうようなところがある。これがいつも不思議なんです。ひょっとすると星野のマンガはある種の透明性に達しているのかもしれません。
影絵が趣味
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2019/11/09
大法螺吹の奏でる音楽
島田虎之介、まず名前がとてもいいですね。 月刊ガロのあとを継いだアックスからデビューしている曲者なんですが、このひとはおそらく、資質的にはガロというよりは手塚治虫が主催したコムよりの正統派作家なんだと思います。白と黒のコントラストが特徴的な硬派なコマ作りもそうですし、何よりコマ作りにある種の照れがある。この照れというのは手塚治虫のヒョウタンツギを筆頭に、コム出身者は吾妻ひでおのパロディに受け継がれたような照れのことです。この方向性は、ガロのつげ義春を筆頭に身辺雑記的な小さな世界からマンガの境界線を探索しようとしたひとたちとはまったく異なるものだと思います。 そして何より、島田虎之介のマンガはとにかく風呂敷をひろげまくる。しかも、あたかも歴史的事実であるかのようなコマ内に出てくる情報がふつうにとんだ嘘であったりするんです。すなわち夢と希望にあふれているといいますか、冒険者的な突拍子のなさがあるんです。 まあ、とっつきにくい絵ではありますので、島田虎之助の入門編といたしましては、ブルボン小林名義のマンガ評論でも知られる小説家の長島有が主催した『長島有漫画化計画』のなかの『猛スピードで母は』がおすすめです。なお『長島有漫画化計画』には他にも、 萩尾望都「十時間」 衿沢世衣子「ぼくは落ち着きがない」 カラスヤサトシ「夕子ちゃんの近道」 100%ORANGE「女神の石」 よしもとよしとも「噛みながら」 フジモトマサル「ねたあとに」 陽気婢「エロマンガ島の三人」 小玉ユキ「泣かない女はいない」 うめ「パラレル」 島崎譲「THE BUNGO」 吉田戦車「ジャージの二人」 オカヤイヅミ「佐渡の三人」 ウラモトユウコ「サイドカーに犬」 河井克夫「タンノイのエジンバラ」 ら、埋もれさせるには勿体ない作品ばかりが目白押しですので是非ともゲットしていただきたい。