BLUE GIANT

読むと体が熱くなってきて上着を脱いでしまう漫画

BLUE GIANT 石塚真一
吉川きっちょむ(芸人)
吉川きっちょむ(芸人)

読むたびに体温が上がる!! 必死に、とにかく必死に世界No.1ジャズプレイヤーを目指す自分を信じてアルトサックスを吹いて吹いて吹きまくる! ある日友達に誘われて見に行ったジャズライブでジャズにどハマりし、自分もプロのジャズミュージシャン目指してアルトサックスを始める高校生の宮本大。 夏も冬もどんな日だって必死に、とにかく必死に世界No.1ジャズプレイヤーを目指す自分を信じてアルトサックスを吹いて吹いて吹きまくる! いま世の中で一番アツいマンガといっても過言じゃない! そのアツさで読むだけで体温が2度は上がるのに、面白さにゾクゾクして鳥肌は立ちっぱなしの体の大矛盾! 静かでアツく、そして織り成す人間ドラマの前にただ涙するだけなのです! ライブシーンなんて圧巻で、その凄まじさに不思議と耳の奥と皮膚がビリビリする! 初ライブで文句言ってきた酔っぱらいオヤジに、練習しまくって力を付けて再び演奏を聞かせて「ギャフン」と言わせ上京を決めるシーンの良さったらもう! 読むと、「頑張ろう、まだまだ自分にはやれることがある!」と思わせてくれる素晴らしいマンガ!!

前略、前進の君

高校生の繊細な感情を撫でるような作品

前略、前進の君 鳥飼茜
吉川きっちょむ(芸人)
吉川きっちょむ(芸人)

しん、と空気が冷えた部屋で隣近所が寝静まった真夜中に読みたいなと思った。 もしくは早朝の誰もいない公園のベンチ。 この漫画には、十代の純粋で無邪気で困惑していて憧れて焦って嫉妬して絶望するような息苦しさの中でもがく美しさがあった。 誰かに無遠慮に無関係に傷つけられても本来文脈の無いそこで悲しむことはないんだけど、そんなこと言われたところで意味は分かっても飲み込むのは大概難しい。 同調圧力は、自分が最も毛嫌いしていることの一つで、どこかのだれかが「普通」を免罪符にお前はどうなんだと脅してくる。 「普通」であることは何も偉いことではないし、安心することでもないが、何か縋りつける指標でもないと安心できないというのも分からないでもない。 自由を生きるのは恐ろしいものだ。 制服を脱ぎ捨て自分を生き始める前、既製服に包まれ親や学校に守られている間、大多数が現状と自分の未来に不安を抱き「普通」を求める。 人によっては、その後もずっとだ。 高校の頃、自分が何を考えていたのか少し思い出せた気がする。 いまの高校生が読んだら、具体的にこれと言葉にできなかった不安や焦燥、哀しみを自覚できるのかもしれない。

イエローバックス

火の作家、高浜寛

イエローバックス 高浜寛
影絵が趣味
影絵が趣味

夜、わたしは住宅ひしめく町の、とあるアパートの一室に居て、部屋の電気をパチッと落とす。部屋はまっくら闇になる。それから蝋燭に火を灯してみる。周囲がぽわーんと仄かにあかるくなる。火の種は微かに揺れて、それに合わせるように周囲のあかるみも微かに揺れている。 高浜寛のマンガは、そんな揺れうごく火の種から、さながら幻影のように浮かび上がってくるかのようである。 わたしたちは日頃、何の疑問も持たずに、白い紙に黒い線で描かれたマンガなるものを読んでいるが、まず光の問題というものがある。目は、眼球というものは、光を通してでなければ対象をみることができないのだ。あるいは心の目にも似たようなことがいえるかもしれない、まず観照という光があり、それに照らされてはじめてイメージが浮かび上がる、照らされなければそこには闇が蠢いているばかりである。しかし、この闇というものからしてすでに光の生産物ではないか。光があればこそ、そこには闇があるということがみえる。光の前では、闇すらもそこらじゅうの対象と何ら変わりなく照らされるものでしかない。そうであれば、実は、光と闇は二項対立ではないのではないか。光と闇があるのではなく、まず、光がある。闇はその光により照らされてはじめて見られるものとなる。では、その光はどう見ればいいだろう、その光を照らす光はないのである。つまり光それ自体はどうしても見えない。光に照らされた対象をみることで、間接的に光を感ずるほかないのである。 マンガとは、ひとつにイメージの具現化である。イメージそれ自体と、描かれて具現化されたものとは当然異なってきてしまう。もっといえば、描かれたものと、読まれてイメージされたもの、これも当然異なるものになる。しかし、イメージしたものをありのままの姿で具現化したいというのが作家の本心ではないだろうか。そして高浜寛の場合は、その具現化したいイメージそれ自体に、まずイメージが光によって照らされて結ばれるまでの過程が含まれていたのではないか。高浜寛のあの特異性、黒い頁からコマが浮かび上がってくるかのようなマンガの描き方、なぜ高浜寛がほかに類を見ないこのような描き方をしているのかは、ひとえにまず光があるという問題から来ているのではないか。