兎来栄寿
兎来栄寿
2017/04/27
「朗読」で迫る表現の極致『花もて語れ』
老若男女を問わず、普段漫画を読まないような方にも強くお薦めしたい漫画が、この『花もて語れ』です。 この作品には ・「表現」についての理解が深まりスキルアップする ・様々な名作文学に詳しくなる ・今後のあらゆる物語体験がより豊かになる といった効能があります。 そして、何より純粋に物語として素晴らしいのです! **朗読の世界** 『花もて語れ』の題材は、漫画初の「朗読」。 普通の人であれば、朗読といっても国語の授業位のイメージでしょうか。 しかし、この作品を読めばそのイメージも変貌します。 朗読とは、物語を最高度に楽しむ読み方であり、文章に最も真摯に向き合う姿勢、感受性を極限まで研ぎ澄ます所作なのです。 六種の「文章のカメラワーク」を意識した一文一文の読解。 作者の思想、その話が書かれた環境・背景まで酌んでの作品理解。 作品を他人事ではなく、我が事とするのが朗読という読み方。 それは、役者の役作りに通ずる部分があります。 私も経験がありますが、何かを演じる為に台本を精読して作品と対峙し続けたり、物語の舞台となった地に実際に立ってみたりすることで、極めてリアルな想像力が働くようになります。 すると、一見何気ないセリフでもその裏にある重みが見えて来ます。 そうした掘り下げにより、普通に読んでいては気付かない事柄が読み解かれます。 宮澤賢治の『注文の多い料理店』に出てくる二人の兵隊の性格にこんな違いが! と驚かされました。 今作では太宰や芥川から金子みすゞまで、様々な作品が取り扱われます。 総じて「この作品はこんな読み方が可能なのか!」と目から鱗がぼろぼろ落ちて行きます。 解釈自体への感動。 それに加え、その鮮烈な解釈によって訴えられる熱き「真意」に感銘を受けます。 こうして読み解いた奥深き世界を、朗読はどう人に伝えるのか。 音楽、絵画、彫刻、漫画…… 表現の方法は数多くある中で、朗読という手段が可能にする領域が開示されます。 **今にも飛び出してきそうな作画の前で** 多くの漫画は、原稿1枚で1ページです。 当たり前だ、と思うでしょうか。 しかし、この『花もて語れ』は80枚の原稿で38ページ、といった非常に特殊な形態を取っています。 1ページを構成するのに、複数枚の原稿が用いられているのです。 それは、「漫画という表現」で「朗読という表現」を表現しようとして生まれた挑戦。 普通の漫画賞の応募規定などでは禁止されていることも多い薄墨を用い、それを通常の作画と組み合わせて、珠玉の朗読シーンが作られているのです。 その結果、優れた音楽漫画から音が聞こえて来るように『花もて語れ』からは声が聞こえて来ます。 様々な意味で、漫画表現の極点に挑んでいる作品と言えます。 **『花もて語れ』のすばらしさは人間のすばらしさ!** 主人公は、両親を亡くし田舎に引き取られた何の取り柄もない女の子・佐倉ハナ。 彼女が、教育実習でやって来た青年に朗読を教わる所から始まります。 極度の引っ込み思案で友達も皆無。 OLになってからも、まともに仕事ができずミス連発。 自分は何をやっても駄目だ、と思い悩むハナ。 しかしそんな彼女は、朗読をすると驚くべき才能を発揮します。 普段はみそっかすの女の子が、圧倒的センスで大衆を前に凄まじいパフォーマンスを披露する爽快感は、さながら『ガラスの仮面』。 構造が似ているだけではなく、作品が持つ熱量、面白さも同等以上です。 『花もて語れ』の主要人物の多くは、ハナ以外もすんなりとは生きていません。 たとえばハナにとって無二の存在となる満里子は、妹の死によって家族と断絶し五年間引き篭もった女性。 ハナの師となる折口も、様々なものを抱えて生きています。 彼らは皆、強い人間ではありません。 弱いけれど、強くあろうとする者たちなのです。 圧倒的に弱き者が自らの弱きを自覚し、絶望する。 しかし、そこから目を背けず受け止め、その上で強くなろうとする。 たった一つの武器だけを手に、勇気を振り絞って世界と対峙して行く。 その姿は理屈を超えて美しく貴いもので、普遍的に心を打ちます。 そんな人物たちの朗読によって、「失った居場所の取り戻し方」「真の友情」「想いを伝えること」「悩むことの意味」「かつて傾けたが実らなかった情熱の意味」など様々なテーマが謳われる物語。 私は近巻を読む度、想いの質量や熱に涙を流してしまいます。 それらは全て生の肯定。 この物語は、魂の込もった人間賛歌でもあるのです。 **終曲も劇的に奏でられる** 現在10巻まで刊行され、あと3巻で完結というクライマックス。 まだ間に合います。 奮えること必至の感動のラストを、共に見届けましょう。 個人的な願いとしては、全国の学校の教室や図書室に是非この漫画を置いて欲しいです。 今作を読めば、国語や朗読が更に楽しくなることは間違いないですから。 子供の国語の成績を良くしたいという親御さんにも、強く推薦します。 ちなみに片山ユキヲ先生の前作『空色動画』(全3巻)も、漫画で動画であるアニメーションの創作を描いた意欲的で面白い作品ですので、併せてお薦めです。 https://manba.co.jp/boards/58937
兎来栄寿
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2016/12/19
2人の魔女に花束を。19世紀ロンドンの骨董品店を舞台に繰り広げられる猟奇でやさしいゴシックファンタジー―黒釜ナオ『魔女のやさしい葬列』
『解剖医ハンター』というマンガをご存じだろうか? 18世紀イギリスはロンドンに実在した近代外科医学の父にして死体泥棒(!)ジョン・ハンターの冒険を描いた名作である。ジョン・ハンターは、あの『ドリトル先生』と『ジキル博士とハイド氏』のモデルになったとも言われる奇人。作中でも、「食屍鬼(グール)」、「切り裂き屋(ナイフマン)」、「悪徳紳士(ミスター・ハイド)」、「ドクター・ドリトル(ヤブ医者)」と、とにかくひどい言われようだが、革命的知性と反骨精神を武器に、旧世代の悪習や打算ずくな権威を向こうに回し、己が道を切り拓く姿が痛快である。マンガ的なケレン味がよく効いていて、若き日の大航海者ジェームズ・クックに「おれは人類で初めて人体の地図を作る/いや この地球に生きとし生けるものすべての/生命の世界地図を作る」(第1巻、P124)などというセリフは思わず胸がすく。ハンターと同じく進歩を信じつつも、己の利権を守るため、民衆を愚昧にとどめようとする敵役に月光協会(ルナ・ソサエティ)のエラズマス・ダーウィンを配している辺りもにくい。あの進化論のチャールズ・ダーウィンの祖父である。作画を担当したのは黒釜ナオ。この作品が初の単行本だった。  『解剖医ハンター』から3年、黒釜ナオがこの6月、満を持して新刊を世に送り出した。その名も『魔女のやさしい葬列』。帯には、「構想2年」の「ゴシックファンタジー超大作!!!」とある。  魔女のやさしい葬列 1 (リュウコミックス) 作者:黒釜ナオ  物語の舞台はまたしてもロンドン。ただし、時代は下って19世紀ヴィクトリア朝期。16才の花売りの少女ナンシー・ドリットは、ブレイロック骨董店に毎日花を送り届けている。それはまだ年若い店主ブレイロックから、店番の少女リラへの贈り物。だが、密かにブレイロックに思いを寄せるナンシーは、2人の関係を勘ぐり、彼の不興を買ってしまう。リラが売春をさせられているにちがいないと思い込んだナンシーは、見知らぬ男と連れだって歩くリラの後を追う。路地裏で彼女を待ち受けていたのは、思いもよらぬ光景だった――。 物語の視点人物は花売りのナンシー。ろくでもない父親と年端もいかぬ弟妹を養う彼女は、春をひさぐことまではしないにしても、いつかこの悪徳の巷を抜け出してやろうと、銭勘定に余念がない。ついたあだ名は「銭(コイン)の魔女」。  『魔女のやさしい葬列』P33 一方、ナンシーが花を届けるリラは、天真爛漫な少女。だが、彼女は、そのあどけない少女の外見の内側に「人類最初の魔女」リリスを宿している。彼女はどこからともなくブレイロックに連れられ、さびれた骨董店に落ち着いた。ブレイロックが何者で、リラ/リリスを使って何を企んでいるのか、その全貌はまだ第1巻では明らかにされてはいない。  『魔女のやさしい葬列』P47 これは、ブレイロック骨董店に隠された「人類最初の魔女」リリスの謎をめぐる物語。だが、同時に、もう1人の「銭(コイン)の魔女」ナンシーをめぐる物語でもあるのだろう。ロンドンの片隅で小銭かすめて生にしがみつく生身の魔女が、太古から生きながらえ、死の災いをもたらす本物の魔女と出会ったときに何が起きるのか――。 
当時のロンドンであれば、こんな2人が出会ったところで不思議はない。大英帝国の繁栄を背景に金持ちがわが世の春を謳歌する一方、貧困と犯罪が猖獗を極め、都市と路地裏、金持ちと貧乏人、花売りと娼婦、昼と夜、現実と夢など、さまざまな矛盾を内包した町。こんな町であれば、オカルトめいた猟奇殺人ですら起きかねない。作者はこの町にひっそりと存在するブレイロック骨董店の独特の雰囲気をたくみに描いてみせる。古今東西のガラクタがゴミの山のように積み重なり、独特の描き文字までがまるでオブジェのように違和感なくたたずむ、懐かしくも心地よい空間。だが、そのゴミ山が作り出す影には不穏な空気が漂う。それは光も闇も飲み込んで肥大した両義的な空間。ナンシーによれば、「ほぼ墓場」(P17)。実際、その後、ブレイロック骨董店は、その扉を叩く者にとって、「命にかかわ」(P149)る場所となる。
  『魔女のやさしい葬列』P7 英語で書かれたこの作品の副題を見ると、Last flowers for Lilithとある。そう、これは花をめぐる物語でもある。視点人物のナンシーは花売りで、リラも大の花好き。ナンシーがカゴいっぱいに花を詰めて持ってくると、リラが飛びかかり、彼女のおでこに口づけをする。宙に浮いた薔薇の花を見て、ふと気づかされる。花は唇に似ているのだと。  『魔女のやさしい葬列』P8-9 唇/口の機能はもちろん口づけをすることだけではない。花=唇/口という連想は、その後、物語が進むにつれ、一転、陰惨極まりない様相を呈していく。 だが、酸鼻な事件とまがまがしい死を語ることがこの物語の目的ではないようだ。葬列は葬列でも、これは「やさしい葬列」なのだ。1つ1つの花は唇や口に似ている一方で、広げられた両手にも似ている。そして、花々を集めた花束は、差し出された両腕に。  『魔女のやさしい葬列』P196 こうして花は、両義性をはらみつつ、幾重にも変奏されながら、ナンシーとリラ/リリスという2人の魔女の物語を彩っていく。 まだ始まったばかりのこの物語が、いったいどこに向かおうとしているのかはわからない。心やさしい2人の魔女に用意されているのは、幸福な結末なのだろうか? 花には花言葉というものがある。「銭(コイン)の魔女」のナンシーにとっては、バラもユリもスミレも、「その花言葉はひとつだけ/「銭」ッ」(P3-5)である。リラとブレイロックとの出会いを経ることで、その花言葉の意味は変わるのだろうか? そして、このLast flowers for Lilithという花束は、どんな花言葉を持つことになるのだろうか? 今後の展開が楽しみである。
兎来栄寿
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2016/06/06
糖尿病性ケトアシドーシス、肺炎、敗血症、急性腎不全、脳浮腫、白質脳症etc… 壊れた脳が視せる異世界と、奇跡の再生。過労死する前に読みたい『死んで生き返りましたれぽ』
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 「仕事・人間関係で毎日疲れているんですが、その疲れを癒してくれるようなマンガはないですか?」 マンガソムリエ活動を行っている時に、特に多いのはこんなオーダーです。ある意味で、そういった方に最もお薦めしたいのが今回紹介する『死んで生き返りましたレポ』。但し、それは癒やしなどという生易しいものではなく、痛みを伴った「救済」とでも言うべきものですが……。 英語でもドイツ語でもフランス語でもスペイン語でもポルトガル語でも、「過労死」は「karoshi」で通じてしまう現代日本の労働環境。特に今は師走に入り、「こんな忙しい時にマンガなんて読んでる暇あるか!」という方も多いかと思います。かく言う無類のマンガ好きである私自身も、先月の労働時間は400時間を超えマンガを読む時間を確保するのが至難でした。しかし、そんな忙殺(これも凄い熟語ですよね)されている人にこそ、あえて一時息を入れて手に取って頂きたいと強く願います。仕事について、人生について、周りの人との関わり合い方について、今一度見つめ直す機会を与えてくれる極めて上質な実録エッセイマンガです。 **2014年最大級の衝撃作** 何たる異端。 何たる奇跡。 何たる衝撃。 pixivに掲載されていたこのマンガを初めて読んだのは、全16話の内の丁度半分までが公開された時期でした。子供の落書きや「エヴァ」の心象スケッチを想起させる描線が生々しい迫力で襲い掛かって来て、その重い内容と共に「ちょっと、これは凄すぎる……」と唸ってしまいました。私が触れたWebマンガの中では2014年中で比肩する物はなく、あらゆるマンガを含めてすら傑出しています。 今作は、オーバーワークと不節制により糖尿病、糖尿病性ケトアシドーシス、肺炎、敗血症、横紋筋融解症、急性腎不全、脳浮腫、高アンモニア血症、鉄欠乏性貧血、可逆性白質脳症などなど重篤という言葉でも到底足りないほどの、致命的な合併症を起こしてしまった筆者の実体験をマンガ化したものです。一時は心肺停止にまで陥ってしまったものの、このマンガを描いているという事実からも察せられる通り、今では見事に回復されたそうです。担当医の方々からは「奇跡の人」と呼ばれているとか。助かったのが不思議な位の症状や精神状態を克明に描いた闘病記録は、壮絶極まりないものです。 盲目化、幼児退行、精神崩壊などを起こした時の「れぽ」。何を尋ねられても同じ単語でしか返せない。人間の顔に線が入って見える。顔のパーツが逃げる。自分の腹の上に無数の足がある。色や形が判別できず四角い物体がどれも同じに感じられる。『火の鳥 復活編』を思い出させるような、脳の変化により生じた認識の変化がリアルに視覚的に描写されます。 書物や物語の意義として、自身の一回だけの人生では味わえない様々な事柄を疑似体験するというものがあります。それによって、私たちは思い描くのが難しい他の世界への想像力を獲得し、涵養されて行きます。その意味では、この体験レポートマンガというのは大変貴重な存在です。こういった経験談を言葉で伝え聞く機会は幾度となくありましたが、患者目線で視覚的にダイレクトに伝わるこのような形で見事に表現してみせた例はほとんど見たことがありませんでした。たまたま絵を描くことが好きで、それを生業にしていた筆者だったからこそ描き表すことができた奇跡の作品と言っても過言ではないでしょう。 **歪んだ夢と、生きる許しと、支えてくれる人と** 『死んで生き返りましたれぽ』では、筆者が倒れるに至る過程を描く部分にこんなモノローグが登場します。 > 自分が望んだ生活なのに苦しいのはなぜだろう > 仕事をするのがつらく、しかし、自分でやりたくてやってることなのであきらめたくはありませんでした。 > 仕事にしがみついていたわたしがこれ以上なにも描けないと自分から言うのは恐怖でした。 最初は自分が望んで選び取った道だったはずなのに、いざ歩んでみると途轍もなく苦しい。それでも、もしもそれを捨ててしまったなら他に自分には何もない。だから捨てられず、もがき苦しみながらもしがみつく……。それによって遂には体や心を壊してしまう、というのは非常に悲しいことです。 絵を描くスキルを唯一の武器としてこの世界で生きて来た筆者が、アンパンマンの顔すらもまともに描けなくなってしまっていた時。それは、翼を奪われた鳥のように、脚を奪われたサッカー選手のように、「命以外のすべてを失う」と表現された絶望感。そして、そんな絶望感すらも絶望として認識できない絶望的状況。 しかしながら、本当は世界は広く限りなく、道も無限にあるはずなんです。どこかで少し戻っても、止まっても、脇道に逸れても、全然構わないはずなんです。それまで費やして来たものが全て喪われたとしても、人はまたゼロから築き上げていくこともできる生き物です。でも、渦中にあっては、そんなことを気付く余裕がまずないですし、解らないのですよね。だからもし、死を意識するような時間を多く持たざるを得ない道を歩んでいるなら、無様でも良いし誰かを頼っても良いので、まず生命を存続させる道へ舵を切るべきです。生きている限り、いえ、一度死の淵に至ってもなお、人にはあらゆる可能性がある。そして、死に掛けた自分を助けようと真剣に動いてくれたり心配してくれる人は自分が思っている以上に世の中にいるのだと、生きていて良いのだと、その許しは些細で身近な所にあるのだと、そんなことをこの作品は切々と説いてくれます。 私が今作で特に感動したシーンの一つが、まともに喋ることすらできなかった筆者が奇跡的な回復を見せて行き、遂にはリハビリで立てるようになったシーンの母親の反応でした。仮に自分が立ち上がることができない状態に陥った時、立ち上がれるようになっただけで涙を流して喜んでくれるような人は身の回りにいるでしょうか。もしいるとするならば、絶対にその人のことは大切にせねばならないでしょう。母親だけでなく、友人や病院の人々の言動がそのまま生きる力に繋がっていく姿は、心を熱く穿たれます。 巻末に書き下ろされた竹尾さん自身の後書きの言葉がまた素晴らしいもので、強く印象に残っています。 > 生きることがつらいときや、自分の意思とは関係なく立ち止まってしまったときに、自分の心を前に向けるには、善い言葉を使い、人に感謝をする、それだけでいいのかもしれません 善い言葉と感謝。自分を想ってくれる、気遣ってくれる人のことを、自分も想うこと。私も常に心掛けている所ですが、忘れそうになった時はこの本を再読したいです。そんなことを考えさせてくれるこの本は、誰かへの贈り物とするにもとても良い選択となる一冊だと思います。 **「脳漫画」とWebマンガ** 「くも膜下出血マンガ」『くも漫。』トキワ荘プロジェクトの菊地さんは「今年は脳漫画の年だ」という表現をしました。確かにその通りなのです。『くも漫。』は、くも膜下出血になった筆者の経験を漫画にした作品です。この作品でも、脳にダメージを負ってしまったが故に体験した普通では味わえない感覚を鮮烈に描いています。 又、同じくトーチ掲載の『みちくさ日記』も、精神病院に入院した筆者の体験を赤裸々に描いた作品です。通常とは違った感性によってなされるその表現の数々は一読の価値があります。 これらの作品は全てWeb発。絵のクオリティ的や一回当たりのページ数という面では、メジャーな商業誌の作品と比べると大きく乖離しています。しかし、だからこそこれらの作品は素晴らしいとも言えます。誰もが枷も何もなく、パーソナルな体験をそのまま綴って世の中に送り出すことのできる時代が可能にした作品群。今までは表に出て来ることが難しかったタイプの作品が、今後はこのような形で更にどんどん出て来るようになるでしょう。 これらの作品が普通に生きていては知り得なかった世界を知る契機となり、今までよりも少しだけ人が人に優しくできる世界が生まれたなら、それはとても素敵なことです。 **pixiv版と書籍版** ちなみに、『死んで生き返りましたれぽ』は現在でもpixivにて全話閲覧可能です。 http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=40218865
兎来栄寿
兎来栄寿
2016/01/31
世界は終わる。未来はない。そこで人が持ちうる希望とは?『なぎさにて』
**新井英樹作品の文脈** 『なぎさにて』を語る前にまずはこれまでの新井英樹作品を振り返らねばなりません。 最初期の作品を別にすると、『愛しのアイリーン』、『宮本から君へ』、『ザ・ワールド・イズ・マイン』、『キーチ!!』、『SCATTER』などには共通した感情が見て取れます。長きにわたって現代社会の歪みに徹底抗戦し、鉄槌を下し続けて来た新井英樹先生。その筆致たるや、血も汗も涙も涎も精液も身体中のありとあらゆる体液を迸らせながら、言語にならない魂の咆哮と共に殴りつけて来るような凄まじさでした。近年までの新井英樹作品の基底は人間や社会への悲哀と憤怒と、絶望でした。 しかし、『空也上人がいた』でふっと次元が変わった感がありました。そのことは、『空也上人がいた』の単行本冒頭にてご本人がマンガで綴っています。それが更に加速したのは、「みらい!!-岡啓輔の200年-」でした。絵柄も刷新され、女の子が驚くほど可愛くなりました(それが新井英樹先生ご自身として描かれるのも最高)。『空也上人がいた』以降では、これまでと変わって人間への慈愛が満ちているかのように感じられます。未来への希望に溢れた、明るく暖かい人間賛歌となっていました。 『空也上人がいた』マンガHONZ超新作大賞2014 受賞記念対談 http://honz.jp/articles/-/41243 こちらの記事でも、「みらい!!」や『なぎさにて』を描くに至る心境の変化が克明に綴られています。この記事があったからこそ、新生・新井英樹先生の新作がより一層楽しみだったというのもあります。 これは、ただ単純に希望を語るだけとは訳が違います。『アイリーン』を、『TWIM』を、『キーチ』を描いてきた新井英樹先生が描くからこその、とてつもなく眩い光。とうとうこんな境地にまで達してしまったのか、と思わずにはいられませんでした。 悪いことは言わないので、スペリオール2015年2月13日号はどこかで見掛けたら手元に置いておくべきです。『なぎさにて』にも収録されなかった以上、「みらい」はいつ単行本化されるか分かりませんから。 その「みらい」を経ての、『なぎさにて』。これは、言うなれば『アイリーン』から『SCATTER』までの深淵の暗黒と、『空也上人がいた』や「みらい」の極限の光が同居した、まごうことなき最新最高の新井英樹作品です。風が語りかける……すごい、すごすぎる! **『渚にて』と『なぎさにて』** > 「世界の終わりというわけじゃありません。ただ<人類の終わり>というだけで。世界はこのまま残っていくでしょう、そこにわれわれがいなくなってもね。人間など抜きにして、この世界は永久につづいていくんです」 これは、ネビル・シュート著『渚にて』の一節です。 半世紀以上前に書かれた、終末の世界で日常を生きる人々を描く小説。2000年には舞台となったオーストラリアでドラマ化され、2009年には日本でも新訳版が出るなど、不朽の名作として世に残り受け入れられ続けている作品です。その新訳版の後書きでは、こんなことが書かれています。「この物語のテーマは破滅以外の側面。破滅に直面したとき我々はどうするか。乱暴狼藉、無秩序状態を描くことになるだろう。が、『渚にて』ではそのような光景はほぼ描かれない。人はいかに死を迎えるか、いかに生きるか。ネビル・シュートが語りたかったのは、破滅に直面してなお人には守るべきものがあるということ。人は気高い存在であるべきなのだ」と。 『なぎさにて』は、明らかに『渚にて』を意識して、オマージュとして描かれている部分があります。それはタイトルだけでなく、映画版の主題歌である「THE END OF THE WORLD」が第一話で歌われていることからも解ります(ちなみに、村上春樹著『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にもこの歌詞は引用されています)。何よりも、人類が緩やかな終末に瀕していながらも、それぞれの想いの下でこれまでと同じ日常を送ろうとするその人間としての在り方を問う姿が、正にそのものであると言えます。 余談ですが、個人的に渚という名前はどうしても「渚カヲル」を思い出させます。渚はシ者であり、「カヲル」という名は「オワリ」の一文字ずつ先にある文字。それを含めて、渚という言葉は強く終わりを連想させます。 **終わり行く世界での人間の在り方を描いた物語** 2011年の6月にケープタウンに生えた「ニョロニョロ」。日本では「豆の木」とも通称されるそれは、世界に災厄を齎すものでした。アフリカで発祥したホモ・サピエンスと同じように、ユーラシア大陸、日本、アメリカ大陸、北極、南極と世界中に次々と生えていった豆の木。 ケープタウンに生えた豆の木は、ある時膨らみ破裂して、甚大な被害をもたらしました。半径二十kmで樹液を浴びた者は即死。即死を免れた者も、その撒き散らされた毒による影響で病死。累計五十万人が死亡。そんな、いつ破裂するとも判らない死の豆の木が、日本だけでも千本以上生えてしまった世界。しかし、最初のケープタウンが破裂して以降、世界中で破裂した豆の木はなく、四年が経過。「世界は終わるんだから」と今までとは違った生き方を選ぶ人々もいる一方、辛うじて秩序が保たれている社会。 その中で、日本で初めての豆の木が生える瞬間を目撃してしまった杉浦一家を中心に、『なぎさにて』の物語は綴られていきます。 ヒロインの女子高校生・杉浦渚は、四年前に突然閉ざされてしまった未来を前に自分がしたいことを探し求めて生きる少女。多くの人々と同じように、世界の終わりに直面したことでこれまでの自分とは違う自分として生きようとし、毎日を悔いなく過ごそうと渚は試みます(それにしても、新井英樹作品とは思えないほどかわいい)。こんなに動くヒロインはなかなかいない、と思わせられる、動的さが印象的です。 一方で、キーパーソンとなっているのが渚の父親・宙哉。彼は、ギリギリの所で世界が終わるということを受け入れず、その絶望に抗おうとします。改めて、毎朝7時に家族全員で朝食を取ることを決まりとしたり、子供たちとジョギングをしたり、これまで通りの日常をより大切にしようとします。「日常から未来と希望が見えなくなったのなら日常で絶望を消すこともできるはずだ」と。それも、確固たる意思ではなく、世界や家族の状況を見て惑いつつ、娘に訝しげに思われつつも、人間らしく悩みながら希望に向かおうとする姿に、好感と共感を覚えます。 度々電波障害(パショー)が起こるようになった世界でも、インターネット上で「滅坊」「終息厨」といったカテゴライズをして煽り合いを続ける、どうしようもなく愚かしい人間の描写を欠かさないのも、新井英樹先生らしい所です。 **全てが無に帰す世界の果てで** 私たちも現実に四年前、3.11と原発事故を経験をしています。今まで築き上げてきた常識が覆され、理が一瞬にして全て粉々にされてしまったような、世界の関節が外れたようなあの感覚。それが、この『なぎさにて』では豆の木という形でありありと再現されています。恐ろしいのは、作中では豆の木の惨劇によって3.11が些事として描かれていること。あれほどの事件であっても、時の経過や他の事件の上書きによって人々の中からは驚く程に影が薄くなってしまうというリアリティ。背筋が震えました。 我が子に「他人も自分も思いやれる子になって欲しい」と願い、一所懸命に働いてきた宙哉。そもそも、人の歴史、現在の社会で幸福に暮らせるありとあらゆるシステムは、次代に何かを残そうと粉骨砕身してきた人々の功績。両親や祖先が受け継いで来た賜物。しかし、そんな想いや未来が一瞬で無に帰されてしまう瞬間。圧倒的な虚無と絶望が襲い掛かります。それは、SFでもファンタジーでもなく、現実に真っ当に起こりうる、あるいは違う形で現に起きていることです。 私たちが生きるために教えられてきたことのほとんどは、この人類社会の末永い繁栄のため、人類社会に与するために必要なことです。その未来が全否定された時、社会の機構の一部ではなく完全なる一個人に回帰せざるを得なくなった時、私たちは何をするべきでしょうか。あるいは何をしたいと思うでしょうか。明日か数年後か解らないけれど、人間が絶滅する。そんな状況に置かれた時の自分の行動を想像せずにはいられません。圧倒的な問い掛けを突き付けてくる物語です。 豆の木や大災害などなくとも、今を生きる人々の多くは明るい未来が見出だせないで生きています。未曾有の少子高齢化社会で、衰退を免れないことは明白な日本。安い給料で、一生を添い遂げるパートナーもおらず、年金を貰える宛もなく、老後など想像もできず、その前に野垂れ死ぬか自殺している姿の方が余程リアルに思い描ける。いっそ世界なんて滅びてくれ……そんな風に考える人も決して少なくないであろう今の時代。そんな、世界に息衝く人間が必死に押し殺しながらも抑え切れない絶望感。閉塞感。そういった物を、『なぎさにて』の世界からは感じずにはいられません。終わる世界に生きるが如く未来を見据えて生きることができない人にとっては、全くもって、他人事ではない物語なのです。 しかし、この物語は、上述のインタビューでも描かれている通り、圧倒的な絶望を前にした人間の希望を描いた物語であるはずです。第一巻の最後では、正に圧倒的な絶望が人類に襲い掛かります。『火の鳥』未来編のあるシーンを髣髴とさせるようでした。それでも、驚くほどにビビッドな色使いで、あたかもまっすぐな青春物語であるかのように描かれた単行本の表紙に象徴されるように、渚たちはきっと絶望の中で希望を提示してくれるはずです。 倫理も、道徳も、規範も、あらゆるものが無価値になったとしても、それでも信じられる何かしらを『なぎさにて』は見せてくれる。そう確信しています。もしかしたら、それは愛と呼ばれるものかもしれません。『渚にて』では高潔な愛が一つ大きな希望でしたが、『なぎさにて』ではそうではないかもしれません。確かなことは、極限の世界で必死に生きる人々の姿は私たちに人間にとって本当に大切なことを切に伝えようとしている、ということです。 『なぎさにて』の、新井英樹先生の出す答を、襟を正して見守りましょう。