赤ちゃんと僕

子育て小学生が日本の家族観を揺さぶる

赤ちゃんと僕 羅川真里茂
あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ

母を亡くしたばかりの小学生・榎木拓也。彼の前には、泣いてばかりの弟、稔。母はなくても子育ては待ってくれない。家事に育児に忙殺され、苛立ち苦しむ拓也。それでも……やっぱり弟、可愛いかも。 —- ハートフルコメディというには、ちょっと息苦しく、それでも愛おしい作品である。 ほんの1、2歳の幼児にべったりで面倒を見る、思春期間近の小学生である拓也。子育てがうまくいかず、悩み、苛立つ彼の様子が、綺麗事を抜きに表現されるので、この作品で子育ての辛さに向き合うことになった読者の少女(そして私を含めた少年)は、ショックを受けたものである(昔話)。 家庭から目を外に向けると、拓也の前には、家庭や対人関係に苦しみ、傷ついた人達が現れ、捻じ曲がった言動を彼にぶつけてくる。 しかし拓也は、まっすぐさと優しさで彼らに接し、その捻じ曲がった心に気づかせて、本来の優しさを取り戻してやる。その優しい着地に私達は安堵しながらも、何か心を抉られたような痛みも同時に感じる。 家庭とは、性差とは、愛情とは……コメディに隠されて提示される問題意識は根深い。この作品を読んだ少女(私を含めた少年も)は、自分を支えている価値観や、甘く楽しい将来像を、激しく揺さぶられた。 2019年の今、この作品を読んでも、日本の家族観・性差の問題というのは、なかなか変わらない部分があるなぁ、と気付かされる。そういう意味で、1990年代のこの作品は今だに読まれる意味を持つし、この作品の問題意識を、新しいやり方で表現する漫画が、現れて欲しいと思う。 拓也の笑顔の向こうには幾千万の、年上・女(今作ではむしろ男)・母といった役割を押し付けられ、苦しんでいる人がいる。そういう人達のためにジェンダー論で戦う前に、まずはこの作品を読むことで、むやみに人を傷つけない、優しい解決を目指したい。

ニューヨーク・ニューヨーク

愛してるとその先

ニューヨーク・ニューヨーク 羅川真里茂
pennzou
pennzou

本作は1995年~1998年に花とゆめにて掲載された。話数単位とは別の章立てにより5つのエピソードに分かれている。それぞれのエピソードの概要は、Episode I:ケインとメルが出会い強固な絆で結ばれるまで、Episode II:ケインの両親へのカムアウト、Episode III:ケインとメルの結婚、Episode IV:メルをさらったシリアル・キラーをケインが捜すサスペンス、Episode V:養女を迎えた二人の生涯となっている。このように、物語は二人がまず結ばれるまで(Episode I)よりもそれ以降の長い時間(Episode II~V)を描いている。ここに絆がより強固になっていく様を描こうとする作者の意図が見えるし、それは成功していると考える。 ゲイであることとそれにより生じる苦難は本作の大きなテーマだが、異なる理由で生じる問題もある。例えばケインの言動が無遠慮で本当にひどい時がたまにあり、それゆえに起きる問題もある。このキャラクターの性格・行動にいいところもそれはどうかと思ってしまうようなところがあるのも本作の特徴だ。一人の人間が持つ複数の面が描かれている点は本作の射程の広さになっている。 射程の広さでいえば、ケイン・メルを取り巻く人物はそれぞれ異なる考え方を持っており、その人間模様や変化も魅力である。特にEpisode IIで描かれるケインの両親との物語は本作のハイライトだろう。大きくは扱われないが、Episode IIIで描かれるゴーシュの件も気を引き締められる。 Episode IVでメルがさらわれるのはメルがゲイであるから起きた問題ではない。さらに言えばシリアル・キラーを追う展開であり、この要素だけを見ると別の物語のようだが、犯人とメルとの相似やケインとメルが試練の中で互いを想うことは物語をより強いものにしている。また、スリリングな場面・描写もあり別の読み口が楽しめる点も良い。 先に述べた通り、本作は90年代中~後に描かれている。そのため、これは当たり前なことなので野暮を承知で書くが、当時は先鋭あるいは常識的なことだったのだろうが現在では古いように感じられる部分も散見される。古く感じられるのは昔より進んでいる証左であり、良いことだと思う。しかしながら、同時にそれは「自分はそういった思想・文化のアップデートをちゃんとキャッチアップして血肉にできているのか?今後もできるのか?」という自問を発生させるわけで……その、かっこよく生きたいものですねと思うばかりです。

メイプル戦記

漫画史に煌々と輝く魔球、その名もハクション大魔球!!

メイプル戦記 川原泉
影絵が趣味
影絵が趣味

マンガとはひとつに夢をみさせてくれるものでしょう。そして魔球とは正しくすべての野球ファンにとっての夢……。そんな夢をみさせてくれるマンガとは、あるいは魔球とともに歩んできた歴史なのかもしれません。 そもそも事の始まりはこうなのです。プロ野球界に女性だけで構成された新球団ができる、その名も「スイート・メイプルス」。もうこの時点で夢のような話なのです。こういって差し支えなければ、メイプルスの面々は、男だらけの球団を相手にまったく出鱈目と積極的に言っていきたいほどの懸命さと天真爛漫さで勝ち上がっていきます。この途方もない出鱈目さ加減がほんとうに感動的で胸を打つ。男たちを相手に女性だけのチームがどうやって勝っていくのか、なんていう、説明責任はこのマンガには端から存在していないのです。 マンガに関わらず、いま、あらゆるものに説明責任なるものが蔓延しているように思われます。しかし、それはなんと窮屈で不自由なことだろうとも思うのです。説明責任とは、アレはしていけない、コレはしてはいけない、というふうな否定的で不自由に方向にしか物語を運んでいかないことでしょう。そんな説明責任なるものから始めから自由になっている『メイプル戦記』は、それ故に感動的としか言いようがないのです。私たちはまだ見たことのない魔球を見てみたくてマンガに熱中するのではなかったか、私たちはまだ見たことのない夢を目の当たりにしたくてマンガに熱中するのではなかったか。私は『メイプル戦記』ほど自由で豊かで感動的なマンガを他にあまり知りません。