三国志

三国志

また読みたい
フォロー
北方謙三渾身の大長編小説を超技画アーティスト河承男が劇画化!西暦184年、四百数十年という長きに渡って続いた大漢帝国はようやく衰亡しようとしていた。大三国志の幕は切って落とされたのである。劉備玄徳・関羽雲長・張飛翼徳の三人は義兄弟の契りを結び、群雄勢い立つ乱世に乗り出していくのだが、こののち、この三人におよそ五十年にも及ぶ大苦難の道が待ちかまえていた――。覇業を志す男たちが乱世を駆け巡る!!
北方謙三渾身の大長編小説を超技画アーティスト河承男が劇画化!孫堅文台、奇しくも曹操と同年であるが、家柄の整った曹操と違い、生業は長江から黄海流域を荒らし廻る海賊であった。孫堅は海を捨て、猛スピードで国盗りに励んで行く。その頃、曹操は先の黄巾軍討伐の功績により、済南郡の相を命ぜられていた。都から遠く離れていたが、曹操は宮中の動きを間者を使い常に監視していた。覇業を志す男たちが乱世を駆け巡る!!
北方謙三渾身の大長編小説を超技画アーティスト河承男が劇画化!弁と協という二人の皇子の身柄を握った董卓は、弁を第十三代少帝として擁立し、自らはその後見として王宮を掌握することに成功した。董卓とその軍兵は悪行狼藉をほしいままにして、市中を恐怖に陥れた。ついに、董卓は陳留王・脇を第十四代皇帝とし、漢王国の実質的な支配権を手に入れる。覇業を志す男たちが乱世を駆け巡る!!
北方謙三渾身の大長編小説を超技画アーティスト河承男が劇画化!少帝を廃し、陳留王・協を第14代皇帝とし、自ら相国の地位についた董卓は後漢王朝の独裁者となり、残虐非道の限りを尽す。洛陽を出奔した曹操は打倒董卓の激文を各地に送る。ついに反董卓連合軍が結成される。しかし、先鋒の孫堅軍に、劉備軍以外は誰も援軍を送ろうとはしなかった。
洛陽は焦土と化し、都は百万の民とともに長安に移された。董卓の強引な遷都だった。後漢王朝の実質独裁者になった董卓の暴虐ぶりはさらに激しさを増す。誰もその蛮行を抑えることができない。しかし、董卓は大きな過ちを犯した。呂布の琴線にあまりにも無神経だった。さらに王允の謀略も進む。ついに呂布は方天戟を手に宮中に駆けた!!目指すは董卓の首。三国志が大きく動き出した!!
わずか三万で百万の黄巾軍にたちむかうと聞いて、その勝ちを予測するものは誰もいなかった。しかし、曹操はやってのけた。飛躍するための闘いに勝ったのだ。戦後、黄巾軍に信仰を許し、降兵から精鋭五万を麾下に加えた。一躍天下に覇を唱える一角になった。一方、袁紹と袁術は仲違いをしていた。袁紹は曹操に袁術を攻めるよう要請。頭角を現してきた曹操と袁術に潰し合いをさせようとする姑息な策だった。難なく勝利をおさめた曹操だが、青天霹靂の報が入って来た。曹操の父、曹嵩が徐州の陶謙の配下により殺害された。曹操は腹の底から怒りがこみ上げて来た。
曹操の父は徐州の陶謙の配下によって殺害された。これを期に曹操は一気に徐州を攻め立てる。潰走する陶謙は劉備に助勢の使者をたてた。決して好漢とは言えない将軍だがかつて劉備は恩を受けた。義には義で返すことを信条とする劉備は関羽、張飛とともに陶謙が立て籠る城に入る。闘いは曹操軍の糧秣切れで引き分けに終わった。一方、呂布は袁紹の麾下に入っていた。しかしあまりの強さに袁紹もまた、手に余る。下野した呂布に近づいたのは陳宮だった。以前曹操の下にいた天才軍師だ。
下ヒ城を手に入れた劉備の下に、曹操と袂を分った陳宮と呂布がやってきた。関羽と張飛の反対を押し切って、義侠の大儀のために陣営に迎え入れたが、一抹の不安が残った。なんと言っても、陳宮である。当代随一の陰謀家陳宮だ。一方、揚州の袁術の下に身を寄せていた孫策にも機が熟していた。劉ヨウを倒すことを条件に配下とともに呉郡に帰ることを許されることになった。しかし劉ヨウ軍五千、対する孫策軍は百五十。攻めるべきは要害の地に建つ難攻不落の城。途方に暮れていた孫策の前に現れたのは周瑜だった。
呂布と陳宮に下ヒ城を追われ曹操を頼った劉備一党。屈辱を胸に隠し、客将となる。急激に力をつけてきた呂布は曹操にとって脅威だった。曹操は二十万の兵を従え、呂布と陳宮の籠る徐州下ヒ城を攻める。先鋒は劉備と趙雲。城門を出た呂布は赤兎馬に跨がり、方天戟を構えた。広原に「呂」の旗が翻った。中原最強の呂布軍団と曹操軍が対峙した。ついに最後の闘いが始まる。
曹操は呂布との最後の決戦に挑む。先鋒は、下ヒ城を追われ曹操を頼り、客将となっていた劉備一党。後詰めに二十万の大軍を率いる曹操。絶体絶命の呂布。赤兎馬と配下の黒武者隊は呂布が盾となり戦線を離脱する。遂に広原の怪物・呂布も囚われの身となる。曹操は問う。お前の闘い、殺戮には大儀があるのか。志があるのか。呂布は不敵に笑う。「俺が不思議だろ。心ひとつ動かさず人を殺める俺が…」