これぶっちゃけワンピースだけで長々語れちゃうんだけど、ポリコレ方面から殴るのがでたりで、 純粋に自分の意見としてなぜ今のワンピースがどうしてダメに感じるのか言語化しても、ああいう連中と同一視されたくなかったりで不用意に言えなくなってしまった。 あと下手にまとめブログだのに引用されたくないし匿名で敢えて「ざっくり」ワンピースに関してだけど、グラデーション掛かってて明確にどこからとは言いにくいが、最高潮であると同時にダメに感じる最大のタイミングはマリンフォード頂上決戦。 尾田先生ヤクザ映画の文法使ってる場面多いんだけど、ここで描かれてるのはどう考えても「戦争」なのにヤクザの「出入り」っぽくて、逃げ傷無し!とかネタにされてる敗北者=親分を馬鹿にされた子分が命を省みずって場面も、もはや違和感しか生んでない。 それでもあの辺自体は決戦感で名作なんだけど、そっから先、ドラゴンボールで言えば桃白白やピッコロ大魔王の登場が頂上決戦なのに、未だに死人が喋るギャグ描写が続いてるような違和感が凄い。 ぶっちゃけて言えば1巻から読んでる読者なら頂上決戦で若くても20歳越えてるけど 、読者の成長を考慮してないとしか思えなくなってしまい、その後のエグい筈の描写も解決がチープにしか感じなくなってしまった。
@名無し

マリンフォードがヤクザ映画っぽいっていうのは面白い見方だけど説得力あるな。
逆にアラバスタ編とか空島編は体制に対しての革命とかゲリラ戦みたいな要素も強かったから緊張感担保されてるとかそういうのもありそう。

ヤクザ映画っぽい部分はそれまでも存在したんだけど(ボン・クレーのヒナに対する啖呵とか)、マリンフォードでは完全に浮いてしまってるというか、ヤクザの武勇伝で使われる「前のめりに死ね」「背中の傷は臆病者の証」概念が
卑怯策略当たり前の戦場なのに、背後から切りかかる奴が居ないという(黒ひげの寄ってたかって親殺しというのも卑怯ではあるのだけど)違和感に繋がり、
ネタにされてる「敗北者」も、「親分を侮辱されて子分が己の命を投げ出す」という、ヤクザ物なら定番的な場面が「逃げるが勝ち」「喧嘩で負けても勝負で勝つべき」な戦争的場面と致命的に嚙み合ってない。
それでもマリンフォード以後で正に作中の勢力地図も世界観も大きく変わる予感が(実際勢力地図は変わったが)してたのに、今だに死人もろくに出さないし残酷さも業もぬるいというか、シャーロットにマザーを食わせた事を背負わせたっていいだろうし、マザーはもっと極悪非道な事でもさせてりゃいいのに割に合わなすぎだろ子供を育てる大変さを尾田先生は知らないのかとか、マリンフォードという大事件を過ぎたのに、なにか遊んでるような真剣さを感じられない展開が続いて、限界が来てしまった…。

何というか、マリンフォード以後の展開は全部マリンフォード以前に掲載されていたら素直に燃えていたような気がするんだけど、マリンフォード後にこんなん見せられても、的な感覚を覚えてばかりで…。
ただ大規模な路線変更回が来たと思ったら全然路線変更してないのが明らかになった(そして路線変更に期待していた)のが自分なんだろうけど、実際どの辺で付いていけなくなったのかというとマリンフォード以降徐々に溜まっていってホールケーキ辺りで限界に達したけど、マリンフォード以降すぐについていけなくなったというわけじゃないので、マリンフォード頂上決戦「まで」というのはなんか違うから難しい。

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