線セーショナル6ヶ月前水木しげるの最高傑作は何かと問われた時に私は貸本版の悪魔くんであると断言したい。悪魔くんの千年王国以後のバージョンは凡庸な勧善懲悪に成り下がっていて物語の奥深さがない。貸本版の後に描かれた松下一郎版の千年王国は水木以外の線が入っており、さらに悪魔くんによる革命が達成されたかの様に物語が終わってしまう。この終わり方ではまるで、過剰な左翼思想、革命、70年代の学生運動を肯定してしまっている。 しかし、貸本版の悪魔くんは結局最後に殺されてしまうという終わり方が、アリストテレス的に言う所の、悪は過剰に宿るというテーマを物語で提示していることとなり、人々が受容する物語としてはこちらが正しい。さらに貸本版の悪魔くんの重要な所は世界を救うため悪魔を召喚したら、その悪魔はなんとただの口のうまい金に汚い凡庸な人間が召喚されるという所。そして水木しげる一人で描かれた描き込まれすぎていない、美しいバランス感覚の線によって物語に流れる深く緩やかな線で世界観を表現している。貸本版悪魔くん 【水木しげる漫画大全集】革命的な漫画39わかる
線セーショナル6ヶ月前諸星大二郎という作家は他の追随を許すことのない唯一無二の作家である。これは海外の異端な芸術家、映画監督、文豪、音楽家に広げても諸星大二郎の独創性を上回る作家など殆ど存在しない。妖怪ハンターは人間の根源的な知的欲求、未知、何故世界は存在するのかというあまりに壮大で抽象的な概念を諸星大二郎の線に還元している。このいまにも崩れそうで保っているような不気味な線の快楽が我々を未知の世界へ引き込んでくれる。妖怪ハンター最も異端かつ独創的な漫画153わかる
線セーショナル3ヶ月前あのデスノートやバクマン。を生み出した現存する原作者の中でもトップの大場つぐみは、心理サスペンスや漫画家を目指す二人のドラマなどを頭脳明晰に展開する力はあるが、物理的に相手を倒すというアイデアになると、途端にバトルシーンの振りであるドラマが安っぽくなってしまっている。それぞれが戦わなければならない動機の部分とそれに関係するドラマが安直で悪い意味でベタである。 一方、こちらも漫画界では最高峰の画力とされている小畑健も丁寧かつリアルに描く力はあるが、そもそもこういうリアルな絵を描くタイプの漫画家は線がガッチリとブレなく描かれているため、絵が止まってしまっている。ポーズにはなっているが、アクションになっていない。構図やカメラワークもやたら大ゴマの角度の効いた絵を描くが、それを繰り返しすぎて、段々と迫力に慣れてしまう。あと、この男は引きの絵が全然描けないのでキャラクター位置関係の提示も下手である。 プラチナエンドこの二人は運動を描くのが下手44わかる
線セーショナル3ヶ月前原作者のONE特有の過剰に最強であるが故に、無気力という主人公の漫画は最初は読んでいて楽しいが、何十巻と続けられると、こんなもんでいいかの連続となっていて、結局脇役のドラマとして描いて一番ピンチの所で水戸黄門的に主人公が来るまでの一辺倒なストーリーとなってしまう。 作画の村田雄介も、漫画家で最高の画力と賞されるが、実は少年マンガのトップアシスタント的な少年マンガの究極のテンプレ画である。技術はあるが、個性がない。彼の線は商業的な手癖の無い安定的な線である。つまり作家性が無い。 この漫画を読んで、何か人生の大切な教訓や大きな感動が得られる訳ではない。あくまで、敵を倒すカタルシスを麻薬的に受容しているだけである。以上のことからサイタマが敵を倒すたびに、無気力になるのと同時に、読んでいる私の心も無気力になるのである。ワンパンマンドラマ性がなく快楽主義的27わかる
影絵が趣味1年以上前まず『望郷太郎』というタイトルからは望月峯太郎の名前を思い起こさせずにはいられない。いまでは望月ミネタロウとして活動している、あの望月峯太郎である。彼はやはり『ドラゴンヘッド』を境に名前をあらためたのだと思う。次の連載作の『万祝』は望月峯太郎名義ではあるが、内実は峯太郎→ミネタロウへの過渡期、もしくはミネタロウ名義の作品と位置づけられると思われる。というのは『ドラゴンヘッド』を境にして、動的で黒いコマ作りが、静的で白いコマ作りに変貌しているからである。これはマンガ家としての作家性を追求するための"閉じた"姿勢であると思う。逆にいえば、それ以前の望月峯太郎は"開いて"いた。開いて世間の荒波に揉まれる方向から、閉じて自らの作家性を研磨する方向へシフトしたともいえるかもしれない。 ところで『ドラゴンヘッド』をはじめ、あるいは岡崎京子の『リバーズ・エッジ』や『ヘルタースケルター』、新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』など、90年代~2000年代初頭のある種のマンガには、いわゆる世紀末感というか、何かが崩壊してゆく感覚、良くも悪くもそういうような時代的なスペクタクルがあった。あの時代からもうすぐ20年が経ち、来年には、なんとも荒唐無稽なことに、大友克洋の霊感まったくその通りに東京オリンピックが開催されることとなったが、辺りを見渡せば、大友が描いた雑多でゴタゴタしたサイバーパンク感あふれる近未来はどこにもなく、奇妙なまでに画一的でのっぺりとした嘘明るい光景は、本来のミニマリズムが追求する引き算的な美学における完成度の高さとはまるで無縁の心身共の貧しさからくる単なる経費削減であるし、おもてなしの心を履き違えてボランティアでオリンピックを運営しようなどと寝言をいう。ようするに世界の崩壊などは起こらずに、ただずるずると地盤だけが沈下してゆき、見てくれだけはどうにかそれっぽく体裁をととのえながらも、ただ確実に豊かさは随所から消え去っている。いっそのこと世紀末に世界を崩壊させて仕切り直したほうが良かったのではと思うほど、当時からすでに黄昏といわれていたのが、いつまでも沈みきらない夏の夕日のようにいまだ延命を続けている。あの時代には崩壊させるに足る世界がまだあった。しかし、いまではそんな舞台さえ、なにもなくなってしまった。無駄を省いていたら、無駄を省いていたら、無駄を省いていたら、ほんとうになにもなくなってしまったのである。いまや望月ミネタロウのように独自の作家性を発揮する高踏派のマンガ家も安心とはいえないのではないだろうか、何しろ地盤の沈下がいちじるしい。マンガも所詮はいち産業なので、地盤がどこまでも沈下してゆけば、独自の作家性もいつしか個人の趣味と見分けがつかなくなろう。 いま、山田芳裕の『望郷太郎』は、この"なにもない"ところから新たな一歩を踏み出そうとしている稀有なマンガであると思う。キャリアを重ねて閉じてゆく作家が多いなかであえて開いてみせた山田芳裕の冒険者的な勇気に敬礼を捧げたい。マンガ表現の限界を探求する閉じた作家が重要ないっぽうで、また彼らは開いた作家によってもその地盤を支えられているのである。望郷太郎"なにもない"ところから…9わかる
影絵が趣味1年以上前漫画というのは二次元+一次元(コマの挿入による時間の推移)で出来ています。しかし、私たちの日常生活は四次元として展開されていますから、漫画もそれに即していかなければ、リアリティのある物語を描くことができません。そこで漫画の本来の領分であるところの二次元に補助として光学を採用する、すなわちデッサンです。これにより漫画は、平面上にかりそめながら立体を再現することが出来たということになります。 はい、何を当たり前のことを言っているんだろう、という感じですが、諸星大二郎に限っては、この当たり前が当たり前ではなくなってしまう。何しろ、タクシーのなかでさえデッサンが寸分も狂わなかったと言われる手塚治虫、大友克洋が出てきたとき「あんな絵は僕にも描けるんです」と豪語した手塚治虫が「諸星くんの絵だけは真似できない」と言っているのですから。 つまり、諸星大二郎は他の漫画家のように二次元+光学の補助という絵の描き方をしていないんですね。『栞と紙魚子シリーズ』はそれがもっとも顕著なんですけども、彼女たちの暮らす胃の頭町(いのあたまちょう)はなんかよくわからないけど異界に通じているらしい。その異界の異界ぶりをもっともよく表しているのがクトル―ちゃんのお母さんですよね。あの顔の目茶苦茶でかいお母さん、あれはどう考えてもデッサンでは描けない。あの顔で、いったいどうやって段先生のボロ屋に収まっているのやら。もしあれをデッサンで描こうものなら、それこそ二次元でも三次元でもない空間の捻じ曲がった異界が爆誕してしまう。というか、この爆誕してしまった異界こそが諸星大二郎の絵なんです。 とくに栞と紙魚子が姿のみえない首輪だけのペットを散歩させる回は秀逸でした。ペットに引っ張られて段々と異界に迷い込んでゆくわけですけど、その行く先のエステサロンにクトル―ちゃんのお母さんがいる。お母さんは「あら~、こんなところでお目にかかるなんて珍しいですわね」とか何とか言って、エステのマシーンから引き伸ばされたうどんみたいな姿で出てくるんです。もう、何がなんだかわからないでしょう。でも、これを大真面目に描いてしまうのが諸星大二郎なんです。栞と紙魚子シリーズ二次元でも三次元でもなく、ど次元!!6わかる