<明治>という時間軸に交錯する群像を、関川夏央の気鋭の原作を得て、名手・谷口ジローが渾身の力で描いた話題作。歴史上の人物たちの同時代的邂逅が意表を突く!!
いや〜これめちゃくちゃ沁みるというか、夏目漱石大先生と自分を重ねるというのは畏れ多すぎるんですけど、年齢も大体同じで、仕事と自分がやりたいことの折り合いをつけながら日々を過ごし、時代の流れを意識しつつも安易にそこには乗らんぞ、という姿勢に非常に共感します。というか教科書に載ってる文豪に共感なんてできるんだ!というのが驚きですよね。それは谷口さん関川さんの描き方が素晴らしいからなんですけど。あとがきもめちゃくちゃ面白い。編集者の懐の深さもすごい。これだよこれ。 2019年の日本ではシリコンバレー流スタートアップがタイムマシンビジネスでグローバルなオポチュニティをクリエイティブにイノベーション、OKRをグロースさせてムーンショットでIPOとか言って数億円調達してたりしてて、そういうニュースを見るたびに添付の画像みたいな気持ちになるんですけど、いじけてないで私も『坊っちゃん』みたいな快作で世の中に一石を投じるべきだよな!と元気が出てきます。
恥ずかしながら、初見は「坊ちゃん」の漫画版かなと思ってしまった。全五巻で、漱石とか、鴎外とか啄木みたいな教科書でしか知らない人のことがわかる。けど、それなら伝記を読めばいいわけであえてこれを読む理由は「明治」という時代がわかることだと思う。外国人が増えて世相が変わっていく中でどうやって生きたのか、何を考えていたのか。西洋に必死で追いつけ、追い越せ、とあくせくしていた日本の活気とそれをすごく先の視点から批評していった文化人達という構図がよかった。
小説を言い表すのに文体という言葉があるが、これは小説にかぎったことではなくて映画にも漫画にも文体はある。ここでいう文体というのは単に文章の持つ調子のようなものではない。作者がどのように世界を見ているか、という問題としての文体である。つまり、どういうふうに書かれるかというよりは、何が書かれるかということに直結してくる。 してみると映画の場合の文体は、カメラが何を映すかというになってくる。映画というのは製作者の役割が分業されていて、たとえば脚本と監督がちがう場合がほとんどである。それでいて、その映画は誰がつくったものなのかということになると、そこには監督の名前がくる。それは当然で、映画の文体を握っているのが監督だからである。監督は脚本通りに撮影を進めていくが、そこで何をカメラに映させるかのすべては監督にかかっている。 漫画の場合の文体は言わずもがな、何が描かれているかである。ようするに、谷口ジローの漫画を読む私たちは谷口ジローの目を通してそこに描かれる世界を見ることになる。ところで谷口ジローはいまや日本を飛び越えて世界に愛される作家であるが、世界は谷口ジローの何に魅せられているのか。漫画作家としては珍しく谷口ジローは原作をおくことが多い。つまり、世界の谷口ファンはストーリーに魅せられているのではない、谷口ジローの世界の捉え方、すなわち文体に魅せられているのだ。
いや〜これめちゃくちゃ沁みるというか、夏目漱石大先生と自分を重ねるというのは畏れ多すぎるんですけど、年齢も大体同じで、仕事と自分がやりたいことの折り合いをつけながら日々を過ごし、時代の流れを意識しつつも安易にそこには乗らんぞ、という姿勢に非常に共感します。というか教科書に載ってる文豪に共感なんてできるんだ!というのが驚きですよね。それは谷口さん関川さんの描き方が素晴らしいからなんですけど。あとがきもめちゃくちゃ面白い。編集者の懐の深さもすごい。これだよこれ。 2019年の日本ではシリコンバレー流スタートアップがタイムマシンビジネスでグローバルなオポチュニティをクリエイティブにイノベーション、OKRをグロースさせてムーンショットでIPOとか言って数億円調達してたりしてて、そういうニュースを見るたびに添付の画像みたいな気持ちになるんですけど、いじけてないで私も『坊っちゃん』みたいな快作で世の中に一石を投じるべきだよな!と元気が出てきます。