高浜寛先生は長崎を舞台にこれまで二つの作品を描かれてきました。手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞された『ニュクスの角灯』は有名かと思いますが、一作目は長崎・丸山遊郭の遊女である「几帳」が主人公の『蝶のみちゆき』です。今作の『扇島歳時記』はこれら長崎三部作の最終節になります。時系列で言うと『蝶のみちゆき』『扇島歳時記』『ニュクスの角灯』になりますが、読む順番はあまり気にしなくてもよいと思います。むしろ未来から過去にさかのぼって読んでいくのもありかもしれません。『扇島歳時記』で主役になるのが全作品に共通して登場する「たまを」で、遊郭で生まれ育った彼女が大人になるまでの物語なのですが、他の二部作をすでに読んでいて先の展開を知っているからこそ、どう繋がっていくのか楽しみです。個人的には『蝶のみちゆき』が大好きなので「几帳」が登場してくれたら、もう他に何も言うことはないくらい嬉しいのですが。
「ニュクスの角灯」で第24回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞された高浜寛先生ですが、こちらの「SAD GiRL」でも第21回同文化賞にノミネートされています。しかし「ニュクス」から高浜作品を読んだ人はちょっと驚かれるような内容なんじゃないでしょうか。印象としてはとても暗くて重い話だと受け取られるかもしれません。でも高浜先生の本流ってこっちだと私は思うんです。絶望のただ中にいる人間には希望なんて届かないという悲しい現実を知ってる人だから。そういう人の「生きていこう、まるで挫折したことがないかのように」という言葉には信じられるものがある。たまにお祈りみたいに思い返したりします。
原作小説は未読だったのですが高浜寛先生のファンとしてとても楽しめた作品。高浜先生は思春期の頃から小説を読んでいて思い入れが深かったと書かれていましたが、自分が一番好きな短編集「イエローバックス」の雰囲気にちょっと似ているなと思いました。デビュー時から感傷とか老成とかを描かれるとピカイチでしたからね。フランスではかなり取材を受けられていたようなのでフランス語がわかればなぁ…と悔しい思いです。こんなに現地で話題になるのは原作小説ファンも満足する素晴らしい漫画化だからでしょうね。日本のメジャーなストーリー漫画を意識して描かれた「ニュクスの角灯」とほぼ同時期に「愛人 ラマン」のような漫画にも取り組まれる高浜先生はやっぱりすごい作家だなと改めて思いました。
舞台は明治の長崎。西南戦争で親を亡くし、叔父の家で世話になることになった少女・美世。彼女には「触れた物の過去や未来の持ち主が分かる」という神通力があった。その能力を買われて、店主・小浦百年がパリで仕入れてきた最先端の品々を取り扱う道具屋「蛮」で奉公することになった彼女の物語。 当時の長崎の風景を丁寧に表現していたり、実在の人物も登場したりして、基本的には明治時代の雰囲気に忠実な作品なのですが、美世の"神通力"という設定もあり、若干のファンタジー感を漂わせながら物語は進み、そのなかで主人公・美世の人間的な成長が描かれていきます。序盤は"神通力"のファンタジー感もあって不思議な魅力のある作品だと思っていたましたが、巻が進むにつれて美世の人間的な成長を中心とした重厚なヒューマンドラマが描かれ、確かな魅力のある作品に変わっていきました。 また、実は美世の"神通力"にはある秘密が隠されているのですが、その秘密が明かされた時に美世の最も大きな成長が見られ、更にそれが最終盤になって活きてくるという、仕掛けの巧みさも兼ね備えています。 私は単行本を1巻から追っていたのですが、美世の人間的な成長と世界観の広がりを読み取れるため、また時間の流れを作品全体から感じられ、読み終わった瞬間また最初から読み始めたくなる作品なので、ぜひ全6巻まとめ読みで読破してほしい作品です。 全6巻読了。
スランプで描けなくなったフランス人漫画家が、作家としてデビューするきっかけをくれたゆきずりの日本人女性を探しに、数十年の時を経て彼女の暮らす街にやってくる。再び人生に迷った彼は別れ際に手渡されたメモをヒントに何もない田舎を探し回るが、かつて幸運をくれた彼女を見つけ出すことができるのだろうかー、というお話。 煮詰まってる現状から抜け出したいなら、この漫画の主人公のように自分の人生の転機をなぞる旅をしてみると気も晴れるかもしれない。 人生の機微をどうしてこんなにユーモラスかつ情感豊かに描けるんだろうか!一本の映画と同じくらいの熱量がある。どちらが優れているという話ではありません。でも、高浜先生の作品は漫画の枠だけじゃ語れないと常々思ってるんです。
夜、わたしは住宅ひしめく町の、とあるアパートの一室に居て、部屋の電気をパチッと落とす。部屋はまっくら闇になる。それから蝋燭に火を灯してみる。周囲がぽわーんと仄かにあかるくなる。火の種は微かに揺れて、それに合わせるように周囲のあかるみも微かに揺れている。 高浜寛のマンガは、そんな揺れうごく火の種から、さながら幻影のように浮かび上がってくるかのようである。 わたしたちは日頃、何の疑問も持たずに、白い紙に黒い線で描かれたマンガなるものを読んでいるが、まず光の問題というものがある。目は、眼球というものは、光を通してでなければ対象をみることができないのだ。あるいは心の目にも似たようなことがいえるかもしれない、まず観照という光があり、それに照らされてはじめてイメージが浮かび上がる、照らされなければそこには闇が蠢いているばかりである。しかし、この闇というものからしてすでに光の生産物ではないか。光があればこそ、そこには闇があるということがみえる。光の前では、闇すらもそこらじゅうの対象と何ら変わりなく照らされるものでしかない。そうであれば、実は、光と闇は二項対立ではないのではないか。光と闇があるのではなく、まず、光がある。闇はその光により照らされてはじめて見られるものとなる。では、その光はどう見ればいいだろう、その光を照らす光はないのである。つまり光それ自体はどうしても見えない。光に照らされた対象をみることで、間接的に光を感ずるほかないのである。 マンガとは、ひとつにイメージの具現化である。イメージそれ自体と、描かれて具現化されたものとは当然異なってきてしまう。もっといえば、描かれたものと、読まれてイメージされたもの、これも当然異なるものになる。しかし、イメージしたものをありのままの姿で具現化したいというのが作家の本心ではないだろうか。そして高浜寛の場合は、その具現化したいイメージそれ自体に、まずイメージが光によって照らされて結ばれるまでの過程が含まれていたのではないか。高浜寛のあの特異性、黒い頁からコマが浮かび上がってくるかのようなマンガの描き方、なぜ高浜寛がほかに類を見ないこのような描き方をしているのかは、ひとえにまず光があるという問題から来ているのではないか。
老人ホームにて万年寝たきりの爺ちゃんがいきなり飛び起きて走り出し叫んだ「人が倒れてる!もしかしたら死んでるかもしれん」。死んでるかも疑惑を持たれたえっちゃんは、同僚の旦那と浮気したことがバレて無断欠勤5日目中に泥酔して、ただ沼で寝ていただけなのでした。そこに爺ちゃんの元カノが現れて「ただひとつだけ…正気の彼に聞いておきたいことがある…」と奇跡の再現を頼みます。タイトルの「泡日」は死ぬ間際に思い出すような、幸せだった日々のことかなと想像します。 この表紙に惹かれて高浜寛さんの作品を初めて読みました。女の子とピンクのニットのセンスが最高でしょ!作品を読む前と読んだ後で全然違う自分になっちゃうくらいの出会いはやっぱり忘れられない。
もう別れることを決めた夫婦が最後に温泉旅行にいく。漁村の女が年に一度だけ会いにくる男との関係を断ち切ることを決める。女子中学生の気まぐれなときめきが冷めて振られる男。嵐が通り過ぎた後の終わり時々を描いていた短編集。 日々は波が立っては引くを繰り返すことの積み重ねだけど、自分が凪でいる時は意外に気づいてないかもしれない。
江戸末期の長崎・丸山という花街を舞台に、絶世の美女と謳われた一人の花魁と、彼女を巡る悲しい純愛の物語。街並みや遊女独特の言葉遣いだけでなく、伽羅の匂いや三味線の音など、画面には表れないところまで時代の雰囲気を醸し出す細やかな描写がなされています。 同じ作者の「ニュクスの角灯」へのクチコミでも同じことを書いたのですが、人間の美しい部分、ピュアな部分を描くことに物凄く長けた作家さんだな、と感じました。読み終わると心が洗われてるんですよね。 主人公の几帳太夫が同僚に二股をかけられているのを目撃して告発する場面も、その一見派手な事件そのものよりも、敢えて傍観者である几帳や彼女の甥っ子の心情に寄り添って描いていたのが個人的にすごく印象的でした。それに加えて本書のあとがきを読むだけでも、想像力と情緒に溢れそれでいて卓越したバランス感覚も兼ね備えている作者の人柄が垣間見える気がします。 毒気がないにもかかわらず、こんなにも面白くて切なくて引き込まれる。この魅力こそ、今国内でもっと評価されてほしいなと思う作家さんです。
恥ずかしながら今まで高浜寛作品を読んだことがなかったのですが、最近読んでクチコミを書いた中では映画大好きポンポさんに匹敵する面白さでした。海外でも高い評価を得ているのも当然ですね。 http://to-ti.in/product/nyx ここで2話まで読めるので内容については割愛しますが、話の面白さ以外に驚いたのが「どうして女の子がこんなに可愛く見えるのか」という点でした。顔のパーツが近くなく大きくなく、頭身も高い。「女の子を可愛く描くセオリー」の真逆を行ってるのに可愛い。華奢な骨格と輪郭、柔らかい髪、身長差からくる自然な上目遣い、、、宮崎駿氏風に言うなら、人間の観察に基づいて描かれているからこれほど愛しく思えるのかもしれません。 人間の醜さダサさキモさにクローズアップして精密に描いた漫画って結構見かけるんですけど(花沢健吾とか浅野いにおとか)、愛嬌とか美しさをいっぱい描いたこういう漫画もっと増えてほしいなって思います。
高浜寛先生は長崎を舞台にこれまで二つの作品を描かれてきました。手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞された『ニュクスの角灯』は有名かと思いますが、一作目は長崎・丸山遊郭の遊女である「几帳」が主人公の『蝶のみちゆき』です。今作の『扇島歳時記』はこれら長崎三部作の最終節になります。時系列で言うと『蝶のみちゆき』『扇島歳時記』『ニュクスの角灯』になりますが、読む順番はあまり気にしなくてもよいと思います。むしろ未来から過去にさかのぼって読んでいくのもありかもしれません。『扇島歳時記』で主役になるのが全作品に共通して登場する「たまを」で、遊郭で生まれ育った彼女が大人になるまでの物語なのですが、他の二部作をすでに読んでいて先の展開を知っているからこそ、どう繋がっていくのか楽しみです。個人的には『蝶のみちゆき』が大好きなので「几帳」が登場してくれたら、もう他に何も言うことはないくらい嬉しいのですが。