私は漫画を愛してはいない、線を信じていない作家は嫌いなのだが、五十嵐大介は唯一例外である。五十嵐大介は恐らく漫画とは別の抽象的な目に見えないもの(生命への愛やアニミズムなど)を信じている気がする。五十嵐大介の線は他の誰かから影響を受けた形跡がほとんど皆無で、油絵を描くようなタッチで線を加えていく。彼は別に自分の表現したい事がたまたま漫画が描きやすかったから漫画を描いてる感じがする。 五十嵐大介は漫画を愛してはいないが、漫画が五十嵐大介を愛しているのだろうか。
グミの木の存在は知っていたけど食べたことはない。読み進めるとグミをザルで、こして砂糖を入れて煮詰めているシーンがとても美味しそう。そのあとすっぱいで終わるオチが好きw次はどんな料理が出てくるのか、料理じゃないのか気になります。
※ネタバレを含むクチコミです。
都会の生活に疲れた田舎で農業して暮らしたい、なんて話を聞くと馬鹿じゃないの農業なめんなと思ってしまう。田舎出身ではあるものの、別に実家は農家じゃないし農業経験なんてないのに。 明らかに田舎で育った者には、田舎への負い目と誇りが入り混じった謎のアイデンティティみたいなものがあるのだと思う。 だから、という訳ではないけど凄く響いた作品。 ゆったりした時間が流れているように見えるけど、畑と向き合うのは命と向き合うことだから結果的にいち子は自分と向き合えたのかなあなんて思った。 同じことを感じたひとがほかにいるかはわからないけれど、作物を収穫して食べる行為が妙にエロティックに感じられた。生命活動の原点だからなんだろうな。生きるって眩しい。 発酵しすぎた米サワーのエピソードがとても可愛くて好きです。
或る時、何物かに魅入られる。 彼らは逸脱した所に誘い込む。気味の悪い触感を伴って。 土や砂、羽毛、目玉、祟り、経血や性交……生々しい触感が纏わり付きながら、自分で進んでいるようで結局大きな物に逆らえない、そういう神話や不思議語りが幾つか、語られる。 物語の終局も、常に大きな物、よく分からない意思や現象に支配されている為、結局人間の言葉では、「よく分かりませんでした」と言うしかない終わり方を、しばしば迎える。 そして残された人間の喜怒哀楽とは全く関係無く、異形が彷徨い、画面は途絶える。 手触りばかりがリアルで恐ろしい「よく分からない」神話や説話。それは、心地良いばかりではない豊かな感情を、一言では言えない複雑な感慨を与えてくれる。 そういう感情を受け入れるか否かは、その人の生きる態度そのもののような気がする。
例えば友人と話していて、とりとめのない話をしてしまうと、「オチがない」と叱られる。何故、彼は怒るのか。それは、辻褄のあった、納得出来る結末に安心したいからだろう。 では、彼に怪談をするとしたら? 怖い体験談に「オチ」をつけようと語り続けるうち、ふと口をつぐむ時が、恐らく来る。見えなくなった者達、常識の埒外にいる者達を、語り続ける事は出来ないからだ。 「え、結局なんなの……?」 「よく分からないんだ……」 というやり取りに至り、はじめて相手は、ヤバい事を聞いていると気付き、ゾッとする。 「現代の」民話集と言える『はなしっぱなし』。幻想的な物語は、根源的な理解の及ばなさに終始する。不可思議で恐ろしい出来事が、異形の存在が、微細で遠大な世界観が、語られるままに描かれ、「はなしっぱなし」のまま、オチなく放り出される。 脈絡などない。語り手は豊かで生々しい体験だけを語ると、そこから先は踏み込めない、と急に口を閉ざす。 そうして語られる現代の幻想譚には、ペンのストロークを緻密に重ねる絵の美しさと相まって、まるで見世物小屋のような恐ろしさと、妖しい魅力、そして妙な懐かしさがある。嵌る人は本当に癖になってしまう、珠玉の不思議世界。 理解するのではなく、画面をそのまま味わいたい。
物語をひとつの凝固した結晶のようなものに例えるならば、物語ならざるものは水とか空気とか流動的で不定形なものに例えられるでしょう。 『はなしっぱなし』での商業誌デビュー以来、『そらトびタマシイ』、『リトル・フォレスト』、『カボチャの冒険』など、五十嵐大介はいちおうマンガ家という身分でありながら、物語の外へ外へと行こうとする傾向、物語ならざるものを描こうとする傾向があったように思います。それはペンタッチにも如実に顕れていて、一級の物語を量産した手塚治虫のガチッとしたペンタッチとは正反対に、絵がどこかへ漂いでてゆくかのような不定形なペンタッチをしています。まるで霧みたいな絵ですよね。 そんな五十嵐大介がはじめて物語と向き合ったのが『SARU』なんだと思います。猿、すなわち『西遊記』の孫悟空。いまも形を変えながら広く世界中で読まれ続けている中国四大奇書の『西遊記』は、三蔵法師が天竺を目指して旅をする明時代に成立した長編小説ですが、いまひとつ著作者がわかっていない。つまり匿名の物語なんです。物語の匿名性については狩撫麻礼の『オールド・ボーイ』にも詳しく書いたのですが、匿名の『西遊記』はしかし、実在したといわれる唐時代の僧、玄奘三蔵が記した地誌『大唐西域記』を基にしている。『西遊記』は『大唐西域記』の史実に則りながら、玄奘三蔵が旅した各地に伝えられた三蔵や猿にまつわる逸話を無数に盛り込んで、虚実入り乱れる一大伝奇小説に発展していったものなのです。 おそらく五十嵐大介はある時に気がついた、物語の外へ外へ行こうとするばかりではダメだということに。そこで物語の内部に入り込んでみた。すると物語はマトリョーシカのような入れ子構造になっていた。『西遊記』の基に『大唐西域記』があり、『大唐西域記』の実際の旅の行程が各地に伝説を残し、その残された伝説を吸収して『西遊記』が膨れ上がるといったように。 入れ子をひとつずつ外して内部に侵入するたびに匿名性が膨れ上がる。そして、ついに究極の匿名性に至ったとき、物語は作為的に凝固するのを止め、水や空気のような流動的で不定形な自然に還る。この自然を五十嵐大介は『SARU』で実現してみたかったのではないでしょうか。さらに『SARU』での試みは『海獣の子供』にも伝承という形で受け継がれていると思います。
僕の曾祖母は信州の山奥の村でまじない師をしていました。その村は、とにかくマムシが多く、噛まれて死んでしまう人が後を絶たなかったそうです。ある時、通りかかった旅の僧が、うちの先祖にマムシ毒に効く薬草とまじないを伝えました。その力は確かで(実際、マムシ毒に効果があるアルカロイドは植物由来であるそうです)、血清が普及するまではたくさんの人を救ったそうです。その薬草とまじないは代々長男の嫁に受け継がれてきたのですが、それも、ここ三代続いた嫁姑大戦争によって途絶えてしまいました。 自分のすぐ近く、当たり前の生活の中に、超自然的なものとの繋がりがあるのはとても不思議に感じます。 『魔女』に描かれるのは様々な魔女です。草原に住む魔女もいれば、都市に住む魔女、雪国に住む魔女や、ジャングルに住む魔女がいて、それぞれが違う体系の魔法を使います。ただ、自然と人間を仲立ちする者として魔女が存在するということだけが共通しています。 「KUARUPU」で描かれるのはジャングルに住む魔女。森を破壊し、開発しようとする政府に反対する魔女クマリは最後の手段として自分をエサにして森の強力な精霊を呼び寄せます。政府軍は先も見えない白い霧の中、緑の地獄を見るのですが……。クマリたちの一族は自然と共に生き、森を支配する精霊の力を得てきました。しかし、自然から切り離され精霊を信じない人間たちには、生命の尊厳を問う霊の声も届くことはありません。ただ最後に彼らは畏れるべき精霊の世界を目の当たりにするのです。 『魔女』に登場する精霊や魔術の世界は荘厳だったり、気色の悪い異形だったりさまざまなものが描かれています。そこにはモザイク画のような美しさがあります。細やかなものの集まりが全体を構築していくというモザイク画の美しさはこの作品のテーマそのものを表しているようにも思えます 誰かが生み出したもの、作ってくれたものの実態を知らず、出来上がったものの上でしか生活していない我々と違って、魔女たちの生活はそのどれもが自分で得た経験と行動を根っことした地に足がついたもの。今、目の前にあるものとが全ての宇宙につながっている……そんな宇宙を感じさせてくれる、『魔女』稀有な作品なのです。。
結構な田舎に住んでいますが、もっと山奥に移住して この漫画みたいに自由に猫を飼ったら楽しいだろうなぁ と思ってしまいます
私は漫画を愛してはいない、線を信じていない作家は嫌いなのだが、五十嵐大介は唯一例外である。五十嵐大介は恐らく漫画とは別の抽象的な目に見えないもの(生命への愛やアニミズムなど)を信じている気がする。五十嵐大介の線は他の誰かから影響を受けた形跡がほとんど皆無で、油絵を描くようなタッチで線を加えていく。彼は別に自分の表現したい事がたまたま漫画が描きやすかったから漫画を描いてる感じがする。 五十嵐大介は漫画を愛してはいないが、漫画が五十嵐大介を愛しているのだろうか。