基本的に実写化されて、原作を凌駕することなど皆無に等しいのだが、この作品は実写映画の方が、映画史に残る傑作になってしまったという珍しいパターンの作品である。実写化する際に、原作と違うことは、全く問題ではない。そもそも映画の本質は時間と運動であり、漫画の本質は線とコマ割りなのだからいくら原作をそのままやった所で、画面が止まってスライドショーになってしまう。原作の大事な要素だけ抽出することが大事なのだ。実写版の横スクロールシーンのショットは映画史に残るアクションシーンとなった。漫画に関してはミステリー展開を優先しすぎた結果、人間は普通そんな事でそこまでしねぇよ、という無理のある展開となってしまい釈然としないまま終局を迎える。線に関しては可も無く不可も無くといった所。
韓国映画版のは気持ち悪さを覚えて嫌だけどオチ部分で厚みの 必要性には賛同出来てしまうのが。 ルーズ戦記というサブタイそのままグダグダ引っ張りまくった 末にこれでは物足りないなと。 このオチなら巻数を減らして短くまとめていれば納得度も上がった 気がする。
ずっと麻雀。たかが麻雀、されど麻雀。 麻雀漫画って、ヤクザとか特殊能力とかを絡めたくなりますが、この漫画はシンプルに麻雀。 そして、麻雀に関わる奴はみんな少しダメ人間。 しっかり現実を描いています。 黒澤っいう渋いおじさんが、坊やテツの房州さんっぽさを感じました。 ずーっと麻雀やっててよく飽きないな。
大学生の頃ってこれからの生き方が決まる大事な時、そこで麻雀に人生ささげた青年のお話。 うち手の思考を細かに書いていくから、一局終わるのに結構時間がかかるのはご愛敬。 20年前ぐらい前、麻雀好きの子から絵もきれいだし読みやすいからと進められて読んだシリーズでした。 今116巻まで言っているとは、全く知らず一巻から読み直していますがいつまでかかるだろう苦笑
最初の設定がズバ抜けて面白いですよね。雑居ビルの7階と8階の間に7.5階があって、そこの監禁部屋に前触れもなく10年監禁させられ、その間は昼と夜に出前の中華を食べ続け、ある日突然釈放されたと思ったら、犯人から動機を当てるゲームに参加させられる。シンプルなのにすごく引き込まれる設定です。 あとがきを読むと先の展開を決めずに連載をしていたらしいですが、だからこそ追い込まれる人間の心理描写にリアリティがあって、犯人の動機にも納得させられました。 10年前に韓国映画版を観た時は、エリちゃんが主人公の娘だったという映画版オリジナルのオチに衝撃を受けたのですが、漫画でこのオチだと後味悪すぎるし、そういう可能性も含めて復讐は終わっていないんだと解釈しました。
昔から名作とか面白いとか言われていたから気になってたけど「Kindle Unlimited」で読めたので全部読んだ。 基本は心療科の女医である氷室レイカが心の病を持った患者を治療していく。昔の心療科関連の漫画は今と違い、サスペンス色が強く出ている。インターネットの描写などに時代を感じた 城南大学附属病院編 病院の心療科にくる心の病を持った患者に対して氷室レイカがどのように判断して、どういう風に回復させていくのがいいかという患者との関係性を重視した内容でした。 開業医編 マンションの一室に開設した「氷室メンタルクリニック」で仕事を始める。この頃になるとなかなか急展開で話が終わったり、サスペンス色が特に強くなっている。 放浪編 18巻で運営していたクリニックを後輩に渡して、インターネットを利用しつつカウンセリングをやるのだが、以前の城南大学附属病院編、開業医編に比べて短くあっという間に終わってしまうがずっと謎だったレイカの過去が明らかになった 各巻の最後にある心理テストは面白い。あんまり心理テストは好きではないがちょっとやってしまった...
怖いもの見たさで読み始めました。潜在的な性倒錯やネット依存症など、心の闇、人間の本質をあばくようなお話です。 氷室メンタルクリニック女医・レイカによる心理学や美術論などを交えた解説がなかなか面白いです。 ネット依存症編では、パソコン、インターネット用語がかなり古いなーと思う箇所もあるものの、相談内容はいまの時代にも当てはまる問題です。 途中、ちょっとグロテスクだったり痛々しいシーンもあるので、苦手な方は注意したほうがよさそうです。
主人公が麻雀を通して、様々な人と出会い、強くなっていく物語。新しいキャラクターや昔の人も関わっていくなかで人情味のあふれる話もあり、面白いです。
狩撫麻礼の名義でもっとも世に知られる土屋ガロンが原作をつとめているのが『オールド・ボーイ』。韓国の名監督パク・チャヌクにより映画化され、カンヌ国際映画祭では審査員特別グランプリ、さらには映画大国アメリカはハリウッドでもリメイクされ、その際、それら会社間での権利関係で色々と揉め事が発生したようである。 そんな作品のほうが勝手にひとり歩きしている状況は原作者冥利には違いないが、この原作者、狩撫麻礼という名義でもっとも知られている男はじつに変な男である。まず、狩撫麻礼という名はカリブ=マーレー、つまりレゲエ音楽家のボブ・マーリーと彼の生活の拠点であったカリブ海とを掛け合わせたものらしいが、土地や名前などの固定的なイメージをペンネームに使用していながら、当の本人、狩撫麻礼という名義でもっとも知られているこの男は、土地や名前などの固定化したイメージから浮遊して逃げさるかのように極めて無記名的な存在である。いくつものペンネームを使い分けるさまは言うまでもなく、そもそもマンガ原作者であるために絵柄は作画担当に委ねられ、ひとつのイメージに定まることはない。さらにはいっさいメディアに顔を現さないために誰も彼の姿形を知らず、狩撫麻礼は彼のマンガに出てくる登場人物たちのように部屋には冷蔵庫とサンドバッグだけがポツンと置いてある、冷蔵庫の中身はすべてビールで埋め尽くされている、なんていうような妙に信憑性のある伝説だけが勝手にひとり歩きしているのである。そう、作品だけではなく、彼の存在自体も"物語"となり勝手にひとり歩きしているのである。 そもそも物語とは何か。物語とは話し語ることであり、物語の起源とは伝承にほかならない。当然のことだが、物語の伝承には著作権などなければ固有性も何らそなわっておらず、しかし当の物語のほうは極めて匿名的に、希薄にも、希薄であるが故に霧や空気のように所かまわず浸透して、あらゆる隙間を縫って各方面へひろく拡大伝播していく性質をもっている。著作者という概念など人類のながい歴史において近代になってようやく発生したものにすぎない。では、物語の本質とは何か。著作者という概念が発生した近代以降は、それは著作者その本人に帰依するものと一般には言われているようだが、人類のながい歴史からみた物語の場合はそうはいかない。その物語の発話者を遡って探していこうにも、その先には深淵があるばかりである。あるいは都市伝説によくあるように、その物語伝承の起源を仔細に追っていった結果がじつに身も蓋もないことであることも往々にしてあるだろう。すなわち物語の本質とは、その発生の起源ではない。物語の本質とは、むしろ、著作者を置き去りにして、極めて匿名的に、希薄にも、希薄であるが故に霧や空気のように所かまわず浸透して、あらゆる隙間を縫って各方面へひろく拡大伝播していく性質のほうにあるのではないか。それはまさしく物語が勝手にひとり歩きするということである。 そして、まさしく『オールド・ボーイ』はそんな物語の本質を貫くかのように、狩撫麻礼の名を置き去りにして、マンガというジャンルを越えて日本から韓国へ漂流し、ヨーロッパへ渡り、とうとうアメリカ大陸にまで辿り着く。しかも、ひとつひとつ国を跨ぐごとに、その物語の中身は少しずつ改変されているのである。狩撫麻礼とは物語の本質を身に纏い、世界各地をさながら無記名の幽霊のように彷徨い歩く男の仮の名前ではないか。そして、そんな男が、わけもわからずに何十年も監禁されて、そのわけを探すために街を彷徨い歩く、さながら記憶喪失のような男の後ろ姿と妙にかぶさるのである。 ところで、幽霊で思い出したのがロシア文学の代表格ゴーゴリが書いた『外套』という小説である。極寒の地、ロシアで、アカーキイ・アカーキエウィッチというひとりの男が新調したての外套を追い剥ぎに奪われて死んでしまうという小説だが、アカーキイの死後、各地でアカーキイの幽霊が現れて外套を奪っていくという噂が流れはじめる。じっさいに幽霊をみたというひとが遠い街から現れたが、その幽霊の風貌はアカーキイの姿形とはまったく違っていたという。 カリブ=マーレ―から拝借したという狩撫麻礼の名をみるたびに、私にはそれがカリブ海の南国のイメージとはどうしても繋がってこない。むしろ、なぜだか、狩撫麻礼ときくと大陸を横断してはしる極寒のシベリア鉄道を思い浮かべるのである。
韓国/アメリカでも映画化されたオールド・ボーイの元になった漫画 「嶺岸信明」「土屋ガロン」こと「狩撫麻礼」のサスペンスで主人公 五島慎一 はある日突然誘拐され10年間監禁された。解放された五島が自分が監禁された理由を解き明かすために奔走する。 前半の謎を解き明かす部分の方が好きかな ラスト周辺で監禁された理由が明らかになるが衝撃的な内容だ 「マジでそれかよ」って思うけど、物事は受け取り側がどう思うかだよな
基本的に実写化されて、原作を凌駕することなど皆無に等しいのだが、この作品は実写映画の方が、映画史に残る傑作になってしまったという珍しいパターンの作品である。実写化する際に、原作と違うことは、全く問題ではない。そもそも映画の本質は時間と運動であり、漫画の本質は線とコマ割りなのだからいくら原作をそのままやった所で、画面が止まってスライドショーになってしまう。原作の大事な要素だけ抽出することが大事なのだ。実写版の横スクロールシーンのショットは映画史に残るアクションシーンとなった。漫画に関してはミステリー展開を優先しすぎた結果、人間は普通そんな事でそこまでしねぇよ、という無理のある展開となってしまい釈然としないまま終局を迎える。線に関しては可も無く不可も無くといった所。