吉川きっちょむ(芸人)
吉川きっちょむ(芸人)
1年以上前
『子供はわかってあげない』の田島列島先生4年ぶり新連載、別マガで『水は海に向かって流れる』 受験で入学した高校へ通うにはおじさんの家の方が便利だったため実家を離れそこで暮らし始めるが、行ってみるとおじさんの家は空き部屋を複数人に貸している下宿だったので、個性的な住人と交流をすることになるのだった。 という感じのいわゆる下宿ものの話かな?とまだまだどう転ぶか分からない1,2話目。 でも待ちに待った新連載で嬉しい。 同居人である26歳OLの榊さんが、過去にすこし関係していて不穏さが漂ってたり、主人公の少年が絵を描いてたけど受験でやめたっぽいような軽いフリがされているので、部活でどうなっていくのか気になるところ。 ちょいちょい挟まれる小ネタのようなものがいい。 「ポトラッチ」なんて文化初めて知った。 またほんのちょっとした人物の所作が美しくて愛おしい。 主人公もわりとのんびりしているようなのでゆったりとした気持ちで読めるのがうれしい。 どうやら次号3話目で下宿の登場人物が勢揃いするっぽいのでそれも楽しみにしつつ、猫の話で可愛い子と簡単に話せてしまった少年の学園生活やいろんな大人に囲まれた下宿生活がどう人間関係や成長に関わってくるのか、思わぬ事実を突きつけられたときどう反応するのか、楽しみ。 タイトルからして、なんでも最終的にはいくとこにいく、なるようになるという暖かく緩い感じなのか。 下宿とか寮のような共同生活を描いた漫画は好きなのがちょいちょいある。 『めぞん一刻』、『ツルモク独身寮』、『僕らはみんな河合荘』、『椿荘101号室』、『公園兄弟』、『ゆうべはお楽しみでしたね』などなど。 最近出たものだと『コノマチキネマ』とか。 やはりどれでも描かれるのは個性的な住人との交流とその悩み、絆、助け合い。 かつての昭和的な下宿ではそういったことが当たり前であったわけだけど、現代において下宿というものは果たしてそこまで機能しているのか。 というのも、僕は何年か前まで、風呂無しトイレ共同の古い下宿のようなところに住んでいて、1階が大家さんで2階に4世帯しか入っていない古き良き木造の家だった。 住民同士の季節の変わり目などのイベントでの交流を期待したりもしたがそういったことは全くなく、男女の出会いを期待するも住んでいたのはずっとむさい男ばかり。 壁が薄いので、隣のおじさんがトイレに立ってじょぼじょぼーっとおしっこの響きで目が覚めることなどしょっちゅうだったけど、常に何か音が聞こえることもあって一人で寂しいという感覚はずっとなかった。 住み始めて約5年で、夏にエアコンが無いから暑くて死にそうという理由から退居したが、結局最後まで共同の靴箱がある玄関にはあった大きい黒板が使われることはなかった。 こういった漫画の、ある種、下宿や共同生活の理想像を描いてくれるのは嬉しいし大好きだが、現実とは微妙に乖離した神話だよなーという諦めもあります。 下宿生活ファンの方は、実践にはぜひお気をつけ下さい。 漫画と全然違うことばかり書いてしまった・・。
(とりあえず)名無し
(とりあえず)名無し
1年以上前
この、今からちょうど半世紀前に描かれた作品の、背景描写やコマ割り・画面構成を見ると、そのあまりの強烈さに茫然とする。 石森(石ノ森)章太郎の凄さというのは、現代の読者にはあまりよく分からないと思うけれど(いや、自分もそうです。特に晩年の「HOTEL」とかを読んでも、別になーんにも感じません)、彼が、手塚治虫が驚愕し嫉妬するほどの途轍もない才能であったことを、まざまざと見せつけてくる。 (いや、『仮面ライダー』や『ロボット刑事』の漫画版導入部とかも、酔っ払っちゃうくらいカッコイイですが) とにかく、同時期に描かれた他の漫画作品と比べてみると良い。まったくクオリティーが違う。 『リュウの道』は、劇画の興亡や『AKIRA』の衝撃を経てデジタル作画全盛になった今の目で見ても、少なくとも「画」的には、まったく「古く」なっていない。充分に刺激的だ。 50年前ですよ、50年前。 凄いとしか言えない。 以下、余談を。 この『リュウの道』の大ゴマ使いは、当時の同業者から「手抜きだ!」と言われていたと聞いたことがある。 その意見もまた、時代の中で正しいものかもしれない。あくまで今の目で見て刺激的ってことかもしれないですから。 でも、先進性ってのは、そういうことでもあるんですよね。 石森章太郎の絵的な天才性を知りたい人は、『オバケのQ太郎』の初めのほうを読むのが、一番簡単です。 オバQは「藤子FがQ太郎、藤子Ⓐが正太、北見けんいちが背景、石ノ森章太郎とつのだじろうがその他の人物を描いていた」(Wikipediaより)というのは、なに気に有名なのですが、石森の描くモブっぽいキャラだけ、本当にケタ違いに柔らかで活き活きとしているのが、はっきり分かります。メインキャラを描いている藤子ふたりとベーシックな作画能力が違いすぎるのが、なんとも言えない気分になります。 (藤子おふたりも、後にもちろんそれぞれ異なった形で素晴らしい進化を遂げるのですが)