『ミヨリの森』小田ひで次の入魂感じる名作です https://manba.co.jp/boards/31433 東部克彦にはある『病』があります その鍵ーそれこそがまさにこの『拡散』 この名作の感想を投稿するにあたり 『拡散』という言葉をもう一度調べてみました =================== かくさん 【拡散】 《名・ス自》 1. 広がり散ること。 「核―」 2. 一つの液体に他の液体を、あるいは一つの気体に他の気体を入れた時、 二つの物体がだんだんと混ざり、全体が等質となる現象。 =================== まさに、です。 (それってどういうこと!?と何処を切り取ってもネタバレになってしまうのですが) 圧倒される画面と 線の一本一本、画面の一つ一つに 拡散された主人公の息吹まで感じるようです ストーリーの方 最初に読んだ時”甘酸っぱい展開かな?男女の恋かな?”と思ってしまった私が甘かったです ええ…どうして…なんで… と頭を何度も捻っては読み返してしまうようなストーリーとラストです 何度も読み耽ってしまいますが 読み込むうちに『彼の目線で世界を見る』とどんな風に映るんだろうと 最近思います (お話が難しいところが多いので 逆に"彼目線"になってみたら譜に落ちることがあるのではと 思ったのですが) やはり、生きていると感じる 自分と他者の違和感…そんな部分に共通点を感じました どうしてみんなは拡散しないんだろう 何故自分は”普通"でいられないんだろう そんな私の感想もタイトル通り拡散し始めてふわふわと答えが無くなってきました… 読んでいただきこの拡散感を誰かと共有したい気持… レビュー書き終え…ま… あっ…私も拡散しそう……
どこまで本当の話か分からないけど面白かった!スランプに苦しんでる1巻より、漫画家としての仕事が充実してきた2巻の方が読み応えあるかも。いつか読もうと思ってた「拡散」が月産7ページ、年1連載、6年かけて完成した作品だって知らなかった…。これは心して読まねば…。「拡散」の元担当さんが度々登場して結構厳しいことも言うんだけど、小田ひで次の一番の読者はこの人なのかもと思うような愛情を感じましたね。岩手にある実家の本屋が閉店する時に小田ひで次、黒田硫黄、五十嵐大介、小原愼司の合同サイン会をしたって話は本当なのだろうか。笑っちゃうくらい豪華だな〜!
※ネタバレを含むクチコミです。
じぶんの存在が拡散して、塵や空気のように雲散霧消してしまう少年の物語という触れ込みですが、とんでもない! そんな手では触れられないようなヤワな物語ではありません! と、まずは言っておきたい。むしろ、ザラザラとして、ゴツゴツとして、きわめて肉感にあふれる物語だと思います。 物語、あるいはもっと一般的に語りというものは、基本的に拡散しがちなものです。放っておけば、しぜんに拡散します。ですから、物語の話者たちは、語りが自然に還らないようにあれこれと工夫を凝らす。塵や空気のようにではなく、ひとつの結晶たろうとするんです。まあ、しかし、どんな物語も、どんなに強固そうにみえる結晶も、拡散してしまう運命からは逃れられない。むしろ、より強靭な結晶力をもつ物語ほど、みずから率先して拡散しているようにさえ思えます。たとえば、スピノザは『エチカ - 幾何学的秩序に従って論証された』で、神の証明を試みましたが、そのあまりにも強靭なテキストは、答えに辿り着くさいごの一点で、まるで、てんとう虫が枝の先の一点に辿り着いたときのように拡散しているように思われてなりません。 ほとんどの物語は、みずからの語りの結晶が拡散してしまうなど想像してもいないなか、それがより強靭で精巧な語りになってくると、みずからの拡散を予見してしまうようなところがあるんだと思います。それにつき、この『拡散』は、結晶が拡散してしまうところから始まっている。ほとんどの物語のように結晶を形作ろうとすることを目的としているのではなく、拡散してしまわないよう抵抗することを目的としているんです。 でも、だからといって、何ら特別なことをしているわけではないんです。むしろ、ほとんどの一般的な物語のほうが特別といいますか、ほんとうに魔法のように語りを紡いでいきますよね。とても大好きな物語はいつだって魔法のようです。が、『拡散』には、そんな魔法はありません。『拡散』にあるのは、結晶が拡散して消え入らんとするのを随所でどうにか防ごうとする草の根の抵抗活動のみ。それはそれは地道な、魔法とは程遠い、泥くさい作業の連続。それは川のように海へと拡散してしまう語りに、ひたすら瘤を穿っていくかのような地道な作業。でも、そんな瘤のひとつびとつが『拡散』にザラザラとして、ゴツゴツとした、物語ならざる肉感を与えているのだと思います。
何をやっても、それなりに上手くできてしまうひとっていると思います。そう、たとえば、誰とでもで卒なくコミュニケーションをとることができたり、あるいは、そう、なんとなく漫画を描こうと思ったら、それらしいものが描けてしまったり。そういうふうに描かれた漫画には、それぞれに素晴らしいものがあったり、大したことのないものがあったりすることでしょう。それすなわち、世にあるほとんどの漫画のことです。なにか情熱のようなものがあるにせよ、ないにせよ、描けてしまえなければ漫画家にはなれませんからね。 そういうふうに描かれてしまった漫画のなかに、極稀に、なんだか異質なものの紛れ込んでいることがあります。そう、たとえば、小田ひで次の漫画とか。こういう言い方をするのは個人的にはあまり好ましくないんですけども、こう言うほかはなさそうなので、仕方なく漏らしてしまうと、わからないひとには多分一生かかってもわからないと思います。でも、わかるひとには1ページ目ですぐにわかってしまう。 吃音ってあるじゃないですか。口から上手く言葉を発せられないやつ。あれみたいなものなんです。ふつうになんとなく言葉を発せられるひとには、どうしてそこで吃ってしまうのか想像することもできないと思うんです。これはあくまでも比喩なので、もうすこし膨らませてみましょう。心の吃音というのもあると思います。表向きには平然を装っていても、心のなかでは何か釈然としないものがあって、ほとんどのひとには気づかれないけれど、気づいてしまうひとが極稀にいるといったような。 もう少し具体的に、小説の吃音という例を出してみましょう。学校の授業でも何でもいいです、小説を書く機会があったとしましょう。きっと、ほとんどのひとは、面白いか、面白くないかは別にして、それなりのものを書けてしまうと思うんです。ところが、極稀に、異質なものが紛れ込んでいる。ひとえに小説を書くといっても、まず人称をどうするか、という問題があります。私にするのか、僕にするのか、俺にするのか、彼にするのか、小林にするのか、Kにするのか、君にするのか、あなたにするのか、まあ、とにかく無数の選択肢があります。ほとんどのひとが、私が小林くんのことを好きになったのは~、とか、ある朝、小林が不可解な夢から目覚めると~、とか、何の躊躇いもなく語りを始めるのに対して、極稀に、そんな人称からしてすでに躓いているような異質な小説があります。書くうえでは人称はどうしても必要になってきますから、それらしく書かれてはいるものの、読むひとが読めば、その人称に吃りの生じているのがわかってしまう、そんな小説があるんです。 小説に吃音があるのなら、もちろん漫画にだって吃音はあります。そう、たとえば、小田ひで次の漫画は吃音のオンパレードと言ってもいいかもしれません。吃りながらも、どうにか粘り強く描いていこうとする姿勢がコマの端々に感じられるんです。そして、言わずもがな、ここに描かれるミヨリもまた吃音のひとですよね。どこへいても、なにをやっても、なにかこう、釈然としない。でも、それでも、どうにかやっていこうとする。だからこそ、そんなミヨリが何かを決意して行動に移すとき、携帯を川に落とすときでも、拳銃をぶっ放すときでも、私は魔女の孫よとしょうもない嘘をつくときでも、死ねえーーいとボールを投げるときでも、そんな時々に圧倒的なパワーを感じるんです。 わたしは、わたし自身が吃音のひとだからなのかもしれませんが、『ミヨリの森』のような吃音の漫画がとても好きです。 P.S. 作中にでてくる固有名詞の、黒田と大介は、やっぱり黒田硫黄と五十嵐大介のことなのでしょうか。
私が中学生だった頃「ソフィーの世界」という、哲学を題材にした本が流行ってましたが、あの本が読みこなせなかったんですよね…。この漫画もタイトルや世界観に近いものを感じました。 「クーの世界」も、現実世界の死や、心のありかたに関する悩みが中心にあります。ソフィーのように難解で哲学的な言い回しはなく、説教くさいところもないので読みやすいです。純粋に作品世界に浸りながら、主人公と一緒になってあれこれと悩んだり、心について考えながら楽しめました。 ちなみにこの本は講談社版と秋田書店版がありまして、秋田版には描き下ろしページとあとがきが加筆されています。 https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253104711 作者の小田ひで次先生によると、親戚の姪っ子さん達に楽しんでもらうようにと描かれたそうです。まるで「不思議の国のアリス」を生み出したルイス・キャロルのようなエピソード!なんて思いましたが、ちょっと言い過ぎでしょうか。大人でも充分楽しめる作品ですが、できれば自分も思春期の頃にこの作品に出会いたかったなあと思うばかりです。
身体が塵みたいになって拡散してしまう「病気」で、自分の意志ではどこに移動していつ実体化するかコントロールできない男が時間と空間を超えて色んな人と出会う。 この設定や世界観で小説『マレ・サカチのたったひとつの贈り物』やドラマ『Stranger Things』を思い起こしたが、描かれたのは1992年。完成までに6年かかったらしい。 話されている言葉がかなり内省的で、何を言っているのかよく分からないのだけど、とにかく絵に迫力があるので、目で追うだけでも「不思議な体験したなぁ」と思えるくらい没入できる。
『ミヨリの森』小田ひで次の入魂感じる名作です https://manba.co.jp/boards/31433 東部克彦にはある『病』があります その鍵ーそれこそがまさにこの『拡散』 この名作の感想を投稿するにあたり 『拡散』という言葉をもう一度調べてみました =================== かくさん 【拡散】 《名・ス自》 1. 広がり散ること。 「核―」 2. 一つの液体に他の液体を、あるいは一つの気体に他の気体を入れた時、 二つの物体がだんだんと混ざり、全体が等質となる現象。 =================== まさに、です。 (それってどういうこと!?と何処を切り取ってもネタバレになってしまうのですが) 圧倒される画面と 線の一本一本、画面の一つ一つに 拡散された主人公の息吹まで感じるようです ストーリーの方 最初に読んだ時”甘酸っぱい展開かな?男女の恋かな?”と思ってしまった私が甘かったです ええ…どうして…なんで… と頭を何度も捻っては読み返してしまうようなストーリーとラストです 何度も読み耽ってしまいますが 読み込むうちに『彼の目線で世界を見る』とどんな風に映るんだろうと 最近思います (お話が難しいところが多いので 逆に"彼目線"になってみたら譜に落ちることがあるのではと 思ったのですが) やはり、生きていると感じる 自分と他者の違和感…そんな部分に共通点を感じました どうしてみんなは拡散しないんだろう 何故自分は”普通"でいられないんだろう そんな私の感想もタイトル通り拡散し始めてふわふわと答えが無くなってきました… 読んでいただきこの拡散感を誰かと共有したい気持… レビュー書き終え…ま… あっ…私も拡散しそう……