にっぽん競馬伝

まさか電子版が出るとは…

にっぽん競馬伝 あべ善太 篠原とおる
ピサ朗
ピサ朗
ウマ娘効果かは判断できないが、マジか!?と驚いた。 説明しておくとこの漫画の原作者であるあべ善太氏は、味いちもんめや寄席芸人伝の原作者で、競馬好きとしても知られた方で、本作は純粋に競馬題材として原作を担当された作品。 存在だけは知っていた物の、他作品に比べて全く見かけず、読めなかったのだが、最近電書化した事からこの度読んだが、中々面白かった。 大体は競馬記者の今西記者が狂言回しとなって、様々な競馬に関わる人々のあれこれを描いていく一話完結物だが、エピソードによって主演も変わるので、これと言った主人公は不在にも感じる。 また登場する馬は、ほぼエピソードの為に作られた架空馬だが、明らかに現実の馬のエピソードを参照しており、参照馬の名前は大抵触れられていて、インターネットも無い時代で年代の近い馬はともかく、過去の馬の資料をしっかり拾ってるのには驚く。 しかし凄いのは競馬文化のあれこれを余すことなく描き切ろう、と言わんばかりに扱ってる競馬の題材が広い事である。 騎手や調教師、馬具の職人、馬主に馬にドラマを感じる観客、そういったものを題材にするのは競馬漫画ではありがちだが、なんとこの作品、地見屋(当たり馬券を拾って換金する人)や、馬場造園課(芝の手入れ人)に至るまで題材にしているのである。 コレは正直驚いた、特に地見屋なんて自分が競馬をやってた時期には見なくなっていたし、違法行為スレスレなので否定的な目線を持っていたからだ。 しかしとにかくそういう部類の人間に至るまで題材にして、しっかり人情ドラマに仕立てている辺り、流石はあべ善太と言わざるを得ない。 面白いのは、あべ善太氏は懐古主義的というか最新テクノロジーを嫌っていたふしも有るためか、消えゆく文化と分かりつつも馬券の窓口購入を題材にして話を作っているのだが、コレが結構解説されていて、ある意味貴重な史料になっていた。 流石に現在とは競馬を取り巻く事情も変わっているが、競馬場の中も外もよく観察されているのが分かり、視点も見事で作者の競馬愛が伝わってくる。 人気的には芳しくなかったのかもしれないが、こうやって電書版がでる辺り一定の評価はされていた作品だと思う。
新・味いちもんめ

料亭漫画としては〇、続編としては×

新・味いちもんめ あべ善太 倉田よしみ 福田幸江
名無し
原作者の死去に伴い、新たな原作を付けた上で続編として始まった味いちもんめだが、正直「何故続編にした?」としか言いようがない。 原作者の料理知識自体は豊富なのだろうし、あべ善太ではない以上舞台を一新する必要もまぁわかる、煮方の伊橋を追い回しにするのも引き延ばしや成長物語色を強くする措置だろうし、決してそこまで話のレベルが低いわけではない。 しかしとにかく違和感が悪い意味で強すぎる、無印はそもそも後2,3年で終わる予定だったのが見え隠れする伏線が貼られ始めていたので、成長物語にするには5巻前に原作者が死んでいるならともかく、死去したタイミングから言ってもかなり無理があるし、 性別を理由にしたくは無いが、無印では風俗や競馬、落語といった親父臭い、男臭いネタも有ったのに原作者が女性だからか舞台が変わったからかそれらはほぼ無し。 ただ、これに関しては一応時代的にも風俗ネタは扱いにくくなっていた時期ではあろうので、判断が難しいが。 そもそも無印でこれらのともすれば低俗な話を用いたネタをあべ善太氏が好んでいたのは、引き出しもあるにせよ無印は反権威主義的な色彩を帯びているエピソードも多いが、連載の長期化や説教臭い回を出す度に自分自身が権威化することを恐れていたのではないかと思える部分が有り、新・味いちもんめは後半になるほど、上からの言葉と感じられ説教臭い回が素直に受け取れなくなっていて、もしも意図的に自らの権威化に注意を払っていたのなら原作者の力量に差を感じざるを得ない。 無印キャラの再登場も少なく、やはり別物として見るべきなのだろうけど、別物として見るにはタイトルも作画も味いちもんめである以上無理があり、その違和感を上手く擦り合わるのも失敗していて後半になるほど話の良さより違和感が気になってしまう。 ただし無印は良くも悪くも古い時代の作風で、こちらの方が時代に合わせようとしている感も有るので、こちらの方が合う読者も居そうではある。
味いちもんめ 独立編

描ききらないから感じとれる「店」の味わい

味いちもんめ 独立編 あべ善太 倉田よしみ 福田幸江
名無し
「味いちもんめ」は料理マンガとして長期連載に至っている 和食と人間ドラマを描いているヒット作。 だが自分としてはラーメンとかカレーなどに比べれば 日本料理屋の和食は親しみもインパクトもない料理の話で、 あまり興味を引かないマンガだった。 和食はどーたら、とか小難しいと感じたし。 人情ドラマとしてもそれほど深くないし、と感じて。 なので大体の登場人物達やマンガとしてのスタイル、 おおまかな話の流れは知っている、という程度でいた。 嫌いではないけれどもスペリオールを読む機会があるなら読む、 という感じだった。 たまたま「独立編」の単行本を読む機会があり 「お店の経営とかも絡む話になったのか。  それなら面白いかも。」 と1巻から6巻まで読んでみた。 面白かったし、自分の理解が色々と足りなかったんだな、 ということが判った。 それまで自分好みではないと感じていた要因として 「マンガとして絵の表現が少ない」 「セリフで説明をするシーンが多すぎる」 と感じている部分があった。 添付した画像は独立編の第4巻の1シーン。 こういう場面だったら自分としてはマンガだったら 「通常の和食技術で鮟肝を調理する絵」 を描き、その次に 「フランス料理でのフォワグラを調理する絵」 を描くのが、文章だけでなく絵で表現できる マンガならではの手法だし、良さだし、 そうすべきだ、と思っていた。 セリフで説明するのは芸が無い、 絵も活用して判り易くしてこそのマンガだろ、と考えていた。 例えば「美味しんぼ」とかはそんな感じの 話の展開が多かった。 場合によっては「口で説明するのは簡単なんだが・・」 とかいって山岡さんは話を打ち切って、 わざわざ北海道とか九州とかに直接に行って 「現地で実際に見て説明する話」 にしてまで絵的に表現するマンガだった。 なかには超能力者を登場させて時と場所を超越して 登場人物がその目でそれを見ているから、と絵的に 表現する話もあったりした。 そういう話と「味いちもんめ」のセリフ過多?の 話を比較して改めて 「どっちがリアルなんだろうか」 という点で自分は考え直すところがあった。 いまは「味いちもんめ」のほうがリアルだと思う。 実際に料理店で料理を味わっているときに、 どんなに美味しい料理を出されても、 意識が別世界に飛ぶということは殆ど無い。 頭の中に調理人が料理を作っている光景が浮かぶとか、ない。 よし現地に行って確認しよう、なんて思わない。 やはりその店のその席に座り箸を握り椀を持ち、 店内のBGMや周りの会話も耳にし、 カウンターの向こうの板さん達の仕事振りも見て、 お店全体の雰囲気に包まれながら料理を味わうのが普通。 そういった、皿の上だけでなく店全体を味わう感じ。 知識を得るのではなく店の雰囲気を味わうのが大事。 突然にフランス料理の絵なんか見せても、そんなマンガじゃ、 日本料理の店の雰囲気を伝えられない。壊すだけ。 その辺をリアルに感じさせてくれるマンガかもしれない、 そう思ったりした。 (直接に現地に行っちゃう、という展開も  だからマンガは面白いという面はあると思います) 料理や調理方法を正しく理解するということと、 お店に入って料理を味わうということ、 それぞれは微妙に違うし、現実には 料理は皿の上のものだけで味わうのでは無く そのお店の全体の雰囲気の中で味わうもの、 その点が、重要視すべきで現実的なんじゃないか、 そこらへんも含めて「味いちもんめ」は 「店の味」を描いて伝えたいマンガなのではないか、 そう思いました。