諸星大二郎の作品展は一度買って消費することの出来ない何度も読み返し味わいたくなる様なホラーでもファンタジーでない奇妙な作品群なのだ。特に凝った設定や特殊な演出などは何もしていないのに、諸星大二郎が漫画家of漫画家と言われるのはその線とコマが全てを物語っているからだ。その諸星大二郎にしか出せない奇妙な線とコマ割りがシンプルで不気味な物語に読者を没入させてくれる。これら物語のアイデアとビジュアルは他では絶対に目にすることのない存在感を放った唯一無二の短編集である。
諸星大二郎という作家は他の追随を許すことのない唯一無二の作家である。これは海外の異端な芸術家、映画監督、文豪、音楽家に広げても諸星大二郎の独創性を上回る作家など殆ど存在しない。妖怪ハンターは人間の根源的な知的欲求、未知、何故世界は存在するのかというあまりに壮大で抽象的な概念を諸星大二郎の線に還元している。このいまにも崩れそうで保っているような不気味な線の快楽が我々を未知の世界へ引き込んでくれる。
超常現象ものなのですが、特徴としては、和の要素が多く、おどろおどろしいことと、神話(古事記など)や伝承と紐付けて解決していくところです! 独特の絵柄も相まって、こういったホラー・サスペンス好きには良いと思います!絵柄とかは全然違うのですが、岸辺露伴先生のシリーズに似てると感じましたので、ひょっとすると岸辺先生のシリーズを愛読されてる方は試してみると良いかもしれません!! みんな大好き「通りゃんせ」も出ます!
感想を書くのが難しいです・・たまに特に感想がない(感じたことがない)ってこともあるのですが、それとも違うタイプで感想がこれといって出てこないです。 明確な主人公もなく、はっきりとしたストーリーラインがあるわけでもないです。混沌の坩堝を見せられてる感じでしょうか??誰かの夢を正気のときに見せられてるというか・・・「どういう話だった?」って言われても答えるのがかなり難しいです。 1巻(400ページ弱)で完結なのですが、その中に、陰陽・五行・呪術・中国の歴史故事・インド神話・東南アジアの民話伝承・シャーマニズム・首狩・神獣・ブッダ・孔子・日本の伝承・古地磁気学・物理・コンピューター・SF・恐竜・宇宙の収縮などの要素が詰め込まれていて、かなり盛りだくさんで壮大な話です。 わたしにはガツンとハマる感じではなかったですが、多分こういうタイプのハマる人はズブズブにハマるのではないでしょうか??絵柄も結構特徴的だと思うのですが、そんなの微々たる話です。 これで週刊少年ジャンプ連載っていうのはビビります。同時期の掲載作品は、リングにかけろやプレイボール、すすめ!!パイレーツなどだったようで、読者受け大丈夫だったのでしょうか?? なんとなく後ろ向きな文章になってしまいましたが、ただ「面白くない」というのとはまた違った感覚なので、もう少しライトめな諸星先生の作品を探して読んでみたいと思ってます。
※ネタバレを含むクチコミです。
幻想的な短編集。表題にもなっている『闇の鶯』は作者が「パソコンに疎かったからあまりうまくいかなかった」的な反省を述べているけど、面白かった。まず妖怪みたいな存在が現代的な技術を身に付けているのが珍しい。民話などで妖怪とされているのは実は人間で、生活習慣やコミュニティが異なる他者をそう呼んでいただけではないか?という説を思い出す。 神話や宗教、呪術に支配されていた時代があったように、現代は科学技術に支配されている。仕組みを理解していないものにとって、技術も一種の呪術のようなものだし、人間が使っているようで、実は技術に使われているケースも往々にしてある。 一度全てをフラットに並べてみて、何が自分にとってこの世界に生きている実感をもたらしてくれるのかは考えてみても良いだろう。科学的な事実であれ、論理的な正しさであれ、それらと幸福は直結しないのだから。 『涸れ川』も面白かった。説教めいた要素もなく、ただただ迷い込んだ異世界のルールを読み解く感じが良い。
漫画というのは二次元+一次元(コマの挿入による時間の推移)で出来ています。しかし、私たちの日常生活は四次元として展開されていますから、漫画もそれに即していかなければ、リアリティのある物語を描くことができません。そこで漫画の本来の領分であるところの二次元に補助として光学を採用する、すなわちデッサンです。これにより漫画は、平面上にかりそめながら立体を再現することが出来たということになります。 はい、何を当たり前のことを言っているんだろう、という感じですが、諸星大二郎に限っては、この当たり前が当たり前ではなくなってしまう。何しろ、タクシーのなかでさえデッサンが寸分も狂わなかったと言われる手塚治虫、大友克洋が出てきたとき「あんな絵は僕にも描けるんです」と豪語した手塚治虫が「諸星くんの絵だけは真似できない」と言っているのですから。 つまり、諸星大二郎は他の漫画家のように二次元+光学の補助という絵の描き方をしていないんですね。『栞と紙魚子シリーズ』はそれがもっとも顕著なんですけども、彼女たちの暮らす胃の頭町(いのあたまちょう)はなんかよくわからないけど異界に通じているらしい。その異界の異界ぶりをもっともよく表しているのがクトル―ちゃんのお母さんですよね。あの顔の目茶苦茶でかいお母さん、あれはどう考えてもデッサンでは描けない。あの顔で、いったいどうやって段先生のボロ屋に収まっているのやら。もしあれをデッサンで描こうものなら、それこそ二次元でも三次元でもない空間の捻じ曲がった異界が爆誕してしまう。というか、この爆誕してしまった異界こそが諸星大二郎の絵なんです。 とくに栞と紙魚子が姿のみえない首輪だけのペットを散歩させる回は秀逸でした。ペットに引っ張られて段々と異界に迷い込んでゆくわけですけど、その行く先のエステサロンにクトル―ちゃんのお母さんがいる。お母さんは「あら~、こんなところでお目にかかるなんて珍しいですわね」とか何とか言って、エステのマシーンから引き伸ばされたうどんみたいな姿で出てくるんです。もう、何がなんだかわからないでしょう。でも、これを大真面目に描いてしまうのが諸星大二郎なんです。
諸星大二郎といえば、民俗学的であったり、神話的であったり、異界的であったり、幻想的であったりと語られ、じっさいに柳田国男の研究書やクトゥルー神話を愛読している一面があったり、扉絵や表紙の絵などからはたしかにシュルレアリスム作家ダリの影響を彷彿とさせずにはいられない。しかし、これら数多の要素は諸星大二郎について何か説明するひとつひとつの所以にはなりえようが、漫画家・諸星大二郎を語るさいの言葉としてはどれをとっても全てを合わせてみても片手落ちになっているような気がしてならない。 さきほどシュルレアリスムという言葉を出したが、これを日本語に訳すと超現実主義となるらしい。超現実とはすなわち、現実を超えるということであり、これを画家という立場に合わせて言うなれば、目に見えない何かを描くということになるだろうか。まさしくそのようにして幻想画家としてのダリが生まれている。ところで、ある種の民俗学にしても、神話にしても、異界にしても、幻想にしても、それらはひとしく目には見えないもののはずだが、じっさいのところ諸星大二郎の漫画ほどよく目に見えるものもないのではないか。衝撃の連載デビュー作となった『妖怪ハンター』では民俗学的な切口から、いきなり異界がひらけて、ヒルコなる怪物との遭遇が為されるが、本来ならば目には見えない異界なるものが、これでもかというぐらい目に見えるように描かれている。さらなる衝撃の長編デビュー作となった『暗黒神話』では、よくよく読んでみればふざけているのではないかと思うぐらい唐突に、これまた異界がひらけて、神話の怪物がしっかりと目に見えるように描かれている。諸星大二郎という作家は、目には見えないはずの、手では触れられないはずの幻想的な何者かとの遭遇をあまりに唐突に意図も簡単に描いてのけ、しかも、それらの怪物たちはふつうの現実の人間であるところの登場人物に、まるで自身の存在が幻想の産物ではないこと示すかのように、抜け目なく傷まで負わせてゆくのである。 まさに『暗黒神話』は主人公の少年が異界の怪物と遭遇するたびに四肢のひとつひとつに傷を受ける物語であったし、『壁男』では壁男が壁ごと人型にくり抜かれて倒れてきてアパートの住人に傷を負わせるし、『鎮守の森』では男がいきなり異界に迷いこみ目に怪我を負いながら十数年も放浪したのちに汚れたそのままの姿でいきなり現実に戻ってくる。 さらには異界やその怪物ばかりではなく、諸星大二郎の真骨頂とも言うべきは、本来は目に見えるはずもない人間の内面の感情のようなものをあっけらかんと視覚的に描いてしまうことにある。まさしく『不安の立像』では不安という名の目に見えない感情が外套の影のような姿で描かれ、『夢の木の下で』ではひとの内面での変化が植物が枯れることで如実に描かれ、『遠い国から』のとある惑星ではひとがもの凄く感動したときにすぐその場で自殺をするように描かれ、『感情のある風景』にいたっては感情がそのまま目に見える文様として描かれている。 諸星大二郎の漫画はこのように幻想的であったり超現実的というより、むしろ、視覚的過剰によるきわめて体験的なものとして私たちの目に飛び込んでくる。そこで私たちは何かの幻想や超現実に想いを馳せる必要などまるでなく、向こうの方からすでにいきなり唐突に、視覚的現実としてそれが目に突き付けられている。 あるいはマッドメンや縄文人をはじめ、身体に傷を負う(入れ墨を負う)という行為は、神や異界の存在を現実のものとして視覚的に示すものだったのかもしれない。
鳥から連想されるイメージが諸星大二郎の描く世界と化学反応を起こすと、こんなにも不思議な世界が出来上がるのかと驚く。 個人的には、屋上に巨大なカラスを見かけ、探す話が印象深い。カラスから想起される「死」や「恐怖」のイメージと少年たちの大きな鳥に対する「未知」への好奇心が、とある結末へと向かっていくというもの。いい意味で予想から外れた展開となった。やはり特殊な空間を書く能力を諸星大二郎は持っている。
諸星大二郎の作品展は一度買って消費することの出来ない何度も読み返し味わいたくなる様なホラーでもファンタジーでない奇妙な作品群なのだ。特に凝った設定や特殊な演出などは何もしていないのに、諸星大二郎が漫画家of漫画家と言われるのはその線とコマが全てを物語っているからだ。その諸星大二郎にしか出せない奇妙な線とコマ割りがシンプルで不気味な物語に読者を没入させてくれる。これら物語のアイデアとビジュアルは他では絶対に目にすることのない存在感を放った唯一無二の短編集である。