私的漫画世界|永島慎二|若者たち
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永島慎二は1937年生まれですので石森章太郎(1938年生),ちばてつや(1939年生)とほぼ同期の漫画家です。石森が上京後にすんなりと漫画家生活にはいったのに対して,永島はいばらの道をたどって漫画家となったという経歴があります。
永島は小学校3年の頃から漫画家になることを志望し,十代の頃に家出して多くの職業を転々としながら,漫画を描いていましたが,どれも長続きせず行き詰ります。その後は家族の支援を受けながら,昼は豆腐や納豆の行商,夜は漫画を描き,ときどきカット描きの稿料を得る生活を続けました。
■1952年:
「さんしょのピリちゃん」で漫画家デビューを果たします。このときの原稿料は6000円でした。当時の中卒の初任給が4000円ですから1.5か月分のかせぎということになります。
■1553-54年頃:
その後,「トキワ荘」に出入りするようになり,手塚治虫の知己を得てアシスタントになります。手塚がトキワ荘に居住していたのは1953年から1954年にかけてのほぼ1年間でした(手塚治虫公式サイトより)ので,その頃と推測します。
■1958-59年頃:
独立後は杉村篤(当時の筆名はコンタロー),石川球太,深井国(当時の筆名は深井ヒロー)らと「むさしのプロダクション」を結成しています。「むさしのプロダクション」の結成時期や解散時期はネット上にも情報がありませんが,1950年代の終わり頃と推測できます。
この時期の漫画界は「大手出版社の子供向け雑誌」と「貸本」に分かれていました。後者の読者層は青年・大人であり,両者は読者層と絵柄が明確に異なっていました。
子供向け雑誌では手塚治虫の流れをくむ丸い可愛らしい絵柄であり,貸本ではリアルな表現となっていました。貸本をメインに描く漫画家たちの間ではストリーからコミカルな部分を除去し,ドラマ性を前面に出す表現方法が模索され,その中から「劇画」が誕生します。
■1959-60年頃:
永島は手塚プロダクション出身ですが,その後は同じ国分寺に居住していた辰巳ヨシヒロ,さいとう・たかをや「劇画工房」のメンバーと交流をもちます。「劇画工房」の結成は1959年,分裂は1960年であり,分裂後は「さいとうプロダクション」に入社し,絵柄が劇画風に変わります。
■1961-64年:
漫画家残酷物語を執筆,この作品は劇画の影響を受けており,当時の漫画家の置かれていた厳しい現状を赤裸々に描いた作品として永島の出世作となりました。
■1964-66年:
生活困窮のため虫プロダクションに参加してテレビアニメ「ジャングル大帝」などで主に演出を担当しました。虫プロは2年半で退社し,再び漫画の世界に戻ります。
■1967-71年:
少年キングで「柔道一直線(原作:梶原一騎)」を連載します。同時に前衛誌の「ガロ」で多くの短編を,「COM」では「フーテン」を執筆しています。「若者たち」の巻末に掲載されている4編の短編はこの時期のガロに掲載されたものです。
まさしく,この時期は永島慎二がもっとも精力的に描いていた時期にあたり,同時代の青少年読者からは「青年漫画の教祖」と呼ばれるようになっており,大きな影響力をもつようになります。しかし,商業誌の柔道一直線は劇画とヒッピー文化に傾倒していく永島の感性から外れており,3年(実質は1年)で降板します。
永島の執筆活動に大きな影響を与えたのはヒッピー文化でしょう。1960年代の後半には米国で「ヒッピー」と呼ばれる新しい若者文化が大きな潮流となり,その動きはまたたくまに全世界に広がっていきました。
「ヒッピー(Hippie)」とは伝統・制度など既成の価値観に縛られた人間生活を否定し,より自然に近い生活に回帰する運動であり,日本では「フーテン」と呼称されていた時期もあります。
日本の漫画家では「永島慎二」や「水野英子」がヒッピー文化に大きな影響を受けました。永島は絵の勉強として米国に旅行し,実際に新宿でフーテン生活を経験して「フーテン」を執筆しています。水野英子も。単独自費で米国とヨーロッパの現地取材を行い,名作「ファイヤー(1969年)」を描いています。
■1970年代:
「若者たち」の執筆時期はネット上には情報がありません。単行本の「若者たち」の初版が1973年ですので,若者たちは1970年代の初めに発表されたと推測します。あるいは,作品の冒頭に記されている「昭和43年10月,青年漫画家・村岡栄(22歳)はその日ふたりのわかものをひろった」という一文の通りに物語は始まったのかもしれません。
永島慎二は「自分の主張を作品に込めている」とされており,それが「青年漫画の教祖」という評価につながっているのですが,「若者たち」には作者の主張は含まれておらず,当時の時代を背景に若者たちのありふれた日常が描き出されており,個人的にはこの作品の雰囲気がもっとも好きです。
1970年代には永島は「花いちもんめ」ほかにより第17回(昭和47年度)小学館漫画賞, 「漫画のおべんとう箱」により第3回(昭和49年度)日本漫画家協会賞優秀賞を受賞しています。
■1980年代以降:
漫画家としては半隠居状態でした。2005年6月10日,慢性心不全のため亡くなっています。享年67歳でした…合掌…