表題作が凄すぎる。認知が歪み気味な女友達の世話をする(友達に対して母性が芽生えてしまう)女と、それに巻き込まれる彼氏。 角松天くんが一歩引いた倫理観を持っていることで「友達をお世話をする」ことに対する批判的な目線もあって良い。
『きょうはあしたの前日だから、だからこわくてしかたないー。』 粗筋に書いてあるこの一文がとても好きです 本作は『綿の国星』の作者大島弓子の初期短編集 主人公の三浦衣良は"ちょっと変わった"高校生 彼女の大切にしているものは周りから特殊に映り、その繊細さが両親を不安にさせます そんな彼女を"大人"の道に乗せる為に 衣良の幼なじみさえ子(眼鏡女子)がある『すごい策』を提案します …それがもう更に色々ぐっちゃぐちゃ!!!になります 衣良の大切にしているものは 私には凄く尊いような純粋なような感じがありました むしろこんな心のまま大人になるって素敵なんじゃと思ってしまう そんな魅力的な主人公 お話はとても淡々として居て とんでもない展開も恐ろしい愛憎劇もどこか詩的に感じるのは 大島弓子ワールドの成せる技ですね 日常生活で 『ちょっと疲れたなぁ…この先どうなるんだろう…』 という日は必ずこの本を読み返します そんな気分の方がいらっしゃったら、 是非この本を読んでみてほしいです
儚く美しい世界を描き続ける大島弓子先生の比較的初期の作品です 主人公は漫画家を目指しながら生きる女の子 クラスの同級生達が恋・恋・恋に明け暮れる中で ちょっと周りとは温度感の違う性格や感覚がとてもキュートです 子供から大人になる間の揺らぎ 大人のすることが何故かとてつもなく汚らわしく感じるような 少女の揺らぎにかけがえのない煌めきを感じます 触れると無くなりそうな世界観を描く大島弓子先生の作品はどれも素晴らしいです
私にとって大島弓子は特別な作家なので100人読んだら100人が好きになるだろうと思っていたのですが、どうやらそうではないようですね…。人によっては、コマ割りが単調だし登場人物がどうしてそういう行動をするのか分からないそう(「秋日子かく語りき」でいうと鉢植えを奪ってくるシーンとか)。なるほどねぇ。言われてみればそうかぁ…と思わなくはないけど、でもそこじゃないんだよな。この表現は適切ではないかもしれないけど大島弓子の作品には計算がないんだと思う。無意識から作られているようなところがあるから奇跡が起こってるんだと勝手に思ってる。そして私は物語に救いを求めてるから大島弓子が好きなのかもしれない。
小学生の頃、ある日、母が家族になんの相談もなくいっぴきの猫を連れ帰ってきた。もう子猫とは言いがたい白いチンチラで、目は綺麗なエメラルドグリーンだった。母曰く、気がついたらペットショップで購入していたとのことだった。当時の私は、この珍事件に歓喜したのか、さっそく翌日にはクラスメイト全員にアンケートをとり、そして名前が決められた。Jといった。 家族や私の友人にたいへん可愛がられたJだったが、数年が経つと、事態は少し変わっていた。私は中学生になり、部活や勉強に忙しく、あまりJの相手をしないようになった。その代わりに意外にも、父がJの世話に熱心になった。夜、父が仕事から帰ってくると、Jは歓喜乱舞した。父が外へ連れていってくれるからだ。毎夜、Jと父は15階建のマンションを上から下まで何往復もしてから疲れ果てて帰ってくるのだった。父と折り合いの悪かった私にとっても、この外での遊びは好都合だった。 しかし、世の中とは不可思議なもので、Jと父とは相思相愛にはならなかった。いわば父はJの遊びに利用されていただけで、Jを好きすぎる父はいかんせん触りすぎる。Jはそれをちょっと鬱陶しく思っていたらしかった。家族が寝静まる夜なか、Jはふらふらと寝床を探しはじめる。高校生になっていた私はいちばん遅くまで起きているようになった。父の部屋はJが出入りできるようにいつでも開けてあった。それでもJが父の布団で寝ることはなく、いつも私の部屋の閉ざされたドアをガリガリと引っ掻いた。その音のせいで寝られない日もしばしばあった。時々、気が向いた日にだけ(それはつまり色々あって落ち込んでいたり寂しい思いをしていた日だ)ドアを開けてやっていっしょに寝た。 大学生になると私はすぐに家を出た。Jのせいではないが、父との折り合いはますます悪くなっていた。家を出ると、すぐに生活が一変した。それまでずっと視界にモヤがかかっているかのようだった慢性的鼻炎が瞬時に治ったのだった。「バカは風邪をひかない」という言葉は真であるとそのとき私は思った。たぶん、私は猫アレルギーだったのだ。 グーグーを読んでいると、猫のいた日々を思い出す。長年、思い出しもしなかった記憶が沸々と湧き起こってくる。そして、なんだかよくわからないけれど、ボロボロと涙が溢れてくる。けっしていい飼い主ではなかったのに。 Jも父もいまだに健在だ。でも父は、年に一度あるかないかで会うたびに年老いたなあと思う。Jもそろそろ猫でいえば化けてもいいぐらいの年齢になっている。家出していらい、家には寄り付かないようにしていたが、そろそろこちらから訪ねてみてもいいかもしれないと柄でもないことを思った。Jは私のことをまだ憶えているだろうか。
転んでもタダでは起き上がらない! 大島弓子のマンガは、もうこれに尽きると言ってもいいかもしれません。というか、もう全編に渡り転びっぱなし。敗北の人生。しかも、あしたのジョーですらびっくりして卒倒するぐらいのノーガード戦法で立ち向かってゆく。でも、それは戦法なんて呼べた代物ではなく、彼女たちは単に生まれながら身を守る手段を知らないだけなんです。それはそれは痛々しくて見ていられないほどの。 『綿の国星』のチビ猫は、両親に刷り込まれたロマンティックな価値観よって、大きくなったら人間になれると信じている。その両親というのは、じっさいには人間の飼い主で、チビ猫はほんとうの父母すらもわからない。飼い主は事業のしっぱいで夜逃げしてしまい、瀕死のノラでいるところを時夫に救われる。そして恋をする。 少女の姿で描かれてはいても、チビ猫はやっぱり猫なので、助けてくれて「ありがとう」のたったの一言も伝えることができません。それでもチビ猫は、たとえ転んでもタダでは起き上がらない! いつか人間になったら「一番はじめにありがとうって伝えるわ」と心に誓うんです。 衰弱から回復して元気なってくると、しかし、チビ猫はだんだんと世の理りを理解するようになります。でも、あたまで理解したからといって人間への憧れが消えるわけではありません。だからといって相変わらず言葉が通じるわけでもない。時夫の一家は優しく接してくれます。でも、チビ猫はいつだって周囲の人間たちにたいして、あるいは猫たちにも、あるいはものを言わないこの世界の自然にたいして、たったのひとり(いっぴき)なんです。でも、それでもチビ猫は、転んでもタダでは起き上がらない! たとえ意志の疎通ができなくても、その対象を懸命にみようとする、きこうとする、肌で感じようとする、たとえ泥だらけになろうとも。 大島弓子のマンガは全編に渡り、この種の健気な気合いがみられます。『つるばら つるばら』というのがまた凄まじくて、男性に生まれてしまった女性が、子どもの頃くりかえしみた夢にでてくる家をどこまでも、どこまでも探し続ける。夢のなかでのことですから、あらゆる意味で当の本人にしかわかりえない家をどこまでも、どこまでも探し続けるんです。もうね、大島弓子というひとはとにかく気合いが入っています!
猫も人間も、一緒でしょ?どちらの世界も愛する須和野チビ猫の、世界を知る為のスリリングな冒険に「今日もちょっと行ってくるね!」 ----- この作品中の「猫」は、人間の姿に猫耳と尾がついた格好で、人間と同様に「思考能力」が付与されている。 まるで夏目漱石の『吾輩は猫である』のように、猫達は人間を観察し、思索に耽る。 主人公のチビ猫は、とりわけ人間に近い価値観を持ち、猫の世界にそれを持ち込んでは、猫と人間の根本的な違いにぶつかり、悩む。 そうして可愛い仔猫の世界観は、次第にシビアになっていく。 生きることの不思議や、ままならない本能や感情。チビ猫が遭遇する問題意識の鋭さと根深さには、人間である私も唸らされる。 しかし、チビ猫の目に映る世界は、酷薄ながらもキラキラと美しい。彼女がその小さな体で大きな世界(海や野原など)と対峙し、溶け合う時の果てしなく茫洋とした感覚は、読んでいて心地よい。 チビ猫が世界を知る為に、猫にも人間にも、無謀な介入を繰り返す様をハラハラしながら見守り、彼女の猫らしからぬ思索と猫らしい本能の両方を観察させてもらう、そんな作品。
※ネタバレを含むクチコミです。
です。 今も昔も、この高み(深み)にいったものは誰もいない。 間違いないです、ハイ。 以上、終わり。 …っていうので、本当は言いたいことのすべてなのですが、まあ、それもどうかと思うので、もう少し贅言を重ねます。 大島弓子は、どこにでもある、でも「特別な痛み」を、途方もなく切実に、軽やかに描いて、そして常に、魂を照らし温める「救い」へと、読むものを導いていきます。 漫画界に限らない、同時代の文芸や映像など「物語り」表現すべてを見渡しても、大島弓子に比肩する「文学的」深淵を描き出すことが出来たものを、ちょっと思いつくことができない。 この『ロストハウス』が、彼女のキャリアで特に優れた一冊だとは思わないのですが、いかんせん現在流通している本は再編集されたものが多く、初読時の印象を適切に反映させられないので、とりあえず。 あと、個人的に『ロストハウス』は、七十年代からずっと読んでいた大島さんの新刊として、刊行された当時なに気なく読んで(たぶん九十年代中盤)、自分が心から愛好する後続の同時代漫画家さんたちの作品と比べて、それこそ「ケタが違う…」と、打ちのめされた記憶がある、忘れられない本なのです。 「たそがれは逢魔の時間」が収録された花ゆめコミックス版『綿の国星2』が私的には最高なのですが、まあ、大島弓子はどれもメチャクチャ凄いので、どれでも良いんです。 『バナナブレッドのプディング』でも『四月怪談』でも『秋日子かく語りき』でも『毎日が夏休み』でも、とにかく1975年~1995年に描かれたすべての「物語り」が、唯一無二にとんでもなく素晴らしいので、未読のかたは、ぜひ。 (「サバ」や「グーグー」とかは、やっぱちょっと別枠で)
細い道、バラの垣根、四段の石段、平凡な木製ドア……。 子どもの頃、くりかえし夢に見た家をさがして、どこまでも、どこまでも。 彼(彼女)は、夢と現実の境界を越えるようにして、男性と女性の境界を越え、生と死の境界を越え、ときには天と地の境界までを曖昧にしてみせる。こうして境界を次々に越えて、どちらのものともつかなくなるそのたびに、彼(彼女)は自由になり次の幕があがる。そして人生はつづく、どこまでも、どこまでも。
表題作が凄すぎる。認知が歪み気味な女友達の世話をする(友達に対して母性が芽生えてしまう)女と、それに巻き込まれる彼氏。 角松天くんが一歩引いた倫理観を持っていることで「友達をお世話をする」ことに対する批判的な目線もあって良い。