カテナチオとはイタリア語で・・・
鍵という意味で、1950-1960年代にイタリアで流行した堅守速攻サッカーの戦術です。 そのタイトル通りで、主人公がディフェンダーでさらにセンターバックという珍しい設定の漫画です。 サッカーの才能がある人はもれなくフォワードかミッドフィルダーですよね。 凡人が天才に勝つには、同じポジションで勝負をしてもダメでデフェンスになって天才達を潰すというのが生きる道です。 最近はいろんな設定のサッカー漫画があって非常に楽しいです。
『ヤンジャン』で最近始まった2つのスポーツマンガが「天才」と「凡才」を描いた物語として対をなしており、どちらも非常に面白いです。
片方は『ダイヤモンドの功罪』。そして、もう片方が昨日1巻発売となったこの『カテナチオ』です。『ダイヤモンドの功罪』は既にSNSでもかなりバズっていますが、『カテナチオ』も単行本発売を機にもっともっと盛り上がって行って欲しい作品です。
圧倒的な天才を描く『ダイヤモンドの功罪』に対して、『カテナチオ』の主人公・嵐木八咫郎(あらきやたろう)は1P目から
″才能とは、美しさだ
才能のない俺は、醜い
それでいい″
と吐露する圧倒的な凡才です。いくら努力しても、「天才」と呼ばれる人種には届かないと自覚しています。それでも、八咫郎は尋常ではない勝利への執着心と「10年以内に欧州のビッグクラブに移籍して欧州の頂点を獲るために人生を捧げる」という高過ぎる目標を持っており、またそれを実現するために1秒も無駄にしないように必要なすべての努力を断行する狂気的な精神力も持っていました。
そんな彼が、元々のポジションであるトップ下から
″CB(センターバック)とは
サッカーの神に愛されなかった凡人が
持てる「すべて」で
才能を握りつぶす場所を言う″
と定義されるセンターバックにコンバートされ、躍動していく物語となっています。
面白いのは、『ダイヤモンドの功罪』では主人公がただ楽しみたいのに天才であるが故に勝利に拘る環境に身を置かせられてしまい周りを狂わせ孤立していくのですが、この『カテナチオ』においては八咫郎は凡才ではあるものの勝利に拘りすぎるあまり周りに理解されず孤立していくという、非常に対照的でありながら相似の構造になっているところです。八咫郎もサッカーセンスは並ではあっても、目標に向かって努力を続ける才能で言えばある意味で突出していて天才的なので軋轢が生じてしまうのは必然ではあります。
ともあれ、弛まぬ努力に加えてダーティな手段をも厭わず天才に抗っていく凡才主人公というのは珍しく、そもそもサッカーマンガで守備的なポジションの選手が主人公である作品も少ないので、数多のサッカーマンガがある中でも新鮮な楽しみを覚えられます。弱者が圧倒的な強者を倒すのは純粋にワクワクしますしね。
また、上手く行う反則はプロの間でも当然のテクニックであることや、観戦を前提としたスポーツとして抱える難点などサッカーという競技の本質的な部分にも肉薄していくところも面白いです。これが他のもう少しクリーンなスポーツだと違うと思うのですが、ある程度のダーティさが第一線でも許容されているサッカーであるからこそ、そこまで主人公へのヘイトも溜まらず成立する内容です。
昨年のワールドカップ開催中から推していたのですが、1巻発売を機に今後ブレイクしていって欲しい作品です。
読切版と1話を読み比べるのも乙です。
東條高校サッカー部に所属する嵐木八咫郎の夢は世界最高峰の舞台、欧州(ヨーロッパ)の頂点に立つこと。高校3年の最後の試合 夢への第1歩、プロ入りを目指しスカウトの目に留まるため奮闘をするが―…。勝利への執念が紡ぐ焦熱フットボール譚 キックオフ!!
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