名無し1年以上前花のズボラ飯の水沢悦子さんどうしてるのかなと ふと思ってTwitter見たら同一人物説がある うさくんをRTしてて何かほっこりした気持ちに やっぱりそうだと思ってました自由広場独り言広場1わかる
たか1年以上前成り飯おすすめです…! 本格的なヤンキー漫画の画風で可愛い&格好いい男子高校生が沢山出てきます! 頂き!成り上がり飯 https://manba.co.jp/boards/65162自由広場ヤンキー漫画(日常)2わかる
野愛1年以上前この作品について語らずに2020年を終われるか、と思ってたけど2021年を迎えてしまいました。 ほんとうに面白いんですよね。 ほんとうに面白いんですよ。 なんか語ろうとすると結局こうなってしまうんですけど、何がいちばん好きかといったら絵が好きです。 サラッとした現代的な少女漫画の絵でも、ギャグ漫画丸出しの絵でも、ほのぼの四コマ的なゆるい絵でもなんでも面白い漫画にはなるんだろうけど 耽美的で退廃的なしっとりしたタッチの絵が、ホラーとかエログロとかに似合いそうな絵が、シュールさや上品さを上乗せして面白さが倍増してる気がするんですよね。 ほんとうに面白いんですよね。湿度のある絵が女子校にぴったりだ、と思ったけど男子校にもぴったりだった。何を描いても面白いんだきっと。 わたしも星先生の観察日記つけたい。バズーカで命狙いたい。女の園の星面白いとしか言えないので絵柄が好きという話をしよう7わかる
名無し1年以上前可愛いおじさん、女性の格好をしたい男性、男性だけど洋服を作るのが好き…等、昨今マイノリティの自己肯定ものがメディア化されてて生きやすさを感じます。 化粧ケバくていい! ネイル、痛ネイルでもいい!! これドラマ化するんですね〜!いいですね!! 好きなことをしても非難されない、自分も好きだと言える人が増えるそんな漫画・ドラマは是非推したい…だから私はメイクする自己肯定は身の回りから!2わかる
nyae1年以上前一話目を読んで、やはりメイクは人のためにではなく自分のためにするものだよなと改めて思った。 でもたぶん、一話の主人公のように、すっぴんを千原ジュニアだと言われて彼氏に逃げられて「やっぱ自分のメイク力すげえ」には、普通はならない。笑だから私はメイクする化粧は自分のためにするもの2わかる
あうしぃ@カワイイマンガ1年以上前SM漫画としては、例えばスパンキングを見せておいてからのソフトな首輪束縛といった誘導や、各話間の注意書きやTipsにリアリティが……あるのかなぁ、私も成人漫画かビデオ位でしか知らないので……。 しかしここに複雑な「百合」関係性を織り込んで、特殊性癖を切ないドラマにして、心に刻み付けて来る。 登場人物は ●初恋相手に再会した高校生・更紗(S) ●更紗の1歳年上で初恋相手・澪(?) ●更紗の妹の中学生・桃乃(M) ●桃乃の級友でクラス委員・立花(?) とある事情から、短い期間で澪との関係を構築したい更紗。更紗と澪が近づく事で暇になった桃乃と、不真面目な桃乃を更生させたい立花。 描かれるのは「相手に踏み込みたい、何とか繋がりたい」という切実さ。それがSMプレイに込めて伝えられる時、昂る感情はエロスと噛み合い、巨大感情へと育って行く。 真摯さとインモラル、甘い恋とエグい性欲。そんな相反する物、あなたには無いか?と突き付けてくる。私と本気で繋がる気なら、私の中の異常性に踏み込んでよ、と。 (SMとしてはソフトだが)肉体的にも精神的にも痛々しい描写達。しかしこの痛みでしか、伝わらない感情がそこにはあった。百合SMでふたりの気持ちはつながりますか?オカシな私に、踏み込んでよ #1巻応援2わかる
影絵が趣味1年以上前壮麗なものには隠然として、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められ、夜光のような輝きを放っている。いまもし、壮麗なものを世上の謂うところに従って、崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものであるとしてみよう。たんなる空しい語彙の置き換えに終わって、壮麗なものを壮麗なものたらしめる、夜光のような輝きを放つことはできないであろう。それでは、壮麗なものとは崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものではないというのか。邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものであるというのか。 森敦『意味の変容』より ショージ秋山の『アシュラ』が人肉食などの過激な描写により世間からの非難が殺到して有害図書指定を受けてから、もうずいぶんとながい月日が経った。有害図書とはじつにセンセーショナルな言葉である。事実、ジョージ秋山は有害図書指定を受けて一躍時の人となったようである。けっして『アシュラ』という作品そのものが話題にされたのではなく、導入の人肉食の挿話と有害図書ということばかりが人目に浮上して晒されてざわついたようである。まさにセンセーショナルな言葉が問題を生じさせ、そうして生じさせられた問題がまたセンセーショナルを呼ぶ、むなしい言葉の空転である。そもそも問題など初めからどこにもなかったのである、誰も『アシュラ』など読んではいなかったのだから。読んだという人が仮にいれば、その人は、そおっと、その本を慈しむように閉じるだけである。 ほんとうの優しさとは、いったい何であろうか。たとえば、困っている人がいたら助けてあげることだろうか。それとも、子供の心の成長に害を与えそうな本を予め取り除くことだろうか。私はそのどちらともをひとしくほんとうの優しさだとは思わない、それらがまったくもって善行のひとつに数え挙げられ得ないとは言わないが、私はそれらをひとしく一時的な対処であると思う。あるいは、困っている人が目の前にいて、助けてあげたい気持ちはあるのだが、自分にはそんな余裕のない場合はどうなるのか、それはけっして優しさではないと言うのか。もしくは、けっきょくは共倒れになるのを承知で人助けにでる場合はどうなるのか、それはほんとうに優しさであると言えるのか。そもそも、私たちにとって困っている人とはいったい何なのか、子供にとって害になるものとはいったい何なのか、なにか仮にも定められた平均値のようなものがあり、そこから陥没しているものを平均値にならしてあげることはほんとうの優しさなのだろうか。 こうまでして、まわりくどく優しさというものについて言及してみるのは、私は他でもない、この有害図書に指定された『アシュラ』からたいへんな優しさを感じたからです。この有害と言われた『アシュラ』から滲みでる優しさとはいったい何なのだろうと思うのです。もしかすると私の頭が狂っているのかもしれません。 アシュラはまさに世上の謂うところの崇高なもの美麗なものからはかけはなれた怪異なもの頽廃したものとしてまず私たちの前に姿を現します。それは仮に平均値というものを設定すれば陥没した存在としてあることになるでしょう。それからアシュラは人をも殺める壮絶な人生を経て、さいごには法師に導かれて仏門に入り、「命」という名前をはじめて授かることになる予定だったのですが、その結末は連載の中止により叶わないものとなりました。しかし、アシュラが導かれることになる仏門とは、宗教とは、私たち人間にとってひとつ崇高なものであるでしょう。つまり、アシュラは怪異なもの頽廃したものを経て、奇遇ながら、その反対概念であるところの崇高なものに辿り着く。しかし、それでは、壮麗なものとはいったい何なのか。怪異なものも、頽廃したものも、崇高なものも、美麗なものも、どれもひとしく壮麗なものとは似ても似つかないのです。私には壮麗とは「命」そのものであると思います。あるいは怪異であったり、あるいは頽廃していたり、あるいは崇高であったり、あるいは美麗であったり、あるいは怪異から崇高に転じたりする人生の奇遇さそのもの、もっといえば、地球の奇遇さそのもの、この宇宙の奇遇さそのものであると思うのです。怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉は壮麗な「命」そのものを測るために仮に定められた単位でしかないと思うのです。そして、アシュラは「命」と名付けれらたとき、怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉から解き放たれて自由になり、言葉や概念や単位のベールを介してではない壮麗な「命」そのものとしてはじめて見られるようになったのではないかと思うのです。 『アシュラ』から滲みでる優しさとは、この壮麗な「命」そのものを言葉や概念や単位のベールを介してではなく、じかに直接直視しようとする試みにあるのではないかというような気がしています。それは平均値も陥没点もありえない、底の最底から、すべて有象無象の「命」そのものがいっせいに自然に盛り上がり膨張して炸裂していくかのような凄まじいまでの肯定の姿勢であると思います。そこにはあるいは自然があらゆる「命」に強いる死すらも含まれる凄まじいまでの肯定の姿勢。私はこの肯定の姿勢をほんとうの優しさと言いたい。あるいはその肯定の姿勢とは、ありとあらゆるものは、何かの枠組み(言葉や概念や単位といったもの)に括られることなどあり得ず、すべてがそれぞれにちがっているということだけにおいてはひとしく肯定されうるということでもあるかもしれません。 ところで、とうとうアシュラには与えられなかった「命」という名前をジョージ秋山は自身の息子に与えることになります。そのことについては、『アシュラ』とは違った観点でまた素晴らしいマンガといいたい漫画家二世をインタビューする田中圭一の『ペンと箸』 http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1742 によく描かれています。寡黙で厳しい印象であった父親ジョージ秋山に、大人になった息子さんはある日いうのです。 「オレの名前の由来、命を大切に、じゃないよね」 「じゃないよ」 「命がけで生きろ、だよね」 「ああ、そうだ」 私はここを読んだとき、もう、涙が止まらなくなって大変なことになりました。その後、息子の命さんは『アシュラ』をアニメ映画化することになります。そのキャッチコピーが「眼を、そむけるな」であったことにも涙したことを付け添えておきます。ほんとうの優しさとは、まさに、何事からも眼をそむけないよう試みることであると思うのです。アシュラほんとうの優しさとは何か。5わかる
狐優曇華1年以上前正直こんな女性いないだろと思いつつ、いたら面白いなぁとも思えてしまう、そんな女性が主人公 これはある意味男性の理想の女性の一形態であると思う。また、女性がこの漫画を読んだらどう思うかを知りたい気がする。ちひろさんファンタジーではあるものの2わかる
かしこ1年以上前表紙にちっちゃく「※本品はギャグ漫画です。誤って読まないよう劇画ファンの手の届かない所に保管して下さい。」って注意書きがあるけど、全編こういう感じのノリなんですね。そもそも課長ですらなかったし、課長補佐代理心得だし。笑 最初の方は、雑誌を読んでると人気作とか長期連載作の合間に載ってる箸休め漫画だな〜と思いながらダラダラ読んでたけど、社内野球大会の話が続いたところ位からこの漫画の楽しみ方が分かった気がする。なんとなく話の見せ方が似てるので「アフロ田中」を思い出した。 どうでもいい事だけど『爪楊枝に彫られてる意味のない溝』のネタが好きなのかな。「ドリーム職人」にも「だぶるじぇい」にもあった…。課長バカ一代厳密にいうと課長ですらない1わかる
にわか1年以上前誰にどういうシチュエーションで持っていくかまで考えられているため、ただのグルメ漫画でなく、きちんとした「お土産漫画」として成立している。お土産にまつわる雑学なども面白い。個人的にはニッチな文学の話も興味深かった。もっともっと読みたかったが、三巻完結。まぁ腹八分目がちょうどいいということだろう。おもたせしました。ただのグルメ漫画じゃない『お土産漫画』4わかる
名無し1年以上前主人公の寅子さんは文学とか出版業界とかの業界で 働いているらしく、資料の貸し借りなどでなにかと 他家を訪問することが多いみたい。 そして必ず手土産として食べ物を「おもたせ」する。 少しだけ一般人とは違うハイソな世界のようにも感じるし、 「おもたせ」するものも少々値が張りそうなものが多い。 だが気取ったり嫌味な感じはまるでない。 そして食べ物話からの繋がりで文学作品の話題等に なることも多いが、小難しい文学論にはならず、 文豪や当時の庶民の穏やかな日常を思い浮かばされる。 小粋でオシャレな話だが、お高くとまった点はまるでない。 いいお土産、いいお土産話を読ませてくれる漫画だ。 おもたせしました。ただのグルメ漫画じゃない『お土産漫画』5わかる