私的漫画世界|鳥山明|ドラゴン・ボール
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鳥山明は子どもの頃から絵を描くのが好きで,高校卒業後にデザイン会社に就職します。しかし,サラリーマン生活にはなじめず2年半で退職し,現在でいうフリーターのような生活を送ります。
経済的に苦しくなったとき,「少年マガジン」の新人賞の募集を知り,23歳で初めて本格的な漫画作品を描き始めます。このときの作品は少年マガジンの新人賞には間に合わず,新人発掘に力を入れていた「少年ジャンプ」に投稿することになります。
当時の鳥山の作品は新人賞のレベルには達していませんでしたが,編集者の「鳥嶋和彦」は鳥山の絵とアルファベットで表現されている描き文字にセンスを感じ,「今は下手だが頑張れば何とかなるかも」とアドバイスし,鳥山は彼の指導の下で漫画家修行を続けることになります。
人生には運命的な出会いがありますが,鳥山にとっては鳥嶋との出会いがその後の漫画家人生を決めることになりました。彼との出会いがなければ,「Dr.スランプ」や「ドラゴンボール」は生まれなかったことでしょう。
もっとも,鳥嶋氏は原稿に対して「ボツ(不採用)」を出すことが多い超厳しい編集者として知られており,鳥山も1年間に渡りその洗礼を受けることになります。
その甲斐あって1978年に読み切り作品「ワンダー・アイランド」が「週刊少年ジャンプ」に掲載されて漫画家としてデビューしましたが,アンケート結果は最下位であり,その後に発表した短編作品の人気も低迷していました。
この頃の作品は「鳥山明○作劇場」に収録されており,彼の作品スタイルがそのまま出ている楽しい作品なのですが,少年ジャンプの読者にはちょっとすまし過ぎという評価になるのでしょう。当時の少年ジャンプの読者層を考えると,分かりやすいこと,強さを前面に出すことが必要だったのでしょう。
最近の「少年ジャンプ」の読者層調査では小中学生の占める比率は約60%となっています。30年前は団塊の世代の子どもたち(団塊ジュニア)がいましたので,この比率はもっと高かったと推測されます。鳥山の作品は物語の背景が子どもたちには分かりづらいところがあり,そのあたりが低い評価につながったのでしょう。
1980年開始の初めての連載作品「Dr.スランプ」はタイトルの通り,自称天才科学者の則巻千兵衛を主役と考えていましたが,鳥嶋のアドバイスにより少女アンドロイドの則巻アラレを主人公にすり替えました。これが大当たりとなり,少年ジャンプの人気作品となります。
初の長期連載ということでこの時期の鳥山は多忙を極めたようです。wikipedia には「連載1年目は3日に1回しか寝ることができなかった」というエピソードが掲載されています。
鳥山独特のギャグと丁寧な絵柄,アラレの発する奇妙な言葉,アラレの破壊的なパワーにより連載は4年半に渡ります。第27回(1981年度)小学館漫画賞を受賞し,単行本の累計発行部数は3000万部,TVアニメ化された「Dr.スランプ アラレちゃん」の人気も高く,集英社の看板作品となります。
しかし,ギャグのネタが切れたため1984年に終了させます。「Dr.スランプ」の終了は集英社の経営にも響くことになり,次の作品をすぐにスタートさせることが終了の条件となっていたようです。終了は少年ジャンプの39号であり,次作となる「ドラゴンボール」は同年の51号から連載が開始されました。