どぶがわ。この言葉から想像されるのはどんな物語だろう? 例えば、昭和を感じさせるさびれた町と因業な人間のさが。丸尾末広に「童貞厠之介」(『薔薇色ノ怪物』所収)という怪作があるが、極端な話、“どぶ”という言葉はあんな作品にこそふさわしい気もする(念のために言っておくがホメ言葉である)。 だからこそ、池辺葵の『どぶがわ』を手に取り、ページをめくった者は肩すかしをくらう。 **Our life is connected.** 冒頭に登場するのは、ある洋館に暮らす4姉妹。表紙にも描かれた人物たちである。女中のロゼッタを除き、身の回りには誰もいないらしい。かといって生活に困っている様子もなく、彼女たちは、毎日のように送られてくる招待状を、あーでもないこーでもないと吟味しながら、ロゼッタが作ってくれるおいしい料理に舌鼓をうつ日々を送る――。 ところが、実はこれ、ある老婆が見ている夢なのだ。2人組の少年たちに起こされた彼女が現実に生きる場所は、タイトル通り、どぶがわが流れる町。その臭気は近隣でも語り草になっている。少年の1人が言う。「こんなくさい川/ゴミバコとかわんねー」。その川辺のぼろアパートで、身寄りもなくひとり暮らしをしている彼女は、どぶがわの対岸にちょこんと置かれたベンチで、洗濯物を干しながら居眠りすることを日課としていた。 現実生活がいかに寂しく貧しいものであったとしても、夢の中でなら王侯貴族のように豊かに大らかに生きることができる。老婆は決して多くはないだろう知識や経験を総動員して、夢を美々しく飾る。だから、古い西洋を思わせる豪奢なロケーション(ヴィクトリア朝風?)で主人公がアボカドにかけるのは“わさびじょうゆ”で構わないし、いかにも定食屋にありそうなしょうゆさしが出てくるのもうなずけるのだ。老婆はこんなふうに夢見ることを生きがいに余生を送っていた。 どうやらその町では、富裕層は丘の上、低所得層は川辺というふうに住み分けがなされているらしい。やがて物語は、老婆の暮らしと彼女の見る夢を主旋律に、町に住む人々の人間模様を映し出していく。川辺に住んでいると思しい2人の少年、丘の上に住むある家族、もともと丘の上に住んでいたが、両親の離婚がきっかけで、母親と一緒に川辺に移り住む高校生、彼の隣人でレンズ工場に勤める青年。いつしか小学生たちは中学生になる。月日が経過するとともに、登場人物たちが直接間接につながっていく。池辺葵らしく表紙や目次ページに慎ましやかにある英文が記されている。Our life is connected. **水辺の組曲** 人々はどこか鬱屈した気持ちを抱えながら日々を過ごしている。だが、老婆を軸にゆるやかにつながっていくことで、わだかまりがとけていく。圧巻は第4話。「ダンス」と題されたこのエピソード後半の畳みかけるようなサイレントのコマの連続。登場人物たちは言葉を交わさずとも共感し合し、このシークエンスにセリフがないことによって、私たちもまた、その場に居合わせるような気持で彼らの体験を共有できるという至福。このエピソードはきっと作者にとっても思い入れの強いものであるに違いない。この本のジャケットを外した表紙には4姉妹とロゼッタが、裏表紙にはその他の登場人物たちが、それぞれ踊る姿が真上から描かれている。 この場面のBGMはヘンデルの名曲『水上の音楽』。管弦楽組曲と言うそうだが、冒頭に序曲が置かれ、複数の舞曲がそれに続く構成である。なるほど、ならば、全6話のエピソードとエピローグからなる『どぶがわ』も、水辺の組曲と呼んでみてもいいのかもしれない。そういえば、不思議なことに、『どぶがわ』の登場人物は、老婆の夢に登場する女中のロゼッタ以外、名前が与えられていない。老婆も、少年たちも、夢の中に登場する老婆以外の3姉妹も。逆になぜロゼッタには名前が与えられているのだろう? 彼女は夢の中に登場する老婆自身によく似ている気がするのだけど。これはそんな名もなき人々が奏でる、現実と夢がたゆたう水辺の音楽。 **やさしきどぶがわ** 池辺葵が描くどぶがわはいわゆるどぶがわではない。老婆の半生が夢というフィルターを介して甘美に加工されているように、池辺葵の筆から描き出されたどぶがわは、どれだけごみだらけであっても、愛らしく懐かしい。ちなみに、エピローグの最後に記された言葉から、作者が想定している『どぶがわ』の英訳がThe Dark Riverであることがわかる。Ditchなどではないのだ。 雑誌『ハツキス』創刊記念として、コミックナタリーが池辺葵に敢行したインタビューの中で、池辺は次のような発言をしている。「でも最近は、作り上げたマンガの世界くらい、もっと幸福感に満たされていてほしいって思ったりします」。これは『どぶがわ』について語った言葉ではないが、池辺作品はどれもこのやさしさに貫かれている。『サウダーデ』でも『繕い断つ人』でも、登場人物たちは、『どぶがわ』の登場人物たちがそうであるように、どちらかと言えばぶっきらぼうで、決して感傷に浸ることはないが、常に誇りを持って生き、限りなくやさしい。そんな彼女が描く一編の寓話のようなこの物語がどんな風景を見せてくれるのか、続きはぜひご自身でお読みいただきたい。 **『バベットの晩餐会』のほうへ** 物語の冒頭、寝しなに老婆がぼろアパートで読んでいた本は『バベットの晩さん会』(ママ)だった。夢の中のロゼッタの料理に誘われるようにして、イサク・ディーネセン『バベットの晩餐会』を読み返してみる。終盤、ある登場人物がこんなセリフを語っている。「われわれ人間は先が見えないものです。この宇宙には神の恵みがあることを、われわれはよく知っております。しかし、先を見ることのできない人間は、神の恵みを限りあるものと思うのであります。だからこそ、われわれは怖れおののくのであります――(……)しかし、われわれの目が覚まされるときはかならずやってくるのです。そして、神の恵みは果てしないことを悟るのです。(……)われわれにはわれわれが選んだものが授けられております。しかしまたそれと同時に、われわれが選ぼうとしなかったものも、われわれには与えられているのです。そう、われわれが拒否してきたものまでがわれわれにはあり余るほどに与えられているのです」。しかり、私たちの人生には、「われわれが選ぼうとしなかったもの」、「われわれが拒否してきたもの」があふれている。おそらくは老婆の人生もそうだったに違いない。彼女はどんな風に自分の人生と折り合いをつけたのだろうと、ふと思う。それにしても、『どぶがわ』を通じて『バベットの晩餐会』を読むというのは(あるいは、第5話に登場するあの歌を聴くというのは)、なんとステキな体験であることだろう。 関連リンク: 出版社書籍情報ページ https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253155502 第18回メディア芸術祭マンガ部門新人賞受賞(2014年) http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2014/manga/works/18m_Dobugawa/ ハツキス創刊記念!池辺葵「繕い裁つ人」インタビュー http://natalie.mu/comic/pp/hatsukiss
知らない漫画を読もうと思って手に取って、出会えたことに感謝している作品は沢山あるんですが、この作品と、この作者に出会えたことは本当に幸運だったと思っています。 池辺先生の描く女性の美しさに惹かれるのは、その魂の凛とした気高さに魅了されるからです。 同時期に描かれていた「繕い裁つ人」と共通の登場人物がいたり(そもそも主人公同士が親友)して、とりとめもない会話の中でも叡智を感じます。 池辺先生の作品の輝きというのは、貴金属の放つ輝きではなくて、知性が宿す、ふくよかな美しさによるものなのであり、初期の作品でありながら、老成した詩人のような巧みさがあります。 自分が一番好きなのは、翔君が訪れるところです(彼のような若者を魅力的に描けるのも池辺先生の漫画の力だと感じています)。 モノローグを排して、言葉と表情で描かれる作品は、美しさと力強さと知性に溢れています。未読の方は「繕い裁つ人」も併せて是非。
フィーヤンでの連載とは思わなかった。過ぎ去ってしまった自分の思い出と重なる。むず痒い感じがしつつ、あの頃は色んなことで悩んだり喜んでいたんだなと思い出すような話。女性作家ながら、男性にとっても女子の理想の青春だと思った。
全部通してよかったんだけど、個人的には「きらきらと雨」がダントツに良かった。鯛の塩釜のシーンは、実家にいた時のことを思い出してしまった....
母にまつわる短編集。主人公になるのは、母だけではなく息子や娘のものも半分くらいある。『かごめかごめ』のアフターストーリーに当たると思われる作品も3つ収録されている(『ザザetヤニク』『カラスの鳴く夜にヤニクは』『アンテルメ』) 個人的に特に好きだったのは就職して独り立ちする息子をもつ母親の話の『きらきらと雨』修道院に捨てられたヤニクと母の話の『カラスの鳴く夜にヤニクは』引きこもりの息子とその母の話の『stand up』の3つ。どれも悲しかったり感動している表情がとても強烈で、表情でキャラクターの感情がめきめき伝わってきてよかった。 母の話となると、(僕は)いわゆるお涙頂戴的なのを想像してしまうが、そういうのはあまりなく普通の母親と息子娘を描きながら、その時々に感じているだろう感情を逃さず描いているから、キャラクターたちに感情移入してとても感動するような作りになっていていい短編集だった。
まず全ページカラーで単行本化されているんだけど、光の感じが全ページ凄まじい。これだけで引き込まれるものがある。 物語はある修道院の修道女の話で、基本的に修道女としての務めを果たしていく姿が描かれているんだけど、言葉にしがたい不穏さのようなものがどこかから漂ってきて、平和な世界のはずなのに終わりが用意されているような緊張感が常にある。 漫画に音というのはないんだけど、それでも静かな漫画と表現をしてしまいたくなるほど、静けさが全体に満ちている。修道女という与えられた生き方の中で自分と神と家族への愛を静かに問いかけ続ける漫画。とても良かった。
どぶ川沿いに住んでいる人たちが色々出てくるけど、昼寝しているおばあちゃんがこの漫画の軸になっていると思う。一人暮らしの老人で、どぶ川の側でいつも昼寝をしていて住民からは笑われている、こんな最期は嫌だなぁって思いすらある人物像なのに、惨めさみたいなものを微塵も感じさせなかった。 空想に耽る最期をこんなに暖かく描いた池辺葵はすごいなーと思った。
なんか普段読んでる漫画とは違うなと思って、よくよく読み返してみたら、そこにあるべき背景が描かれてなかったり、ナレーションが一切なかったりした。目が黒く塗り潰されてるのも印象的で、派手ではないけど漫画ならではの表現になってる。
※ネタバレを含むクチコミです。
http://yawaspi.com/princess/ とはいえ第一話は導入もいいとこで、よさは全然わかりませんね。
どぶがわ。この言葉から想像されるのはどんな物語だろう? 例えば、昭和を感じさせるさびれた町と因業な人間のさが。丸尾末広に「童貞厠之介」(『薔薇色ノ怪物』所収)という怪作があるが、極端な話、“どぶ”という言葉はあんな作品にこそふさわしい気もする(念のために言っておくがホメ言葉である)。 だからこそ、池辺葵の『どぶがわ』を手に取り、ページをめくった者は肩すかしをくらう。 **Our life is connected.** 冒頭に登場するのは、ある洋館に暮らす4姉妹。表紙にも描かれた人物たちである。女中のロゼッタを除き、身の回りには誰もいないらしい。かといって生活に困っている様子もなく、彼女たちは、毎日のように送られてくる招待状を、あーでもないこーでもないと吟味しながら、ロゼッタが作ってくれるおいしい料理に舌鼓をうつ日々を送る――。 ところが、実はこれ、ある老婆が見ている夢なのだ。2人組の少年たちに起こされた彼女が現実に生きる場所は、タイトル通り、どぶがわが流れる町。その臭気は近隣でも語り草になっている。少年の1人が言う。「こんなくさい川/ゴミバコとかわんねー」。その川辺のぼろアパートで、身寄りもなくひとり暮らしをしている彼女は、どぶがわの対岸にちょこんと置かれたベンチで、洗濯物を干しながら居眠りすることを日課としていた。 現実生活がいかに寂しく貧しいものであったとしても、夢の中でなら王侯貴族のように豊かに大らかに生きることができる。老婆は決して多くはないだろう知識や経験を総動員して、夢を美々しく飾る。だから、古い西洋を思わせる豪奢なロケーション(ヴィクトリア朝風?)で主人公がアボカドにかけるのは“わさびじょうゆ”で構わないし、いかにも定食屋にありそうなしょうゆさしが出てくるのもうなずけるのだ。老婆はこんなふうに夢見ることを生きがいに余生を送っていた。 どうやらその町では、富裕層は丘の上、低所得層は川辺というふうに住み分けがなされているらしい。やがて物語は、老婆の暮らしと彼女の見る夢を主旋律に、町に住む人々の人間模様を映し出していく。川辺に住んでいると思しい2人の少年、丘の上に住むある家族、もともと丘の上に住んでいたが、両親の離婚がきっかけで、母親と一緒に川辺に移り住む高校生、彼の隣人でレンズ工場に勤める青年。いつしか小学生たちは中学生になる。月日が経過するとともに、登場人物たちが直接間接につながっていく。池辺葵らしく表紙や目次ページに慎ましやかにある英文が記されている。Our life is connected. **水辺の組曲** 人々はどこか鬱屈した気持ちを抱えながら日々を過ごしている。だが、老婆を軸にゆるやかにつながっていくことで、わだかまりがとけていく。圧巻は第4話。「ダンス」と題されたこのエピソード後半の畳みかけるようなサイレントのコマの連続。登場人物たちは言葉を交わさずとも共感し合し、このシークエンスにセリフがないことによって、私たちもまた、その場に居合わせるような気持で彼らの体験を共有できるという至福。このエピソードはきっと作者にとっても思い入れの強いものであるに違いない。この本のジャケットを外した表紙には4姉妹とロゼッタが、裏表紙にはその他の登場人物たちが、それぞれ踊る姿が真上から描かれている。 この場面のBGMはヘンデルの名曲『水上の音楽』。管弦楽組曲と言うそうだが、冒頭に序曲が置かれ、複数の舞曲がそれに続く構成である。なるほど、ならば、全6話のエピソードとエピローグからなる『どぶがわ』も、水辺の組曲と呼んでみてもいいのかもしれない。そういえば、不思議なことに、『どぶがわ』の登場人物は、老婆の夢に登場する女中のロゼッタ以外、名前が与えられていない。老婆も、少年たちも、夢の中に登場する老婆以外の3姉妹も。逆になぜロゼッタには名前が与えられているのだろう? 彼女は夢の中に登場する老婆自身によく似ている気がするのだけど。これはそんな名もなき人々が奏でる、現実と夢がたゆたう水辺の音楽。 **やさしきどぶがわ** 池辺葵が描くどぶがわはいわゆるどぶがわではない。老婆の半生が夢というフィルターを介して甘美に加工されているように、池辺葵の筆から描き出されたどぶがわは、どれだけごみだらけであっても、愛らしく懐かしい。ちなみに、エピローグの最後に記された言葉から、作者が想定している『どぶがわ』の英訳がThe Dark Riverであることがわかる。Ditchなどではないのだ。 雑誌『ハツキス』創刊記念として、コミックナタリーが池辺葵に敢行したインタビューの中で、池辺は次のような発言をしている。「でも最近は、作り上げたマンガの世界くらい、もっと幸福感に満たされていてほしいって思ったりします」。これは『どぶがわ』について語った言葉ではないが、池辺作品はどれもこのやさしさに貫かれている。『サウダーデ』でも『繕い断つ人』でも、登場人物たちは、『どぶがわ』の登場人物たちがそうであるように、どちらかと言えばぶっきらぼうで、決して感傷に浸ることはないが、常に誇りを持って生き、限りなくやさしい。そんな彼女が描く一編の寓話のようなこの物語がどんな風景を見せてくれるのか、続きはぜひご自身でお読みいただきたい。 **『バベットの晩餐会』のほうへ** 物語の冒頭、寝しなに老婆がぼろアパートで読んでいた本は『バベットの晩さん会』(ママ)だった。夢の中のロゼッタの料理に誘われるようにして、イサク・ディーネセン『バベットの晩餐会』を読み返してみる。終盤、ある登場人物がこんなセリフを語っている。「われわれ人間は先が見えないものです。この宇宙には神の恵みがあることを、われわれはよく知っております。しかし、先を見ることのできない人間は、神の恵みを限りあるものと思うのであります。だからこそ、われわれは怖れおののくのであります――(……)しかし、われわれの目が覚まされるときはかならずやってくるのです。そして、神の恵みは果てしないことを悟るのです。(……)われわれにはわれわれが選んだものが授けられております。しかしまたそれと同時に、われわれが選ぼうとしなかったものも、われわれには与えられているのです。そう、われわれが拒否してきたものまでがわれわれにはあり余るほどに与えられているのです」。しかり、私たちの人生には、「われわれが選ぼうとしなかったもの」、「われわれが拒否してきたもの」があふれている。おそらくは老婆の人生もそうだったに違いない。彼女はどんな風に自分の人生と折り合いをつけたのだろうと、ふと思う。それにしても、『どぶがわ』を通じて『バベットの晩餐会』を読むというのは(あるいは、第5話に登場するあの歌を聴くというのは)、なんとステキな体験であることだろう。 関連リンク: 出版社書籍情報ページ https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253155502 第18回メディア芸術祭マンガ部門新人賞受賞(2014年) http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2014/manga/works/18m_Dobugawa/ ハツキス創刊記念!池辺葵「繕い裁つ人」インタビュー http://natalie.mu/comic/pp/hatsukiss