少年は荒野をめざす

荒野から荒野へ

少年は荒野をめざす 吉野朔実
pennzou
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本作は『月刊ぶ〜け』(集英社)1985年9月号から87年9月号に連載された。初回掲載号の巻末にある編集室からのコメントで本作は「初の長期連載をめざした本格学園ロマン」と説明されている。ここから学園モノであった前々連載作『月下の一群』の好評(パート2が出るぐらい人気作だったようだ)を受けて企画された連載だと想像できるが、実際『月下の一群』の話数を越える長期連載となった。 それまでの作品で培われた技量や心理描写が存分に発揮された、初期の吉野先生の総決算的作品である。 幼い頃の狩野都は入院生活をしていた兄の目であり足であった。狩野は自分と兄の区別をつけられなかった。兄が亡くなる5歳まで、狩野は少年だった。女子中学生である今も、少年でいたいと願っている。狩野は黄味島陸と出会う。陸は5歳の狩野が少年のまま成長したような姿をしており、狩野は陸に理想の自分を見出す。理想の自分がすでに存在するのなら、現実の自分は存在しなくていい。そう感じた狩野は逃げ出す。陸を殺さないために。 これが序盤のあらすじである。以降は狩野だけでなく陸の内心も明かされ(陸もまた、複雑な内面を持つ少年である)、より広い範囲にリーチするテーマを持つようになる。 自分は少女だったことはない。だから何を言っても的外れになる気がする。ただ現実の自分という存在への疑問というのはきっと誰にだってある一般的なもので、それはいつまでも続くと思っている。すごく雑にいうと、「これ自分じゃなくても代替可能だなー、ならそもそもいなくても大丈夫じゃね?」みたいな感じ。 スペシャルになることがない人、言ってしまえばほとんどの人は、その問いに対する答えを持っていないはずだ。それがどうしたと問いそのものを蹴っ飛ばす、現実に在る自分を認める、ないしは諦めるかしかない。(もっとも、この問いが見えないぐらい他の事柄に追い込まれてるという場合もあるのだけど、それは本作で描かれる領域の外にある別の途方もない問題) (以下は既読者に向けて書いているので、知りたくない人は次の段落まで飛ばしてください) この物語の結末でも、狩野は逃避の果てに現実の自分だけが自分であることを受け入れざるをえなくなる。その表情から晴れやかさは読み取ることは出来ない。得られたのは「書き続けよう」や「書き続けたい」という自発的な意志でなく、「書き続けなければならない」という運命。荒野を冒険して行き着くのも、荒野なのだ。これは狩野よりうんと歳をとった自分の方が重々承知するところだったりする。吉野先生も『瞳子』(小学館、2001年)のあとがきで「年齢を重ねると少しずつ人生の謎は解けていきますが、だからといって不安が無くなるわけではないし、情緒が安定するわけでもありません。」と書いていた。 ではこの物語は、狩野の足跡は、何も意味がないものなのか? 以下はマーガレットコミックス版「少年は荒野をめざす」1巻(集英社、1995年)のカバー折り返しにある吉野先生のコメントの引用である。 「川の向こうで、自分と同じように不器用に、しかし必死に戦っていて、たまに手を振ると手を振り返している。対岸の戦友、『狩野』はそんな少女でした」 狩野は荒野にいる読者のひとりひとりに手を振っている。それが誰かの胸に深く届いて、荒野を行く・耐える力になる。自分はきっとそうあってほしいと願っている。 なお先述した「現実の自分いなくてもいいんじゃないか」問題、これについて答えは出せないと書いたが、実はひとつの解答が終盤でサブキャラクターにより語られている。この答えのやさしさはとても吉野先生らしいと思うし、自分に出来る最大限ってそれだよなと思ったりする。 絵について書くと、吉野先生的ベーシックが一旦の完成をみたのが本作だろう。冷たさを覚えるような、おそろしいほど美しく繊細な絵である。 特筆したいのが本作終盤に顕著なソリッドな線で、緊張感のある物語と合わさり特有の魅力がある。この硬質さは吉野作品ではあまり見られない傾向で、本作の独自性をより高めている。 余談ですけど当時の『ぶ〜け』はぶ〜け作家陣として内田善美先生や水樹和佳先生、松苗あけみ先生がいる上に、総集編にくらもちふさこ先生や一条ゆかり先生が掲載されているみたいな、画力の天井がはちゃめちゃに高い雑誌でした。そういう状況が吉野先生の絵をより研ぎ澄ましていったのでは?と自分は考えています。 本作で描かれる現実の自分/理想の自分といった一対、あるいは閉じた関係・世界は『ジュリエットの卵』や『エキセントリクス』など以降の吉野作品で度々取り上げられたテーマである。特に『ジュリエットの卵』は吉野先生自身がインタビューで「「少年は荒野をめざす」の主人公がわりと女を否定するところから描きはじめたキャラクターだったので、今度は全面的に肯定するところから描いてみよう」(『ぱふ』1990年1月号、雑草社)と語っているように本作での試みの変奏として描かれはじめており、発展的にこのテーマに挑んでいると思う。 他のテーマで見逃せないのが、時が経ち少年から少女・女に収束していく違和感や、女であるゆえに起きる問題への戸惑いや怒りだ。本作では狩野が陸から女として扱われない、しかし他人からは女として扱われてしまう、そのうまくいかなさを際立たせる意味合いが強いからか、切実ではあったが大きくはフィーチャーされていなかったように思う。このテーマは以降の『ジュリエットの卵』や『いたいけな瞳』収録の「ローズ・フレークス」、そしてなんといっても『恋愛的瞬間』……これらの作品で真摯に向き合われることとなった。 つまり、本作は初期作品の総決算であると同時に、以降に描かれるテーマの萌芽を含んだ作品で、吉野先生のキャリアを見通せるマイルストーンである。 個人的には、青少年期を扱ったこの物語自体が完成と未完成が両立する青少年的性質を持つ、この一致が色褪せない理由なんだろうなと思っております。うまく言えませんが……

子供はなんでも知っている

親同士が再婚して兄妹になっちゃったカップル

子供はなんでも知っている 岩館真理子
うますぎる棒

昨日読んだのですがマイファースト岩館真理子になった作品。おもしろかった!子供みたいだけど岩館真理子先生との出会いに興奮して眠れなくなるくらいだった。私ってまだこんな風にドキドキできるのね!と思った。おもしろい作品を読むと自分の年齢とか見た目とかコンプレックスみたいなものが吹き飛んで夢中になれるんだよな〜。恥ずかしいけどやっぱり自分も紗羅ちゃんになりながら読みましたね。ぶんぶん振り回されるとうたがかわいそう(笑)とも思うんだけど、とうたに「ぶった」とか「ひっど〜い」って言ってる紗羅ちゃんが可愛くって仕方ない。天真爛漫でありながら子供から大人になることの変化を誰よりも繊細に受け止めるとこもいいなって思います。わがままなとこもあるけど紗羅ちゃんを嫌いになる女の子は少ないと思う。女の子ってみんな紗羅ちゃん的要素を持ってると思うから。ラストの解釈が難しいですが大人になってもと二人は一緒にいるんだろうなと私は捉えました。大人になると世界が広がって考え方も変わるけど、この二人の関係のバランスの良さはずっと変わらない気がする。他の男の子に目移りしても「やっぱりとうたじゃなきゃダメなの!」なんて言ってる紗羅ちゃんが想像できます。