青のフラッグ

性別と感情のグラデーションの間で生まれる歪み

青のフラッグ KAITO
sogor25
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「男女の友情は成立するか?」令和に入った現在でも未だに時折見かける話題である。この話題、肯定派も否定派も、大抵が"男女の仲が深まった時に恋愛関係に変わるかどうか"という論点に持ってくんだけど、そのたびに私なんかは『なぜこの人たちは"同性だと恋愛に発展しない"って前提で話をしてるんだろう』と思ってしまう。この辺りはマンガ読みの方々なら割と同意頂けるのではないかと思う。 この作品は、人間関係の中で相手のアイデンティティにどれだけ"性"を内包させて捉えるか、ということを描いている作品なのではないかと思う。 現実世界での潮流もあり、セクシャルマイノリティの人々を描く作品は近年増えてきている。ただ、多くの場合は同性間の"恋愛"のみにスポットライトが当たり、もしくは恋愛感情と友情等その他の感情との"違い"をピックアップして描かれているような気がする。でも、性的指向が白か黒かではなくグラデーションが存在すると言われるようになってきた、それど同じように、恋愛か友情かというような感情の間にも濃淡があるものなんじゃない?と、この作品を読んで感じるようになった。 最初の問いに戻るが、「男女の友情は成立するかしないか」という問いは「相手に対する好意が、中身が全く同じであっても相手の"性別"という基準だけで”恋愛感情”に認識が変わるかどうか」という表現に言い換えることができるかもしれない。つまり、相手のアイデンティティの中にどれだけ"性"を含めて認識をするか。今作で言えば、性別によって間違いなく変わると思っているのが増尾、その辺りを特に意識せずに生きてきたのが太一や二葉、同じく無意識だけど実質的に性に囚われず恋愛感情を認識しているのが桃真や真澄、そして半ば自覚的に”性”という基準の占める割合は相手によってグラデーションがあると認識しているのがマミや仁井村、だと思っている。そして性的指向がそうであるように、この価値観もそれ自体を否定することはできないし、されるべきではない。マミや仁井村のスタンスが正しいように見えるけど、増尾の考え方だって悪ではないし、そもそも増尾の価値観の方がきっと現実世界では多数派なのではないかとも思える。 しかし、この作品ではこの価値観の違いが少しずつ関係性にひずみを生み、物語が進むにつれて次第にそのひずみが大きくなっていく。価値観の違う人間に直面した時にどうするか、特にそれが親しい関係の相手だった場合にどうするか、それがこの作品の肝なのではないかと思う。 作中では桃真と増尾の価値観の違いを発端に無関係の人を巻き込んだ大きな騒動になりつつあるが、実は規模の大小はあるにせよ同様のすれ違いは日常でも普遍的に起こりうる、というか起こっている、と私は思っている。例えば、告白した相手に「異性として見られない」と言って振られたり、異性の友達と食事に行っただけで恋人に浮気だと窘められたり。個々の事象しか見えないから意識することはほとんどないけど実は人はみんなそれぞれの感情のグラデーションの歪みの中に生きていて、今作はそれを「同性を好きになった」という、より大きな歪みでかつマンガの読者層に受け入れられやすい形で表現しているように思う。 作品の主題として見せられるとすごく特別なことのように感じるけれど、実は私たちの身の回りにもありふれた価値観の歪み。それを太一たちの10代の高校生の物語として誰の目にもはっきり認識できる形で描いているからこそ、多くの人の共感を得る作品となっているのではないだろうか。 7巻まで読了

フラグタイム

ふたりだけの時間が生む巨大な感情を見てくれ…!

フラグタイム さと
ANAGUMA
ANAGUMA

映画館でアニメの予告を見て「ハイパー爽やか百合作品じゃん…!」と思って履修したんですが、想像の200倍くらいクセ強めのマンガでした(最高ではある)。 人付き合いが苦手な森谷さんが手に入れたのは1日のうち3分間だけ時間を止められる能力。 人から話しかけられたときにその場を去ったり、かと思うと人の秘密を覗き見たり、小心者なんだか大胆なんだかわからない使い道を楽しんでいました。 そんな彼女だけの世界に、クラスいち華やかで社交的な村上さんが「入門」してきたことで物語が動き始めます。 時間停止中に村上さんのスカートめくってパンツ見てたのがバレた森谷さんは(何をやってんだ)村上さんの望むままに時間停止を行使し、さまざまな「いけないこと」に付き合わされていきます。 森谷さんも読者も一貫して村上さんというファム・ファタールに翻弄され続けるわけですが、森谷さんが村上さんに惹かれ、関係を築こうとする姿は純粋で、ほとんど涙ぐましいほどです。 村上さんの行動の不穏さと不安定さゆえ「どうにかこの関係がなんだかよくわからんがふたりにとってベストな形でうまいこといってほしい」…そう願わずにはいられなくなっていくのです…。 トリッキーな構成にドギマギしながら読み進めたのですが、最終2話を読んだあとには思わず腕を組んで唸りながらふたりの感情を噛み締めてしまいましたよ。 感情が…あるのだ…ここに。それもデカいやつが…。ふたつ…。 とにかく2巻一気に読んでふたりの関係と感情の行く末を見届けてほしいです。

新装版 しゃにむにGO

人の脆さとテニス愛の四重奏曲

新装版 しゃにむにGO 羅川真里茂
あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ

愛情を見失う者、支配しようとする者、失いたくなくて縋る者、恋と競技愛が混乱する者……。悩み足掻き、それでもテニスを「愛する」高校生達の、頂点を目指す三年間の物語。 ----- 常に世代のトップを争ってきた、滝田留宇衣と佐世古駿。精神面で佐世古駿に水をあけられ、ジュニア界から脱落した滝田留宇衣は、高校で出会った運動神経の鬼・伊出延久と共に、学生テニスの頂点を目指す。 物語は、この三人に、足の障害でテニスを断念した尚田ひなこを加えた四人が、様々に関わり、響き合う、切迫し熱気を帯びた四重奏の様相を呈する。 物語は、伊出延久の能天気さに覆われた、前向きコメディタッチで進行して行くが、話が進むにつれ四人は様々に、苦しみ崩れてゆく。 闘う動機を試合中に見失い、プロを目指したい気持ちが試合に反映されない滝田留宇衣。 しがらみから逃れる為に、自分のテニスにライバルの滝田と、好意を持つひなこのみを入れて孤立する佐世古駿。 プレイできない代償を、伊出と佐世古の両方を支えることに求め、自分の本心を見失う尚田ひなこ。 そして、常に明るい伊出延久も、テニスをする動機をひなこへの恋に置いてしまい、恋に躓くと立ち止まってしまう。 彼等が等しく見失うのは「テニスへの初期衝動」。この物語は、四人がそれぞれ苦しみながら、最終的に本当の愛と実力を手に入れる「歓喜の歌」なのである。 苦しみが深い分だけ、解放された時の晴れやかさと、きらめきに包まれた彼等の姿に、共に涙するほど心動かされる。 彼らの周りのチームメイト、指導者、ライバル達も、全員が苦しみを抱えており、その物語の解決を、ひとつひとつ丹念に描く。大小様々な物語にじっくり寄り添って、最後に皆で笑いたい、そんな作品だ。 ----- 加えて、作中で「車椅子テニス」をがっちりと取り上げて、困難の中でも、自分の心に真っ直ぐ向き合うことが描かれていて、心温まる。パラリンピック東京大会前に、『ブレードガール 片脚のランナー 』などと併せて読んでおきたい。

魔法使いだった猫

輪廻転生×ボーイミーツガール×猫 なファンタジー

魔法使いだった猫 みかみふみ
sogor25
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人に興味がなくクラスで浮いてる代わりに猫に異常に懐かれる主人公・雪村咲季。一匹の黒猫に導かれて旧校舎に足を踏み入れた彼は、その猫がとある魔女・ハナの生まれ変わりであり、自身がハナに飼われていた猫の生まれ変わりだということを思い出す。猫に生まれ変わった魔女と少年に生まれ変わった猫の輪廻転生を超えた再会の物語。 …というのが1話のあらすじ。ここまでだととても美しい物語なんですが、もちろんお話はここで終わりません。 咲季は旧校舎での一件を期に同級生・里奈との親交を深めてゆく。里奈のほうは好意を全開に示しているが咲季は(前世が猫だったから?)あまり相手の心情を汲み取ることができずにいて、このあたりの掛け合いはボーイミーツガール感があります。一方のハナのほうは、猫であるその身にまだ魔力を残しており、また魔女だった時代に人間たちに虐げられた過去があり、咲季との再会も偶然ではなくウラがありそうな様子。そして1巻中盤になり現れる謎の第三勢力によりダークファンタジーの様相も呈してきます。 そんな様々な要素が絡み合った本作、さて連載媒体はどこなのかというと、まさかの少年画報社「ねこぱんち」。私は電子書籍派なので書店さんでねこぱんちの単行本がどの辺りに配置されてるのか分からないのですが、表紙も映えますし、できれば秋田書店の少女マンガの付近なんかに配置して頂けるととっても良いんじゃないかなと思う今日この頃です。 1巻まで読了

となりの関くん

関くんの営みは仏の悟りに近づきつつある

となりの関くん 森繁拓真
影絵が趣味
影絵が趣味

ブッタの教えに「自分自身より、あなたの愛情を受けるに値する人は、この宇宙どこを探してもいないのだ。あなたこそ、あなたの愛情に値する人間なのだ」という言葉があります。つまり、他人から愛されるより、まず自分で自分を愛そうということなのですが、まあ、ブッタが教えを説くからには、これはなかなか簡単なことではないのでしょう。 実際、ひとという生き物は能動的であるより受動的であることを選びがちな気がします。とはいっても、ひとはありとあらゆる外的影響を受けながら生きているのですから、真の能動というのはあり得ず、能動的になろうと努めることしかできないのかもしれません。つまり、気合いといいますか、それは心意気の話になってくるかと思われます。 話を戻せば、他人に愛されるより、自分で自分を愛すという能動的な行為はやっぱり難しい。自分で自分を認めてあげるというのは本当に難しいことだと思います。どんなに自信に満ち溢れているひとでも、案外、他人から認められた経験から、それを自らの自信と勘違いしているひとも多いでしょうし、何なら他人からわかり易く認められるために日々の行為を選択していることも多々でしょう。しかし、それは能動的に行為を選択しているのではなく、じっさいにはそういった行為を選択させられているんです。 さて、それにつき、関くんの営みは、どう考えても誰かに認められるための行為ではありません。なんなら誰からも見られないように、こっそりと隠れて行われる。彼のこの隠れた能動性こそが、まさしく自分で自分を愛することなのではないでしょうか。さらにさらには類は友を呼ぶというのか、横井さんもやっぱり能動的な存在なんです。関くんが一人遊びに命を賭けているのなら、横井さんもまたそれを見るのに命を賭けている。見るという行為、これは実はとても大変な行為なんですね。目をひらけばものはみえてしまうわけですから、見るという行為は基本的には受動的な行為なんです。これを能動に転じさせるにはやはり飽くなき鍛練が求められることでしょう。横井さんも気合いといいますか、心意気といいますか、強いハートをもっている。ちらちらと目に入ってきてしまう関くんの営みを、あくまでも見させられるのはなく、自らの目で能動的に見てやろうといつも果敢に挑んでいる。だからこそ彼女は関くんの一番の天敵でありながら、関くんの一番の理解者ともなり得るわけです。

鉄楽レトラ

ふたつの赤い靴がつなぐ青春の絆

鉄楽レトラ 佐原ミズ
ANAGUMA
ANAGUMA

青春の瑞々しさ・ほろ苦さ・爽やかさにくわえて、若者の持つエネルギーの熱さ…。 ジュブナイルストーリーの魅力がたっぷり詰まったマンガです。 佐原ミズ作品は本作が初めてだったのですが、圧倒されてしまいました。 主人公・鉄宇(きみたか)とヒロイン・宝(たから)はバスケとフラメンコ、それぞれの夢に敗れてしまいます。偶然出会った彼らは、自分には似合わなくなったバスケシューズとフラメンコシューズ…お互いの「赤い靴」を交換します。 高校生になり、宝が新たにバスケを始めたことを知った鉄宇は、自身もまた彼女から受け取った赤い靴を履き、フラメンコ教室のドアを叩くことに…。 本作の多くの登場人物は過去に引きずられ、未来におびえています。 鉄宇と宝は靴と一緒に、互いの夢を交換することで、未来に向かって進んでいけるようになりました。 鉄宇が赤い靴を履いたことで「アイツががんばってるんだから、自分もがんばろう」と周囲のキャラクターも、みな少しずつ変わっていくのです。 一度くじけても、誰かと一緒なら新しい夢を追っていける…その姿に勇気づけられます。 6巻と短いストーリーではありますが、彼らの未来に思いを馳せながら読了した時の充実感、味わってみてほしいです。 末筆ではございますが、妹の銘椀(なまり)ちゃんが終始かわいいことを付け加えさせていただきます。 ホント健気でいい子でね…。