ねじまきカギュー

好き好き大好き超愛してる。

ねじまきカギュー 中山敦支
ぱにゃにゃんだー
とは舞城王太郎の小説のタイトルですが、カギューちゃんのカモ先生への愛情はまさにこんな感じだなと思う次第であります。あらすじには「“バトル×純愛×個性的キャラ”を最驚の表現で抉り出す!!!」と書かれていて、おおよそここから予想できる通りの内容で、だいたい想定外の作品になっています。なので、期待した通りの面白さは得られますし、期待を裏切られる楽しさも得られます。だから、読んでなかったら読むのをお勧めします。 ねじまきカギューあるいは中山敦支という作家が好きなところは主に二つあります。一つ目は行間の使い方です。 言うまでもないことですが、一コマ一コマの枠線の外側には、小説では行間と言いますが、何もない空白がありますよね。彼はその空白の使い方が上手です。 この空白は漫画という表現の特殊性のひとつだと思いますが、考えてみれば不思議な存在です。見栄えとしては連続性が絶たれているのに、読むという行為によって自然と補完され、損なわれることがありません。きっと、一つのコマの意味を理解し、それまでの流れを汲み取り、行間という空白では描かれていない何かを補完することで、間隙の表現形態である漫画の読書体験が成立するのでしょう。 つまるところ、漫画を読むとはコマとコマの間に存在する空白を埋めつつ読書すること。しかし、中山敦支という漫画家は、それまでのコマが指し示した方向に沿って読者が埋めた空白をぶち壊して、全く未知の展開を次のコマでいきなりぶん投げてくるわけです。下手な例えで恐縮ですが、愛し合う二人が感動の再会を遂げた次のページで、出刃とドスで相手の腹を刺しあっている、みたいな。漫画家と読者の間のお約束的な予定調和を次々と破壊していく。それでいて物語の大筋は崩さず、むしろ深度を増していく手段としています。 漫画を描いたことがないわたしがいうのもなんですが、きっと漫画を描き始めたとき、このコマとコマの間の意味的距離感に戸惑うと思います。離し過ぎては伝わらないし、近過ぎては冗長になる。しかし、中山敦支は適度に伝えた上で裏切る。間隙の美とは(わたしが今思いついたのでこんなものがあるのかは不明ですが)、彼に与えるべき賛辞だと思うわけです。 さて、中山敦支の好きな二つ目。これはもっとシンプルで作画力です。美術的なことに明るくないのでわかりませんが、ねじまきカギューはポップな感じの絵柄でキャラクターが描かれています。パワーパフガールズをもうちょっと日本風に味付けし直した感じ。原宿っぽい気もする(よくわからないけど)。ですが、彼自身はおそらく割と正統派な漫画キャラも描けるし、あるいはもっと荒々しくも描けるはずです。全体的には和製パワーパフ(としておきましょう)ですが、要所要所ではそのスタイルも崩して多様な描かれ方がします。感心したのがキュビズム的なのも取り入れられていて、すごいなぁと思ったわけです。そういう意味でも見ていて飽きない作画力のある漫画家だと思います。 あとですね、雑誌派の方もいるとは思いますが、単行本の描き下ろしオマケ漫画でほっと胸をなでおろすことができるので、まぁこれを機に雑誌派も読んでもらえると嬉しいかな。 またもや、長々と書いてしまいましたが、ねじまきカギューは絶対個性主義(キャライズム)を校訓とする学園を舞台としております。そして、物語はトラウマイサーへと続くわけです。ぜひこちらも。
リビドーズ

ヤンジャンの新連載でいま一番楽しみ

リビドーズ 笠原真樹
吉川きっちょむ(芸人)
吉川きっちょむ(芸人)
絵に見覚えあると思ったら「群青戦記」の人か! この新連載は、ちょっと面白そうな設定。 「その病気」に感染した状態で男の性器が興奮状態になってしまったら発症・変異してしまい、全身が勃起時のように血管が浮き出て膨張し近くにいる異性に襲い掛かるというおそろしい症状だ。 その病気は少しずつ社会に蔓延しつつある。 バイト先のコンビニに店長、常連客の風俗嬢、クラスメイト・・。 そして、主人公。 主人公は奇跡的に感染をコントロールできるのか、どうか。 今後の展開としてはゾンビ的なパンデミックパニックものの方向へ進むとは思うんだけど、主人公はある事情から性的なことに嫌悪感も抱いている。 もしかしたら、そこが鍵になってくるのかもしれない。 主人公は病気の力を利用し好きなあの子の救世主になることができるのか・・! この病気を抱えたまま、ヒロインとイイ感じになってもセックスはもちろん、キスすらできないジレンマと戦うことになるだろう。 感染が拡大し社会が崩壊したあと、グループに分かれ生活し始めた時に主人公は感染しながらも自我を保つ異質な存在として迫害されるのか、英雄視されるのか。 感染したと誰にも言えないときに、きっとあの親友が助けになるんだろう。 陸上をやっていた経験も生きるかもしれない。 どういう方向に展開していくのか楽しみでならない! 誰しもが内に抱えている性という怪物を本当に怪物として描くこの作品。 序盤で、日常の理不尽さ、どうしようもなさを丁寧に、リアルに描写することで巻き起こる異常事態がより際立って見えてくる。 ここ最近のヤングジャンプの新連載攻勢の中では一番期待している。
キングダム

無数の事実としての、無数の奇跡としての・・・

キングダム 原泰久
影絵が趣味
影絵が趣味
いよいよ『キングダム』が化けの皮を脱ぎ捨てて、その本質を剥き出しにしてきたと思うわけです。これまで毎週のようにキングダムに夢中になっていながら、どうも周囲の熱狂ぶりから一歩身を引いてしまう自分がいました、自分の夢中になるポイントがどうも周囲とはズレているように思われて仕方なかったのです。 あるいは戦術的な細かな考察であったり、あるいは将軍たちの個性をマネジメント能力や経営論の名のもとにビジネス書にまでしてしまう素っ頓狂な連中、そろそろこういったものたちに厳しくノーを突き付けなければならないような気がするのです。やれキングダムから世間を語ろうがビジネスを語ろうが何を語ろうがそれはまったくの自由だが、そうすることでキングダムというこの漫画の一頁一頁に迸っている本来の魅力をうっかり見逃してしまいはしないか、そんな危惧があるのです。キングダムの魅力は、そんなふうに何かに援用されて語られるような二義的なものではないと切に思うのです。二義的であるというのは、すなわち根本的ではないということ。上記のような援用の仕草は、無数の事象の積み重ねによる幾重もの絡まり合いから途方もない事実として現前にあらわれる「いま、ここ」にあるものを単なる何かの理由からくる結果として弄んでしまう。 世間的には支離滅裂だと不評だった犬戎戦で、「元と正せば我こそが貴様らの祖、貴様らの王である」と因果論を振りかざすロゾに対して、フィゴ王は言わなかったか。 「何が王か、何が祖か、一体何百年前の話をしているのだ貴様は  貴様ら犬戎と我ら山の民は大きく違う  貴様らはこの平地の孤島遼陽に滞まり続けたが  我らは西の大山界で覇を争い戦い続けてきた  滞まるお前たちと違い、我らはそれぞれ夢に立ち向かう者」 まずフィゴ王は犬戎と山の民の違いを指摘してみせた、それはまさしく、ひとつの因果としての捏造された物語に組み入れられることへの拒否にほかならない、つまり、お前はお前だが、俺は俺だ、勝手に一緒にしてくれるなということ。その上で「我らは"それぞれ"の夢に立ち向かう者」、つまり、我らはお前が勝手にのたまう因果の物語には生きていない、我はそれぞれの目の前に瞬間ごとに立ちはだかるこの現実をしかと見据えている、ということだと思うのです。 そして最新話、散々騒がれた隊の覚醒とは、ひとはそこに因果を探りたくもなるものだが、じっさいには単なる因果とはまるで無縁の、いや無数の一瞬一瞬からくる因果のはてに荒唐無稽と呼びうるまでになった途方もない現実の積み重ね、ほとんどそのひとつひとつが奇跡ともいえる圧倒的に現前する事実また事実の一回かぎりの繰り返し、そのたったひとつとしての士気の爆発でした。 だいたい私たちはどんな因果の物語に括られようが、じぶんにこの先いったい何が待っているのか、そんなことは誰に言われるでもなくわかっているのです。同じようにキングダムの結果だってわかっているのです、秦は中華を統一して、やがて滅び去るのです。そして、ほかでもない私たちは秦が中華を統一した後の世界に生きている、そこにどんな因果があるだろうかはひとそれぞれにしても、とにかくこの事実だけはどうしてもひっくり返りようのない途方もない奇跡のような事実なのです。